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第一部 2.疑念−6

 三日間にわたった謁見会のあくる日、普段より遅い朝食をとった後に移動した執務室。毎朝そこで、ゴーティスはその日の予定と城内の報告を受けることになっている。両辺が大人三人の両手を広げた長さぐらいしかない狭い執務室の続き部屋に、ゴーティスに加え、長官、女官長、サンジェルマンが入ったために、部屋は実際の広さ以上に窮屈に感じられていた。

「――怪我だと?」

 女官長からジェニーが手足を負傷した件を知らされたゴーティスは、よくも次々と話題の主となって自分の注意を引くものだと、ジェニーに拍手すら贈りたい気分だった。

「はい。私の目が行き届かず、大変申し訳ございません」

 女官長が深々と頭を下げるのを素通りし、ゴーティスは扉の前にたたずむサンジェルマンを疑わしそうに見た。ジェニーの負傷は、女同士の醜い争いの結果ではないのか。

 だが、サンジェルマンは微動だにせず、目を伏せているばかりだ。彼からは返答らしきものは得られない。ゴーティスは女官長に視線を戻した。

「階段をあがると言うたな? あの娘はどこへ行くつもりだったのだ?」

「はい、ニーナ様に呼ばれて部屋に向かう途中だったそうにございます」

 ゴーティスは、ニーナの激しい気性を思いだした。

「ふん、ニーナか。あの女がジェニーを突き飛ばしでもしたか?」

 彼がおかしそうに笑い声をあげると、女官長が身を乗り出してあわてて口をはさんだ。

「そのような事などめっそうもない、ただの事故にございますよ! ニーナ様も、他の方々もその当時はニーナ様の部屋に集まっておいでだったそうですわ!」

「他の者?」

「オルディエンヌ様にカトリーヌ様、アンヌ・マリー様に、それぞれの侍女たちも全員いたそうです」

「……ほう? アンヌ・マリーまでもが? それはよほどの余興があったとみえる」

 ニーナとアンヌ・マリーは、それぞれがゴーティスの元で相手をこきおろすような口をたたく。ゴーティスは、彼らの不自然な接触に興味を引かれた。

「ジェニーの怪我はどの程度だ?」

「両腕の傷と打ち身、右足も強く打ってうまく歩けないご様子です。侍医によると骨折まではされていないとかで、完治までには二週間ほどかかると思われます」

「なに、歩けぬのか? それはまた哀れな!」

 哀れとは言うものの、ジェニーが歩けないと知った彼は断然面白がっていた。自由を好む彼女が不自由な状況に我慢する姿を想像すると、どうにも笑えてくる。

 彼女の脱出の試みを知らない長官が、女官長たちの横で困惑したように首をひねっていた。

「いやはや、歩けぬとはなんとも哀れな娘! おお、あの娘には献上物にあった蜜菓子を見舞い品として与えてやろう。養生できるよう、充分に取り図れ」

「おお、なんというお優しきご配慮! 彼女に代わりましてお礼を申し上げます、王!」

 女官長が顔を喜びに輝かせて頭を下げるのとあわせ、長官もサンジェルマンも王に丁寧に頭を下げた。


 その夜、ゴーティスは、カトリーヌを選んで部屋を訪問した。彼女は地方都市に住む貴族の恋人だったのを王に見初められて城にあげられた女で、誰もが認めるほどの、最高の美貌の持ち主だ。肌はどこまでも白く、しなやかな金髪にふちどられた小さな顔の中にある、真夏の空を映した湖のように深く青い瞳を向けられた者は、男女を問わず、彼女の魅力に放心して彼女の虜となってしまう。

 薄暗い寝室に浮かび上がる、白い肢体のカトリーヌは美しい。寝着を体から払い落とすように床に落とした彼女を背中越しに抱き寄せた王は、彼女のうなじに唇をつけたまま、床へしゃがみこむようにして彼女を倒した。


 その日の朝から降ったり止んだりしていた雨がみぞれに変わった深夜、情事を終えた二人は寝台の枕にやっとのことで頭をあずけた。彼女はぐったりしていながらも心地良さそうな笑みをうかべていて、白い全身はやわらかな桃色になっていた。

