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第一部 1.遭遇−1

以前に掲載されていたた数話を一話にまとめたので、一話ごとの本文が長めになっています。

目次数を少なくしたかったので…すみませーん!

休み休み、読んでください〜。

 緑豊かな森と水源に恵まれた肥沃な大地をかかえ、民族の移動がそれほど頻繁でない大陸北部は、いくつかの王や有力領主が統治する貴族社会国家が形成されつつあった。

 その大陸北部地方で、近年急速に頭角を現してきたのが、大陸北西部に位置するヴィレール王国だ。現国王で五代目となる若い国ながら、若干二十歳の青年王が率いる強靭な無敵軍隊が元々の国境線を次々と塗りかえ、彼らの非情な奇襲攻撃に、その近隣諸国は恐怖と混乱に陥っっていた。

 ヴィレール王は残虐なだけでなく、若く美しく、彼はその容姿から、“白麗王”と呼ばれていた。


  ◇  ◇


 最近になって、ジェニーの自宅付近の人々が、毎夜、誰かの家に集まって話し合いの場を持っているという。確かではない噂によると、何かから逃れるための逃避行計画について相談しているそうだ。

「……略奪?」

 中央の街中心部からは少しはずれたジェニー宅の納屋の上階で、幼馴染みのニールからされた話は衝撃的だった。

「うん。あちこちの街が略奪されているらしいよ」

 彼はあくまでのん気に干草を数本取っては投げながら、彼女に何気なくそう話した。

「略奪って……一体、誰がそんなひどい事をするの?」

「さあ……。どこかの軍だって聞いたけど、どこだったかな。東サランドロンが襲われたって聞いたよ」

「それ、ここからそんなに遠くないじゃない!」

 ジェニーが自分の体を抱いて震えると、ニールが笑って彼女の髪に手を伸ばした。その手は、ここ二、三年で急成長し、大人となった男の手をしている。

「だけど、襲撃を受けるのはどこも要所で大きな街ばかりだから、ここは大丈夫じゃないかな。こんな田舎は、相手にされないさ」

「のん気ね、ニールは。でも、襲撃されるかもしれないじゃない?」

 ジェニーの髪を指先でいじっていたニールは、肩をすくめた。

「そうしたら任せてくれよ、僕がこの剣で! ……いや、ローリーがいることだし、心配ない」

 ジェニーの短剣をもてあそぶ彼に、彼女はつい笑いを誘われる。

「そうね、あなたはともかく、ローリーは頼りになるわ。彼に勝てる人なんて、この世にいないもの」

「きみはほんとに、兄さんが大好きなんだからなぁ」

 ああ、と彼は息をついて足を床へ投げ出した。その目はいたずらっぽく笑っている。彼は、彼に言い返そうと口を開けたジェニーの両腕を引っ張り寄せた。

「でも本当でしょう? 誰も彼には勝てないわ。ちがう?」

「うん……。だけど、ジェニー? きみのことは僕が守る。必ずだよ。約束するから……」

 ニールの言葉を聞いたジェニーは彼に微笑んだ。彼がゆっくりとまぶたを閉じ、彼女の唇を探し当ててそこに唇を重ねる。ため息に似たニールの声。きついくせ毛の黄色い髪が、ジェニーの頬にふんわりと触れる。

 十六になったばかりのジェニーは、あと一年もたてば彼と結婚することになると考えていた。彼の急速に早くなる心臓の音を肌に感じ、彼がどうやらもっと先の段階へと進みたがっているのを嫌でも自覚する。だが、はたして、その行為が正しいものかどうか、よくわからない。

 彼もジェニーの背に手をまわしたが、彼女の反応を待っているのか、そこから動こうとはしない。婚前交渉の経験をする男女は、少なくないが。

 その時である。

「ジェニー、ニール! そこにいるんだろう、降りておいで!」

 階下からの兄ローリーの大声に、二人ははっとしてお互いから体を離した。ジェニーはほっとした反面、ニールの短いため息を耳にして、ばつの悪い思いをする。

「いるわよ、今行く!」

 気を取り直したジェニーが体を乗り出して下の兄をのぞくと、彼は、降りてこい、というように手招きした。仕方なく後ろのニールにそれを伝えると、彼は興ざめした顔でさっと立ち上がる。

