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最終話-1

【警告】

暴力シーンが出てきます。不快に思われる方もいるかもしれませんが、展開上必要ですので、なにとぞご容赦を。。。

 扉を伝って聞こえてくる音がぱたりと消えてから、数分。扉にぴったりと耳をつけたケインは視点すら動かさず、彼を見守る仲間たちはじっと息をひそめている。辺りは静か過ぎて、時の流れさえ止まってしまったように感じられる。

 何か予想外の出来事があったらしいことは、ケインの表情の急変を目にすれば明らかだ。扉の鍵をこじあけたローレンの身に、何か降りかかったのだ。

 ケインが異変を察知した瞬間、皆をその場に留めたのはライアンの判断だ。彼はジェニーの兄やサンジェルマンを救うことより、王救出のため、戦力を残しておく方を優先した。

 それはきっと、正しい選択だ。サンジェルマンも、ローレンに同行すると申し出た瞬間から、こんな事態を覚悟していたことだろう。そしてたぶん、ローレンも。

 ジェニーはライアンを見た。ケインの行動に注目していた彼が、ジェニーに視線を返す。

 行き場のない怒りや不安、ジェニーの胸の内を全て心得ているといったように彼は頷き、もう少し待つようにと、手振りでジェニーに示す。

 でも、いつまで待てばいいのか――。

 ジェニーがやきもきしながら待っていると、やがて、ケインが扉から静かに耳を離した。

「もう誰もいない。入っても大丈夫だと思う」

 一行が塩坑に入る前、ローレンは、お互いが会えなかった場合を想定して、城の最上階を目指すようにとジェニーに告げた。ジェニーが“万が一”と言ったのに、塩坑と城を繋ぐ扉越しに兄の気配をたしかに感じていたのに、今、彼はいないのだ。


 アドレーに続いて城内に入ったジェニーは、彼が突然立ち止まったために、その背中に衝突した。ジェニーが静まりかえった真っ暗闇に目をこらすと、アドレーが「ここの衛兵だ」と囁く。

 部屋の入口付近でうつ伏せに倒れ死んでいる男が一人。開いた入口扉の外側で倒れている男がもう一人、いるようだ。

 ジェニーが部屋の中央に進んでいくと、暗闇の中央を動く、白っぽい光があった。ライアンだ。

「あの男は剣で斬られて死んでいた。サンジェルマンか、ローレンか――どちらかによるものだろう。つまり、二人はまだ無事だ」

 ジェニーがほっと胸をなでおろすと、めずらしく、ライアンが微笑んだ。ぎこちなさのない、まったく自然な笑みだ。

「我々もすぐにあとを追わねば」

 ライアンに振り向かれ、ジェニーの隣に立ったケインがとたんに凍りついた。

「私が先頭……じゃないよね?」

「先頭には私が行きましょう。されど、暗闇に強いあなたは私のすぐ後ろにいていただきたい」

 ライアンはケインの返答を待たず、ユーゴに、最後尾につくように指示を出した。ユーゴが快諾し、ユーゴの前にアドレー、その前にジェニーという順番で城内を進むことが決まる。

 死体となった衛兵の体から拾いあげた剣を、ライアンがアドレーに差し出した。剣の使い方を知らないアドレーは遠慮したが、

「持っておけ。剣には突き刺すという使い方もある。役に立つぞ」

 次にライアンはジェニーに向き直った。

「私の教えを忘れるな。我々はできるだけ貴殿を守るが、我々の真の目的は王を救出することだ。できる限り、自分の身は自分で守ってもらいたい」

「ええ。それは最初から心得ています」

 ジェニーの返事を確認し、ライアンは残りの仲間の意思を確かめるように、ゆっくりと各々の顔を見る。誰もが真剣な面持ちでライアンを見返し、一言も発しようとしない。ついに動き出すときが来たのだと、全員が覚悟を決めた瞬間だ。

 どうか、王も皆も、全員が無事に帰還できますように――。




 緊張は高まり、胸を打つ鼓動はあまりにも早い。負傷することも、死に瀕する可能性も、ジェニーはすべて覚悟している。でも、覚悟はしていても、怖くないこととは違う。王奪還の旅に出たジェニーは“勇ましい”と民衆に思われているようだが、実際の自分は違う。自分の身が次にどうなるかと考えれば、怖いに決まっている。