 壁寄りに寝転ぶ彼も息を整えつつ、体のほてりが静まるのを待っていた。カトリーヌが頭を自分の左腕に寄せてきたため、彼は腕をあげて彼女の頭を腕の中に入れた。そして、ほのかな明かりを放つ照明が置かれている部屋の角の棚を何気なく見た。照明の横に白っぽい布が広げてあり、その上に大きな黒光りする珠が何粒か見えた。その隣には彼女が愛用している赤い宝石箱がある。

「あそこにある黒い珠は何だ?」

「えっ?」

 彼に尋ねられた彼女は上半身を起こし、彼が指し示す方に視線をやった。

「まあ、あれは先日ニーナ様が分けてくださった黒真珠ですわ。あんなに大きな粒をくださるなんて、私、うれしくって何度も箱から出してうっとりしてしまって。つい出しっ放しにしてしまいましたわ! あんな高価なものをくださるなんて、さすがニーナ様ですわね!」

 彼女が目を輝かせてそう言い、うっとりしたように宙を見た。

 十粒で肉牛一頭に値するほどに高価な黒真珠を、仲間たちに惜しみなく渡すニーナの見栄っ張りぶりには驚かされたが、思わぬ方向に話をつなげられそうな期待で、ゴーティスはほくそ笑んだ。

「ほう、ニーナがな。おまえはあの女に気に入られているのだな」

「まあ、私だけ戴いたのではありませんわ! オルディエンヌ様も戴きましたし、アンヌ・マリー様も。アンヌ・マリー様は、来るのがもう少し遅ければ頂戴できなかったでしょうけど。あのジェニーの事故で大騒ぎになってしまって、ニーナ様が全員を部屋に返されたものですから。アンヌ・マリー様も間に合ってよかったですわ!

 ……残念でしょうけれど、当夜来れなかったジェニーはもらっていないと思いますわ。こんな素晴らしいものを得られる貴重な機会でしたのに」

 ゴーティスが一言も口をはさまずにカトリーヌに話を終えさせると、彼女は彼を見て、ばつが悪そうに視線を彼からそらして口を閉じた。

「ジェニーの件は聞いた。階段で転んだそうだな。気の毒なことだ」

「え、ええ。本当に」

 ゴーティスはカトリーヌの動揺に気づかないふりをし、のんきな口調を装った。

「骨折はしておらぬようで何よりではないか」

「……そうですわね。近いうち、私もお見舞いに伺ってみようと思います」

 カトリーヌが不安そうに王を見上げ、彼は彼女を安心させるために唇の端を上げた。

「行ってやれ。あの娘も喜ぶだろう」

 彼女の考えを肯定してやると、彼女がほっとしたように笑顔を見せた。

 ニーナがほぼ潔白なのはわかっていた。あの女の部屋に行く途中にジェニーにケガをさせれば、ニーナの方が先に疑われる。ニーナは、そんな単純なやり方を嫌う。それに、「もう少し来るのが遅ければ」とカトリーヌは言った。

 ゴーティスは、くだらない痴情のもつれを軽蔑し、嫌悪している。 

 ――取るに足らないあんな小娘を相手にするとは、あの女、愚かなことを。

 ゴーティスは頭上にある天蓋の赤い布を眺め、ジェニーが自分を見上げる際の嫌悪のこもった瞳を思い出した。カトリーヌを腕に抱きながら、ゴーティスの心中は不快にざわめいていて、どうにも治まってくれない。 

 彼の頭の中からは、ジェニーの面影がなかなか去ってはくれなかった。


  ◇  ◇


 十二月も間近のある日、外では大きな塊の雪が絶え間なく降っていた。本格的な大雪の季節が始まったのだ。昼過ぎまでに、建物のそこかしこに雪が積もるだろう。

 門番の衛兵たちは門扉横の、石壁を丸くえぐったように造られた半外の待機所に交代で避難して火を焚き、厳しい寒さをしのいでいた。食料や酒の納入業者たちは、通用門を通り抜ける際に荷物に積もった雪を払いのけながら、誰もが寒さのために背を丸くし、暗い顔で歩いていく。見回りの衛兵たちはかじかんだ両手に白い息を吐きかけ、白く冷たい雪を無情に落としてくる暗い空を眺めている。底冷えする城内は、いつもより早く来た使用人たちによって、どこの部屋にも火が焚かれた。雪によって移動や物品の運搬が予定より遅れ、使用人たちは誰もが朝から不機嫌となって作業していた。