「わかった、行こう」

 ニールの不機嫌さが気になったが、どうにもならない。

 衣服についた干草や砂埃をはらい、ジェニーは階下へ降りるはしごへと足をのばした。それから数段降りたところで、ふと上を見上げた彼女は、そこに彼女の知らない男の大人の足を発見し、なぜかぞっとした。同い年のニールはここ数年で声が低くなり、がっしりとした体に成長している。

 いつになく真面目な顔で二人を見上げていたローリーが、地面まで数段のところでジェニーの腕をとって、降りるのを手伝ってくれた。すぐ後に、ニールが少し上から地面へと飛び降りる。

「行こう」

 ローリーは二人を納屋の外へ出るように促し、先に立って歩く。ニールとの気まずい沈黙に耐えられなくなったジェニーは、ローリーに急ぎ追いついて隣に並んだ。ローリーが落ち着かないときによく出る癖――耳に髪をかけてはすぐにそれを戻す仕草――をジェニーは見て、不安になる。

「何があったの、ローリー?」

「……行けばわかる」


 納屋の外にはそう広くはない土地が広がり、ジェニーたち家族が保有する数頭の馬や牛、山羊が点々と散らばって餌となる枯れ草や草を食べていた。冬も近いために気温は低かったが、風がないためにまだ何とか屋外でもいることができる。

 牧草地を囲む柵の外側の道を渡ると、手作りの木戸が三人を待ち受けている。その奥には、近所の助けを借りて一家総出で建設した、ジェニーたちの石造りの自宅がある。

 居間兼食堂は吹き抜けで、家の真ん中にあるその部屋から続く、台所との境にある階段を上ると、ジェニーやローリーの部屋だ。広くはないものの、両親が率先して建造した、この近辺では変わった造りの家はジェニーたちの自慢だ。一家四人はいつも笑いあい、子どもたちは、就寝するまで居間から動かなかった。

 その居間に一歩足を踏み入れたジェニーは、そこに集まる大人たちが醸し出す異様な雰囲気にびっくりした。何かのお祝いで集合した時のような陽気さは、まったく見られない。彼女らの登場に顔をひきつらせて一斉に振り返った人々の表情は、ジェニーにさえも胸騒ぎを起こさせるものだった。

「ジェニー!」

 中央のテーブルの角に座っていた母親がジェニーに歩みより、彼女の肩を抱いた。

「どうしたの、ママ?」

 母を抱きとめた彼女は、直感で何か重大な出来事が起きたのだと悟った。隣にローリーも来て、二人の肩を抱き、母親をなだめる。

「ねえ、ママ?」

 ジェニーの問いかけに彼女は顔を完全にはあげなかったが、ローリーの方へ伏せた目は涙で濡れているように見えた。ローリーは母親の肩に手をやると、強制的につくった笑顔をジェニーに向けて言った。

「おまえは二階に行っておいで。ニール、きみには話があるから、ここに残って」

 ジェニーがニールに振り向くと、彼は緊張してこわばった顔で頷いていた。彼にも、室内の冷たい緊張感が伝染していた。


 理由もわからずに二階へ追いやられた彼女は、同じ待遇を受けている近所の娘たちと部屋で出会うはめになった。下は五歳から、上は二十二歳までの独身の娘たちだ。彼女と仲のよい友人ララもおり、彼女はジェニーの帰宅を心から喜んでいるようだった。最も幼い女児ですら落ち着かない中で、三軒隣のファビエンヌだけが退屈そうに寝台の端に座って、ミントの枝をかんでいる。