 でも、時が過ぎるだけ、ゴーティス王の命が削られていく。王をこの世から失うかもしれない恐怖が、ジェニーの足を押し上げる。ジェニーの中で膨らみきった恐怖が破裂するとき、彼の命も露と消えてしまいそうに思えて、それが怖くて、ジェニーはただ前に進み続けるのだ。


 ジェニーが最初に出会った、生きたマキシム人は若い女だ。女はちょうど部屋を出たところにジェニーたちと遭遇し、悲鳴をあげている最中にライアンに倒された。彼は素手で女を気絶させただけだ。彼は武器をもたない女を殺すつもりはないようだった。ジェニーはほっとした。

 だが、そんなジェニーを見ながら、ケインが苦笑する。

「残念だな。階段も見つからないのに、もう来たか」

 ほどなく、ジェニーたちの後方から荒々しい足音がなだれこんできた。声はせず、靴の音だけだ。足音が廊下に反響するせいで、攻めてくる敵の数がはっきり分からない。

「ジェニー、走れ!」ユーゴが剣を抜きながら叫ぶ。

 ジェニーたちの向かう先には敵の姿はなかった。ゴーティス王が監禁される部屋に続く階段は、まだ見えてこない。それでもケインは剣を抜き、前方を走るライアンも剣を引き抜いた。

 ジェニーはほんの一瞬だけ、後ろを振り返った。ユーゴの数歩後ろに黒い集団が迫っている。黒っぽい衣装を身にまとい、ほの暗い廊下に青白い顔だけが浮き上がる。彼らは焦りも怒りも顔にのせず、無言でジェニーたちとの距離を狭めていく。

 彼らの手にする剣が白く光り、ジェニーは朝露に濡れて光る蜘蛛の巣を思い出した。草木の葉の陰にひそむ蜘蛛だ。獲物が罠にかかるときをずっと待ち、音もたてずにその背後に近づく、黒い生き物。