 他の使用人たちの例にもれず、ジェニーの侍女アニーも朝から機嫌が悪かった。それは、それまでの主人に対してのアニーの不満が一気にあふれ出た日だった。

 彼女は平らで丸い黒土器の皿に白墨で何かが書かれているのを偶然に見つけると、ジェニーがそれを説明しかけただけで怒り始め、主人に憤慨して部屋を出て行ってしまった。部屋に取り残されたジェニーと召使はなすすべもなく、アニーが出て行くのを見送るしかない。


 女官長は、アニーの感情的な爆発のきっかけとなった黒土器の皿を召使に持ってこさせ、そこに書かれている文字が何なのか判別できず、お手上げとなって両手を広げた。今までに見かけたことすらない言語。庶民出であるジェニーが、字の読み書きができる事実にも驚いた。

 ――それにしても、あの風変わりな娘には手を焼かされる。

 女官長は重いため息をついた。

 入城してから二ヶ月経つというのに、彼女は、表面上こそ後宮の掟に従う姿勢だが、基本的な考えは変えようとしない。納得できなければ、相手が誰であろうと必ず反論する。アニーがおかしくなるのも無理はない。それでも、王にはむかう態度は改めたらしいが。

 大体、抗う、という考え自体が間違っている。王に好意的な態度を見せないところが、そら恐ろしい。

 女官長は手元の皿に視線を落とした。

 されど、王のご意思が読めない。特別に彼女に目をかけているようでもないのに、彼女の無礼な対応を面白がっている。普段とちがって、彼女には手をあげることもないようだ。それが、彼女をつけあがらせる元凶だというのに。

 女官長は両手を握り、内側を自分に向けてゆっくりと開いた。

 アニーに言われずとも、あの王さえ彼女を放してくれればいつでも城から追放してやるのに。

 彼女にしても、それを――心から望んでいるのだから。

「女官長様!」

 部屋の外でマチルダの声がして、彼女は我に返った。

「ああ……お入り」

「失礼いたします」扉が開き、小さなマチルダが入ってきた。「木灰剤の替えを持ってまいりました」

 彼女が籠を棚の隅に置く様子を見つめ、彼女がジェニーと二歳しか違わないことを思い出して、女官長は衝撃を受けた。

「他にご用はありませんか、女官長様」

 マチルダは城勤めが初めていうわりに未熟ながらもよくやっている。

 もしかして、ジェニーについても見方を改めた方がいいのだろうか。長い目で見るべきだと?

「女官長様、大丈夫でございますか? お顔の色がすぐれないようですが?」

「ああ、平気よ。ちょっと考え事をしていて」

 彼女が思わず手元の皿を見ると、マチルダの視線もそこに動いた。ふと、彼女はある事を思いついた。

「マチルダ。おまえ、ちょっとサンジェルマン様のところまで行って、見てもらいたい物があるから、時間がある時にここに来てほしいと伝えてきて。東館入口の衛兵に言えば、彼に取り次いでもらえるわ」

「サ、サンジェルマン様ですか?」

「そう。覚えているでしょう?」

「もちろんですとも!」

 マチルダは退室の挨拶もそこそこに、東館への入口を目指して部屋から飛び出していった。



 マチルダの伝言を聞き、夕食前のほんのちょっとした時間を割いて、サンジェルマンは女官長を部屋に訪ねた。彼は、東館入口で衛兵に王暗殺を疑われて殺された、哀れで軽率な少女の事件を耳にしたばかりだ。王の前に立ちふさがったのは、どこかの下働きらしいとは知らされたが、彼は、一介の少女の身元までを知ろうとはしなかった。 

 不注意な「事故」を犯した少女に対する怒りのようなもので、寒さのせいで不機嫌だった衛兵たちはさらに気が立っており、サンジェルマンの接した使用人たちも皆、困惑と動揺を表情ににじませていた。伝え聞いた様子では王の機嫌に変化はないということだが、使用人たちの立ち振る舞いに一層の注意が促される件でもあり、サンジェルマンは、女官長が把握している事件の概要も教えてもらうつもりでいた。