 ジェニーの後方で鋭い金属音が響いた。

「ジェニー、止まるな!」

 だが、ジェニーは止まった。ユーゴとアドレーが六人の男に応戦している。すぐに、ライアンとケインがそれに加わった。

 一人を一撃で倒したあと、ユーゴが丸腰のアドレーに言った。

「ここは私だけで十分だ。先に行け」

「はあ? いくらあんたが強くたって、あと五人もいるんだぜ?」

 次に降りかかってきた男の剣を払い、ユーゴは悠然と体勢を整える。

「私は仮にもベアール家の当主だぞ。剣の腕にかけたら右に出る者は――」

 ユーゴの得意満面な顔のすぐ横に、アドレーの拳が飛んだ。すると、その拳の向こうで、顔面が血だらけとなった男が声もあげずに倒れていく。

「剣の腕が何だって?」

 アドレーがにやりと笑うと、唖然としていたユーゴははっとして敵に向き直る。

「さすが庶民だ。乱暴だな」

「笑えるな、剣を使えば乱暴じゃないって言うのか? とにかく、敵を倒せばいいんだろ」

 アドレーは次に襲いかかってきた衛兵の剣を扱い慣れない剣で受け、男の股間を蹴りあげた。男は悲鳴とも奇声ともとれる声を上げ、床に突っ伏して震え始める。

 ユーゴが眉を上げ、アドレーをじろりと見た。

「まだ来るぞ。そんなやり方じゃ、最後までもたない」

 そして、ユーゴは彼の背後の空間を眺めた。廊下の奥から響いてくる靴音がさっきより大きい。

「だが、この三人を片づけるのが先だ!」

 ユーゴの剣が、衛兵の剣と激しくぶつかる。アドレーが突いた剣は男の脇をかすめ、逆に男の剣がアドレーの右腕をえぐった。

「アドレー!」

「ジェニー、あんたは早くシヴィルを助けに行け!」

「ライアン様、ジェニーを連れて先に行ってください! ここは私とこの男で対処します!」

 アドレーが衛兵の顔に肘をくらわせながら、ユーゴに笑う。

「承知した! 先に行くぞ!」

 ライアンがジェニーの肘をつかみ、真剣な目で瞳を覗きこんだ。

「ジェニー殿、王がお待ちだ」

 ジェニーは彼を見つめ、ゆっくりと頷くしかない。ジェニーは後ろを向かず、二人に言った。

「ユーゴ様、アドレー、城の外で待ってるわ!」

「ああ、夜明け前に会おう! 王に会ったら、ベアール家は王のために素晴らしい働きをしたって、必ずそう伝えてくれ!」

「エレノアが会いたがってるんだ、あんたは絶対にシヴィルを連れてくるんだぞ! わかったな!」

「約束する!」

 その直後、アドレーが怒鳴った。

「くっそ、何しやがる……!」

 ジェニーが振り返り、見ると、アドレーの左腕には衛兵の剣が貫通していた。

「いってーな!」

 アドレーが叫び、彼は右手にあった剣で、目の前にいる相手の首にそれを突き刺した。アドレーの負傷に気づき、加勢したユーゴの剣が同じ男の左胸を貫く。

 アドレーの手首に不似合いな、彼の妻エレノアが残した形見の首飾りが揺れていた。妻を汚したくないと、彼が毎日埃を拭っていた首飾りが、彼の腕から溢れ出る血に染まっていく。

 アドレーは左腕の怪我などかすり傷だというように、ジェニーに笑顔を見せた。だが、ジェニーに体の正面を向けた彼の、右足の肉は大きく裂けている。

 息を飲んだジェニーの肩を、ライアンが掴んだ。

「ちょっと……ちょっとの間、これを預かっててくれ……」

 アドレーが手首の首飾りを外し、ジェニーに投げる。

 ジェニーが手を伸ばした先、廊下の奥に、敵の黒い姿が見えてきた。その人数はたぶん、五、六人。



 やっと見つけた階段を、ジェニーは駆け上がった。仲間を見捨てなければならなかった無念さと罪悪感を彼らとともに置き去りにして、ゴーティス王が閉じ込められた部屋のある最上階を目指して、ひたすら走る。

 窓を通して見える暗闇は青く変わり始めていた。これから闇が深まることはなさそうだ。でも、町に面する湖がヴィレール軍の船で埋め尽くされるはずの日の出は、もう少し先だろう。

 階段の終わりが見えてきた頃、猛進するジェニーの前で、ライアンとケインが急停止した。ケインの足が階段を一段、後退する。廊下の奥から突如現れた二人の衛兵が、ジェニーたちの行く手を塞いでいた。

 躊躇することなく、ライアンが剣を抜く。彼に遅れて、ケインも剣を抜く。ライアンがジェニーに振り返って言った。

「奴らを引きつけている間に、貴殿は先に進め!」

 ところが、騒ぎをかぎつけたらしい衛兵が一人、階段を上がってきた。

『何者だ!』

 衛兵が明りをジェニーに投げつけた。それを難なく避け、ジェニーは二人の仲間が戦う階上へ走っていく。男もジェニーを追いかけてくる。

 階段を上がりきろうとして、ジェニーはまたもや立ち止まった。階段の上り口でライアンが敵と激しく競り合っており、階上に上がれないのだ。ケインもまたその後方で、もう一人の男と互角の戦いを展開している。

 ジェニーは剣を手にくるりと振り返った。足元の不安定なこの階段で、男とどう対戦すべきか――?

“日常的に剣を使う男とまともに戦おうとしてはならない”

 真後ろに迫っていた男が剣を上げ、その一瞬で、ジェニーは彼の力を受け流すことを考える。

 剣を通して腕にかかった男の力を、ジェニーは押し返したりはしない。少しだけ剣を左に傾け、倒れる男の下敷きにならないように、右側に素早くすり抜けるだけだ。

 男の剣がジェニーの剣の上を滑っていく。

 男の顔には驚きと焦りがありありと出ていた。ジェニーは急いで体をかわし、男の転倒に巻き込まれないよう、壁面にぴたりと体をはりつけた。

 その次の瞬間だ、ライアンの声とともに、揉み合った二人の男たちが転がり落ちてきたのは。

 ジェニーの前で転倒した男の体の上を、二人の男が滑り降りる。二人に不意につぶされた男が悲鳴をあげた。

 まさに間一髪だ。二人に引きずられて転がり始めた男の手がジェニーの足にぶつかったが、ジェニーは階段に尻もちをつき、数段を落ちるだけで済んだ。

「ライアン様、無事ですか!」

 ジェニーは男たちを追って階段を駆け下り、途中で一本の剣を拾う。

 階段の曲がり角で、折り重なって倒れる男の中で最初に身を起こしたのは、いちばん上にいたライアンだ。その下で、ジェニーに剣を向けた男の背中が動くのに気づき、ジェニーは急いだ。背を丸めたライアンは手であちこちを触り、剣を探している。

『ぐ……うぇっ!』

 ライアンの前で動く男の背中に、ジェニーは思いきり剣を突き立てた。二度と経験したくなかったはずの、肉の重みだ。男の頭が浮き、恨みがましい目が向けられる。

 男の手がジェニーの腕に伸びる前に、ライアンがジェニーに渡された剣を男の腰に沈めた。男が大きく体を反らせ、長いうめき声のような悲鳴をあげる。


 ジェニーが剣から手を離して膝をつくと、ライアンが顔を上げた。額が汗でびっしょりと濡れ、ジェニーと同じく、呼吸が荒れていた。

「よくやった。怪我はないか?」

「ええ。ライアン様は大丈夫?」

「かすり傷だけだ」

 そう言って笑ったライアンの手のひらが真っ赤だ。ジェニーは彼の手の傷を見ようとして、彼が逆の手で左胸を押さえているのに目を留める。赤い血が一筋、指の間からゆるやかに流れ落ちていた。

「刺されたのですか、ライアン様!」

「刺し違えた。意外に出血しておるようだが、平気だ」

 手の血を服で拭い、ライアンは涼しい顔でそう告げる。

「それより……どうやら私は、足をくじいたようだ。これでは足手まといになるゆえ、貴殿は先に行け」

 それは嘘だ。彼は、足をくじいたぐらいで任務を投げだす人ではない。足を骨折しようと、彼は這ってでも王を救出しようとするはずだ。彼は責任感が強く、忠節を尽くす人間だ。

「先に行け。貴殿が心配するのは私ではなく、王であるべきだ。先に行って王を救い出せ」

「でもライアン様、その傷では――」

「私の傷を心配する間に先に進め。たった一人になろうとも、王を奪還しろ。我々がここにいる目的を遂行しろ!」

 ジェニーは彼の輝く瞳に面し、自分がひどい誤解をしていたのだと気づく。

 負傷した仲間を見捨てると思うのは間違いだ。なぜなら、彼らは最初から死を覚悟した上で、この場に臨んでいるからだ。また、彼らを敵中に置き去りにすることに迷い、罪悪感にさいなまれることも間違いだ。むしろ、負傷した彼らを憂いて王の救出が遅れることにこそ、罪悪はある。

 ジェニーが剣を取って立ち上がると、ライアンが表情を和らげた。

「安心しろ。私はともに行けぬが、ここに留まり、貴殿が王を連れ帰るまでこの場を守り切る。たとえこの私が右腕一本になろうとも、これより先には決して、誰一人として通しはせぬ」

 ジェニーはライアンの決意に満ちた瞳を見つめ、力強く頷いた。

「必ず王を救い出して戻ってきます。それまで……ご無事で」

「それでこそ、私の弟子だ」

 ジェニーがなおも見つめていると、ライアンの瞳に涙が浮かんだ。

「……気が抜けたせいか、涙まで出る」

 彼が息を吐いた拍子に、それがこぼれ落ちた。

「私が女に泣かされたのは、貴殿で二人めだ。……一人めは妹だった。可愛がっておった妹が突然死に、亡骸を埋めた日のことだ。私は、妹と離れたくなかった。これで妹と会えるのが、最後かと思うと……」