 女官長室の扉を二度たたいたが、室内には人の気配がありながら応答が聞こえてこない。返答がないのを不思議に思った彼は、扉越しに声をかけた。

「女官長殿? サンジェルマンだが、おられますか?」

 彼が待っていると、室内で誰かが動く気配がし、扉のすぐ向こうでひそやかな声がした。

「女官長殿?」

 扉が軋む音をさせて内側に引かれ、彼も知る城の管理官が中から姿を現した。「失礼いたしました、サンジェルマン様。女官長と話しこんでいたもので……どうぞお入り下さい」

 彼は誘われるままに入室しようとして、管理官に加え、扉の奥にいた女官長も緊張した面持ちをしているのに気づいた。二人の組み合わせから考えれば、彼らが来客を無視してまで話していた重要らしき一件は、サンジェルマンが知ったばかりの使用人の件だろう。彼女がサンジェルマンに黙礼した。

「邪魔をしたのでなければよいが?」

「もちろん、そんなことはございません。私は後で出直して参りますので、どうぞ、サンジェルマン様」

 管理官がサンジェルマンに恭しくお辞儀をし、扉を広く開放して室内へと誘った。部屋の奥から、女官長も入口の方に歩いて来て顔を見せ、同様に頭を垂れた。

「サンジェルマン様。お忙しいところをわざわざ出向いて頂いたのです、どうぞお入り下さいませ」

 管理官がその場を去った後、サンジェルマンは女官長が移動するのに倣い、彼女のテーブルの前まで行って足を止めた。

「――管理官との話は、今日の東館での少女の一件か? 私もつい今しがた耳にしたばかりだが……」

 彼が話を切り出すと、彼女が、一秒に満たないほどだったが視線を床の一点に留めた。しかし彼女はすぐに顎をあげ、緊張したように硬い声で答えた。

「ええ、その不注意な娘――私の小間使いだった少女の件でございます」

「なに? 女官長殿の小間使い?」

「ええ。……お恥ずかしながら、一月ほど前に小間使いにしたばかりの新入りでございまして。あの子にはもともと少し鈍感なところがあって、もちろん、悪意などございませんが、その為に幾度か無礼を働くことがあったのです。気をつけるようにと口を酸っぱくして何度も注意していたのですけれども……よりによって、王の前へ飛び出すとは!

 王はあの子に対してお怒りにはならなかったようですが、私は、彼女の非礼を王に何とお詫びしてよいものやら……! おお、それがどんな理由からだとしても、あの子があのように罰せられたのは当然でございます! 至らぬ娘のせいで、城中の者に迷惑をかけてしまいましたわ」

 口では小間使いを責めるものの、女官長がそこまで苦りきった口調で言っていないことから、サンジェルマンは、彼女が小間使いの死を少しは悲しんでいることがわかった。

「サンジェルマン様にもお気を使わせてしまい、本当に申し訳ございません」

「私の事は気にされるな。王には先ほどお会いしたが、王も娘の件でそれほど気分を害されてはおられないようだ。それゆえ――女官長殿、これ以上にこの一件を王に対して掘り下げるのは、控えた方が賢明だ。おわかりだろう? それに、済んでしまったものはどうしようもない。今後は、皆に充分に注意してもらうしかあるまい」

「ええ、そうですわね……。おっしゃるとおりです」

 サンジェルマンは女官長に頷き、亡くなってしまった小間使いの姿を想像し、言った。「せっかくの新入りに、私は会えずじまいだったな」

 彼女が、自嘲気味にサンジェルマンに笑って見せた。


「ところで、女官長殿」

「はい?」

 彼女の緊張していた口元が、彼が笑みを見せると少し弛んだ。

「その小間使いの伝言を聞いたのだが、私に何か見せたい物があるとか?」

 彼女が、ええ、と同意し、いつものような事務的な笑顔を復活させた。

「ええ、そうなのです。些細な事なのですが、もしかしたら、何か大事な件ではないかと思いまして、わざわざお越しいただいたのです。――ジェニーに関する件で」

「ジェニーの?」彼は用心するように声音を落とし、胸で息をついた。「そうか。それならばどんな些細な事柄でも、私に知らせていただけるのはありがたい。ご存知のとおり、私は彼女の素性を探っている最中だ」

「そうですね、貴方のお役に立てられればよいのですが」

 サンジェルマンの前で彼女がテーブルの下から紺色の包みを出し、その結び目を解いて、中から黒い楕円形の大きな飾り皿をテーブルに出した。それが何なのかと彼が目だけで問うと、彼女はその皿を両手で持って裏返し、彼の方へと寄せた。裏面の隅々に、書きなぐったような白い文字の羅列。