 ライアンは涙を隠そうともせず、ジェニーを見上げた。彼の涙はとても澄んでいる。

 ジェニーが自分の唇に触れた指をライアンの額に置くと、彼は苦笑した。

「変わった女だな。私が怖くないのか?」

「厳しいけど、怖い人とは違うから」

 彼が瞬きをすると、また、涙が彼の頬をつたった。

「……残念だ。貴殿のような女と会っていれば、私は……もっと早くに結婚できていたのだろう……」

 ジェニーが再びライアンの傍に跪こうとすると、彼はそれを止めた。

「ジェニー殿、早く行け。無礼な口をきくのもこれが最後だ、早く王を救いだせ。そして、王とともに少しでも早くヴィレールに戻れ。……そうしたら、そのときには、私は喜んで……貴殿に仕えよう……」

 どこまで――ジェニーは何度、押し寄せてくる涙を堪えていればいいのだろう?

 ライアンの息は今も続いているが一定ではなく、不愉快な雑音が混じる。ジェニーが迷い、悲しむ時間はないのだ。

 ジェニーは王の剣を握りしめ、立ち上がった。



  *  *



 ゴーティスは隣に眠る女の、うっすらと開いた瞳を見た。瞳はわずかに細く開いてはいるが、彼女は眠っている。この数日間、彼女は夜通し起きているゴーティスと同様にあまり眠っていないはずだ、疲れているのだろう。

 ゴーティスは寝返りをうつ振りをして、扉の覗き窓をちらりと見た。それは今はぴったりと閉まっているが、夜中に何度か、マキシム王の目が室内の様子を窺う。ゴーティスが女に手をかけるときを、彼は手ぐすね引いて待っているのだ。男色らしいマキシム王は、ゴーティスの肉体に触れるよりも観賞する方を好むようだ。

 ゴーティスは女がいない昼間に睡眠を断続的に取っているが、食事もろくにしていないせいで、疲労は全身に蔓延している。疲れは蓄積されていた。敵に囲まれた、気を抜けない環境にいることも、ゴーティスの気力と体力を容赦なく奪っている。

 女が何かを呟きながら、肩を動かした。寝台に落ちる女の長い金髪を見ていると、ゴーティスは女の体を押さえつけ、肉体的な欲望に自らを任せたくなる。

 ジェニーを奪われたゴーティスの想いの全てを、一時的にでもぶつけられる相手がいるのなら、それを求めて何が悪いのだろう?

 マキシム王の意図を知って以来、ゴーティスはなぜ娼婦やもっと成熟した女をよこさないのかと、彼の選択に首を傾げたものだ。男をその気にさせたいのなら、彼女たちは素人の若い娘の比ではないだろうに。

 だが、マキシム王の判断は正しい。日を追うにつれ、疲れて朦朧とするゴーティスの目には、女の細い肩がジェニーに見えてくるから不思議だ。カイルの仲間に凌辱され、おそらくは暴行を加えられ、山中に捨てられたジェニーがここにいるはずもないのに。

 それでも、ゴーティスをかろうじて抑制するのは、ジェニーへの貞操というより、ジェニーを奪った者たちへの復讐の誓いだ。現実との区別がつかずに女を腕に抱いたら、その瞬間に、ゴーティスは背中に剣を突き立てられ、命を落としてしまうかもしれない。マキシム王やカイルに復讐を果たす前に死んでしまうことだけは、ゴーティスはどうしても避けたかった。

 でも、はたして、その想いがいつまで保たれるのだろうか?

 正気でいられないときが近づいてきているのは、薄々感じている。体力が落ち、気力が萎え、死期がごくゆっくりと近づいてきている。性欲に屈しそうになるのがその証拠だ。ゴーティスは、焦り始めていた。


 月明かりに照らされた床の一部を眺めると、ゴーティスはジェニーの無事を祈って、娘カミーユとともに月の女神像の前に跪いたことを思い出す。

 母を思い起こすからという理由で避けていた月の女神を、実は、ゴーティスは子どもの頃からずっと憧れ続けている。孤独に閉ざされたような闇の世界を、月の女神はその光で明るく照らし、迷う者に道筋を与えてくれる。

 女の髪に触れそうになったゴーティスの手が止まる。

 ジェニーは、ゴーティスが長年憧れ続けた月の女神に似ている。静かだが、動じない強さがある。混沌とした闇を何年も漂っていたゴーティスを、一筋の光でもって救い出してくれたのはジェニーだ。