「これは?」

「彼女付きの侍女に持ってこさせました。これは全て彼女が書いたもののようですわ。外国語かと思うのですが、侍女も私も判別できませんでしたので、サンジェルマン様にも確認していただこうと思ったのです。これが、どこの言葉かおわかりになりますか?」

 サンジェルマンは皿を持ち上げ、手に取って文字を近くでたどった。彼やジェニーの話す、共用言語ではない。

 サンジェルマンは語学に堪能ではないが、大陸で使用される言語なら、読めはしなくてもそれがどこの言葉かぐらいは特定できる。国境を接する隣国の言語でもない。しかし、はっきりとは言えないが、どこかで見たことがあるような文字だ。

「私には読めないが……どこかで見たような記憶がある。断言はできないが、多分」

 そう言いながら、ジェニーへの漠然とした不安が以前より濃くなって、彼の胸の中に浸透していく。

「これを判読できる方をご存知ですか?」

 女官長の問いに、彼は文字の並びに目をやった。

 城に集まる有識者の顔を彼が頭の中で列挙していると、扉をたたく音が響き、部屋に女官長宛の来客があった。女官長と顔を見合わせ、サンジェルマンも扉の方を向いた。

「はい、どなた?」

「ナタリーでございます」

 王のお召しの相手を告げにくる女だ。

 女官長はサンジェルマンにそれを告げ、彼の前にある皿に紺の包みを上からかけて隠した。

「お入り」

 入ってきた女はそこにサンジェルマンの姿を見つけて驚いていたが、平然とした態度を貫こうと努め、無表情となって彼にお辞儀をした。

「ご苦労様、ナタリー」

 彼女は入口近くに留まり、女官長にもお辞儀をして声をはりあげた。

「申し上げます。今宵の王は、晩餐後にジェニー様の元へ向かわれるそうでございます」

 彼女に背を向けていたサンジェルマンは、軽率にも女官長に視線を走らせてしまって、同じく彼を見た女官長と視線をぶつけ合わせてしまった。二人の視線は絡み合ったが、彼の方からさりげなく視線をそらし、女官長も何ということもなしにナタリーに顔を向けた。

「晩餐後ね。わかりました。後宮には伝えておきます」

「はい。失礼いたします」

 ナタリーが退室すると、二人はどちらからともなく、探るような目つきで相手を見た。二人共、お互いにジェニーをこころよく思っていない事は知っている。だが、それをはっきりとした形で口にのぼらせることはしない。

「晩餐は……もうまもなくだな」

「はい。早急に、後宮に伝えねばなりません」

 彼らは物言いたげに相手を見つめ、そして、女官長がやるせなさそうに息をついた。「私は行かねばなりませんわ。サンジェルマン様、こちらをお任せしてもよろしいですか?」

 彼女は包みの端をつまみ、ジェニーの黒い皿を彼にもう一度見せた。

「そうだな、調べてみよう。……トーマス殿なら、判読できるかもしれない。彼は語学にも通じていて、八ヶ国語はできると聞いている。これを見せて、私から彼に直に訊いてみよう」

「ええ、それでは是非にお持ち下さいませ」

「承知した」

 サンジェルマンは丁寧に包み直された飾り皿を、女官長の手から借り受けた。



 月が変わると、雪は一日おきの割合で空から落とされてくるようになった。それが一日を通して降り続くことはないが、空はいつでも灰色だ。人々の暮らしは冬仕様に移行していた。

 ジェニーに感情的に一度爆発したアニーは、それが功を奏したのか、主人に対して割り切ることを覚え、ジェニーの動向に深く関わるのを避けるようになってきていた。一方で、主人のジェニーは女官長からこってりとしぼられ、アニーへの接触を極力控えるように心がけるようになった。ジェニーには窮屈で心地良くない対人関係ではあったが、そうやってお互いの距離を置くことが、うまく働く場合もあるのだ。

 アニーを毎日早くに帰宅させるようになり、ゴーティス王が気まぐれでジェニーを訪問する機会がなければ、ジェニーの夜は早く終わることが多かった。階段での故意の転倒から数週間が過ぎて、ジェニーの手足の怪我はすっかり完治し、ジェニーは城が眠る時間帯を利用して後宮内の探検を再開した。