 ゴーティスがジェニーと会うのは圧倒的に夜が多い。だが、彼女は昼間の光の下がよく似合う、とゴーティスは常日頃から思っている。彼女はときどき、ゴーティスを太陽になぞらえるが、それはまったく逆だ。彼女が眩しすぎて、目を細めることが多いのはゴーティスの方なのだ。

(……違う。あれは一筋の光などではない)

 ゴーティスはこの瞬間まで、それが一筋の月光だと思い込んでいた。でも、あの眩しすぎる光は、月光とは違う。太陽が照らす光だ。闇の後ろにある太陽から漏れた光だったのだ。ジェニーは、明るい太陽の下で笑っているべき存在なのだ。

 もっと、彼女を陽のあたる場所に立たせるべきだった。

 ほとばしる悔しさが抑えられず、ゴーティスは目を拭った。

(ジェニー、おまえはなぜここにおらぬ……!)

 ジェニーを失うことは、ゴーティスの半分が欠けるということ。

 マキシム王とカイルが許せなかった。二人を殺しても、ゴーティスの魂の均衡を取り戻せはしないが、彼らをこの地にある湖の底に沈めてやらないことには、ゴーティスの煮えたぎった血は治まらない。

 ゴーティスは女の体を見ながら寝台に起き上った。そのとき、ふと、衛兵たちの話し声を耳にした気がして、ゴーティスは扉に振り返る。


 ゴーティスが話し声だと思った音は、性急な足音に変わった。誰かが廊下を駆けてくる。

 ゴーティスは部屋を横切り、水差しが置かれた棚を壊して、外れた板をつかんだ。寝台に残されていた女が怯えた顔で立ち上がるのとほぼ同時に、部屋の扉が勢いよく開けられた。

「おお、そこにいたか、ゴーティス王!」

 剣を振り上げ、大口を開けて笑うのはマキシム王だ。この部屋に来るまで全速力で走ってきたのか、息が切れている。彼はゴーティスが手に持つ、武器と呼ぶには頼りなさすぎる板片を目にして、再び大声で笑った。

「この剣にそれで立ち向かおうというのかね? はっは、素晴らしい! それでこそ、軍事大国であるヴィレールの王だ! しかも、いつのまにか我が娘を味方につけられたようで――」

 ゴーティスは驚き、自分の傍らに立つ女を見つめた。

「この女はおまえの娘なのか?」

「おお、そうだとも。数年前、そやつを我が国の力でそなたの妃にと思うておったが、同じ塩の産出国であるカローニャに先を越されたな。あのときは、それはもう口惜しゅうてな! だが、数ヶ月前、そなたの妻が城を追放されたというではないか。

 願ってもない幸運だ。されど、今度こそと思うたのも束の間、なに、ヴィレールはカローニャから塩田を手に入れたと聞いたのだ。塩の産出国となったヴィレールに、もはや我が国の塩は魅力的ではなかろう。

 この娘がもっと器量よしで、諸国に評判が高い女であったなら、そなたは最初から娘の夫となっておったはずなのだ。おお、我が婿! 麗しいそなたが我が婿になる日をどんなに待ち望んでおったことか!」