 アニーの退室後、毎夜、ジェニーはひそかに後宮内を徘徊し、たどった軌跡を部屋にあった飾り皿の裏に書き記した。その記録が積み重なれば、後宮の構造が判明する。

 ジェニーが前に発見した隠し扉の場所を忘れることはないが、一応、それも書いておいた。少し前に彼女が調度品目録のような物をつらつらと記した黒い皿は、いつのまにか消えていたので、今度の皿は、寝室の台の中に隠しておいた。

 ゴーティス王の来訪時には、王付きの近衛兵が彼の滞在する部屋の前に構えているが、後宮出入口で番をする衛兵たちが後宮内に入ってくることはない。彼らは出入口付近を頻繁にうろつくことはあっても、女だらけの後宮内への出入りは、緊急時以外に許可されていないのだ。それを知ったジェニーはますます安心し、探索に身を入れることができた。

 ジェニーがその捜索を開始してから一週間も経たないうちに、王の妾の一人であるアンヌ・マリーが、人知れず後宮から忽然と姿を消していた事が発覚し、後宮内は一時騒然となった。ところが、彼女の不可解な失踪事件については、女官長が一切の詳細を語らず、王もその行方に無関心で追求しなかった。そのため、衛兵と駆け落ちしたとか、ひそかに追放されたとか、夜中に脱走したとか、後宮内で様々な憶測が飛びかった。

 王の残された愛人たちは、アンヌ・マリーの穴を埋めるような新しい女が来るのではないかとにらみ、何とか王の寵愛をとどめていようと、肌の手入れや衣装選びに余念がない。ジェニーはというと、他の女たちのように容姿に気を配ることはしなかったが、失踪した女がどこからか脱走を果たした可能性に期待し、後宮内の隠し扉や抜け道の探求にいっそうの熱が込められた。

 冬の寒さと雪に閉じ込められるこの時期は、ともすれば沈みがちな季節でもあるのだが、ジェニーは、春までに後宮捜索を完了しようという目標を設定したおかげで、自分の気持ちの矛先を明るい方向へずらしておくことができた。ゴーティス王が言った、「生き延びるために何をすべきか」という言葉は、皮肉にも、彼女の精神を上向きに引っ張ってくれていた。


 アニーが主人に関する文句を言わなくなり、最近のジェニーの平穏な様子に安心しかけていた女官長は、執務室を出た後に、ジェニーの件だ、とサンジェルマンに呼ばれても、それほど動じることはなかった。

 廊下を行き交う使用人たちが去るのを待ち、彼が女官長に静かに話を切り出した。

「トーマス殿の鑑定の結果、あの皿に書かれていたのはユートリア語と判明した」

「ユートリア? ユートリアとは北の大国ですわね」

「そうだ、ここからはずいぶんと離れたところにある国の言葉だ」

 彼女は、サンジェルマンの言葉の底にある微かな脅威には気づかず、言った。

「彼女の言葉にはそれほど訛りがあるとも思えませんが、元々はそちらの出身なのでしょうか?」

「そうかもしれないが、わからない。トーマス殿によると、ユートリアは国が貧しく、国からの流出者が各国に散らばっているらしい。だが、ここヴィレールには数少ないだろうということだ。なにしろ、こことユートリアとはかなりの距離がある。ユートリア語を知っている者も、それほどいないはずだとも言っていた」

 彼は、トーマスがその言語を操れる者の存在を知って興奮していた事は、彼女にはあえて黙っていた。口に出してこそ言わなかったが、トーマスは明らかに、その稀有な言語を使う人間と接触したがっていた。

「それと、そこに書かれていた内容だが、大した事ではない。絹のカーテンや木灰剤、毛皮の敷物、オークの机。全て、身の回り品の名前ばかりだ。特に問題にするような記述は出てこなかった」

「なるほど、全て彼女の部屋にあるもののようですわね」

 彼女の安堵した様子に、彼は同意した。

「その後、彼女の様子に変調は?」

「ここ最近はめっきりおとなしくなっていますわ。周囲と波風を立てることもないようです。少し前からはカトリーヌ様が彼女に接触するようになりましたわ。あの方は穏やかな気性ですから、ええ、あの二人はまずまずうまくやっているようですわね。彼女もようやく自分の境遇を受け入れて、ここでの暮らしを楽しむようになってきたのでしょう」

 女官長は母親のような表情を見せ、彼に嬉しそうに笑顔を見せた。

 あの娘が? 本当にそうだろうか?

 心の底にわいた疑問とは逆に、サンジェルマンはにっこりと女官長に微笑み返した。

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