 マキシム王は口惜しそうに膝を手でたたいた。

「だが、もはや、それも叶わぬとは! まことに……そなたを若くして亡くすことは、まことに残念だ。されど、そなたにはここで死んでもらわねば……」

 彼がなぜ突然にそう思ったのか、理由はわからない。だが、ともかく、ゴーティスは木片を構えた。

「のう、ゴーティス王。そなたの愛しい女の近くにいくのだ、異論はなかろう?」

 マキシム王が剣を持った腕をあげ、鼻をすする。

「そうだな。おまえとカイルを殺したあとであれば、俺には何の異存もない」

「ほっほ、怒った顔も美しいのう」

 マキシム王の剣が動き、ゴーティスは素早く横に移動した。マキシム王の振り下ろされた剣をゴーティスは難なく逃れた。しかし、それは代わりに何かを捕らえていた。

「あ……王……」

 女がゴーティスに手を伸ばし、力尽きて床に膝をついた。女の左肩から鮮血がほとばしり、彼女が床についた腕を伝って血が流れ落ちていく。

「おお、なんたる呆れた娘!」

 マキシム王は女の体を足で払おうとしたが、彼女はその足に両手ですがりついた。

「逃げて……逃げてください、ゴーティス王!」

「どけっ! ええい、どかぬか!」

 マキシム王は剣を再び振り上げ、今度は娘の腹にそれを突き立てた。その反動で彼女の片手はマキシム王の足から外れたが、残った片手はしっかりと足を掴んだままだ。

「逃げて、王! おやめ下さい、父上、やめ……」

「離せ! どけ! この死にぞこないめ!」

「やめろ、マキシム王! おまえの実の娘だろう!」

「おお、どこまでも私の邪魔をする気か! こうなったのは、何もかもおまえのせいだ!」

 マキシム王は血だらけとなった娘の腹から抜いた剣を、彼女の腕に振り下ろした。それによって彼の足は自由になったが、彼はなおも娘の脇腹に剣を突き刺した。彼女は呻き声をあげて体を反らせたが、マキシム王はさらに彼女の体のあちこちを剣で突く。まるで狂ったように、彼女の体を切り刻むことに喜びを見出しているかのように、笑っている。


 そのとき、別の誰かが戸口に立つ気配があった。室内の惨状に気を取られ、ゴーティスは次に迫っていた危険にまったく気がつかなかった。

「ロハン!」

 ゴーティスと同じく、入口に振り返ったマキシム王が愉快そうに笑った。

 ロハンと呼ばれた若い男は、左手に剣を持ち、ゴーティスを鋭い視線で貫いた。服装から衛兵ではなさそうだが、マキシム王の反応と彼の態度から、ゴーティスにとっては歓迎できない登場人物だろう。

 男と今までに会ったことはないが、ゴーティスに馴染みのある顔だ。見れば見るほどに、ユーゴ・ベアールによく似ている。

 まさか――とゴーティスは自分の考えを疑った。ユーゴにそっくりでマキシム王国と縁がある人物といえば、ジェニーの兄ローレンではないのか?

 男は無言で部屋に進んでくると、マキシム王の足元で血の塊と化した彼の娘を一瞥した。何の同情も含まない目だ。彼女から目をあげた男は、ゴーティスに剣先を向けた。

「あんたに再会できる日をずっと待ってたよ、ヴィレール王」

 ジェニーの兄だ。彼の瞳は、ゴーティスが求めてやまない、彼女の瞳そのものだ。

「おまえは……ローレン?」

 すると、ローレンの横にいたマキシム王が笑い出した。

「そうだ、そなたの愛妾の兄だ! こやつはな、その右腕だけでなく、大事な妹も奪ったそなたを、ずっと恨みに思うておる。よいところに来たな、ロハン! おまえの思いのたけを込め、おまえの仇に存分に報復してやれ!」

「ええ、言われなくともそのつもりですよ」

 ローレンは剣先を床につけて固定し、柄を握りなおした。マキシム王の上機嫌に笑う声が、夜の静寂を引き裂く。

「待て、ローレン! この王はジェニーを――」

 ゴーティスは反論しようとして、ローレンが持ち直した剣がマキシム王の喉に埋まるのを見て絶句した。

「ロ……ハン……?」

 ローレンは足でマキシム王を床に蹴り倒し、さらに剣を喉の奥に押し進めた。既に声をたてられないマキシム王は、両手両足を使ってローレンから逃れようとし、ローレンの顎は彼の爪に引っかかれて赤い筋が出来た。

 マキシム王はいつまでも暴れていた。だが、ローレンは終始落ち着いていて、彼の腹に両膝をのせ、その体の自由を奪う。剣を握る左手に体重を移すようにして、剣を固定している。

 マキシム王の喉を貫通した剣先が床石と当たり、ぎりり、と不快な音をたてた。ローレンの利き腕だったはずの右腕が不自由となって以来、ここまで左手を自由自在に操れるようになるには、彼は相当な鍛錬を重ねたに違いない。

数週間ぶりの更新です。しばらく経った上に、長い。。。

最終話は2回に分けましたので、ゆっくり、いつもよりさらにゆっくり、お読みください。

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