「とうとう、ここにまで来るのかしら……?」

 ジェニーの両手を握りしめ、ララが怯えたようにつぶやいた。彼女が何を心配しているかをジェニーも察知し、その手を力強く握り返す。

 晩秋の短い太陽の光は早々と落ち、ジェニーは部屋の明かりをつけた。いつまでも室外に出られないせいで、そろそろ夕飯時で空腹となってきた女児がぐずり始め、待機している娘たちの疲労と忍耐も限界に近づいてきていた。親たちの会談が長引いていることも、彼女たちの不安を無駄にあおっていた。ミントの枝を切らしたファビエンヌが、苛立ったように、指をならしている。

 ほどなく、階段をあがってくる人の気配があり、直後に部屋の木戸をたたく音がした。来訪者は室内の返事を待たずに扉を開け、ファビエンヌの丸々と太った母親が、ゆっくりと扉の間をすり抜けて入ってきた。彼女の後ろにはジェニーの父親も立っていて、ジェニーと目が合うと優しく微笑んだ。

「みんな、そこに座りなさい」

 彼女は大きな体を揺すり、手をたたいて娘たちをその場へ座るように促した。彼女の娘であるファビエンヌは母親の巨体を侮蔑したように見つめ、いちばん遠くの窓際の椅子に腰をかけた。

 ファビエンヌの母親は何から話出そうかと考えあぐねているように見えた。彼女は自分の頬に手をあてたままでしばらくうつむき、何度もため息をついた。ジェニーが初めて目にした彼女の沈んだ表情は、なかなか回復することがなかった。

 そのうち、ジェニーの父親が背後から彼女に何かを囁くと、彼女はついに意を決したように顔を上げた。まんじりともせずにそれを待っていた娘たちは、彼女の言葉を一言も聞き漏らさないようにと、彼女の顔を注視する。

「――聞いているとは思うけど、ヴィレール軍の侵略の話は知っているわね?」

 侵略しているのが“ヴィレール軍”と初めて知ったジェニーは、ゆっくりと息を飲んだ。

「今日、ヴェスト地区が襲撃を受けたの。突然だったわ。皆、逃げようとする余裕もなくて――」

「そんな! あそこには姉さんが住んでいるのよ!」

 ララが悲鳴に似た声をあげると、ファビエンヌの母はうなだれて顔を振った。

「軍はとても非情なのよ。軍に包囲されたヴェストは全集落が焼き討ちにあって、もう、誰も……」

「いやよ、そんなの!」

耳をつんざくほどのララの悲痛な叫び声がした。

床にくずおれた彼女は泣き叫びながら、口惜しそうに床を力任せにたたき始めた。

 他のみんなもヴェストには親類や知人がいる。ララの反応と全く同じとはいかないまでも、どの娘も放心状態で、ジェニーも驚きのあまり、口がきけなかった。

「軍はまだ近くに駐留しているにちがいないの。中央の街は小さい地区だけれど、いつ奴らに襲われるか知れたものじゃないわ。事態は一刻を争うのよ。だから、私たちは今後の事を話していたの」

 自分の役目を認識しだしたファビエンヌの母は、気力を回復し、雄弁に話を進めだした。

「明日の夜、ここを出発することにしたわ。ここから南下してプラムあたりまで足をのばすの、そこならまだ安全らしいからね。一部の男たちはここに残るけれど、後で合流するわ」

 いつも笑ってばかりのファビエンヌの母親は、少しも笑みを見せない。まるでどこか遠くの世界で起きていることのような、現実味を帯びない話に聞こえた。それでも、それが真実だという証拠に、ララが床に崩れ落ちて嗚咽をもらしている。

 ジェニーは助けを求め、ファビエンヌの母親の後ろに立つ自分の父に瞳を向けた。娘の視線に気づいた彼は、ジェニーを安心させるように再び微笑み、冗談めかして肩をすくめた。

「今から家に帰ったら、すぐに支度をなさい。荷物は必要最低限に抑えること、わかったわね? それから、明日は家の外に出ないでなるべく家の中にいるのよ、いいわね?」

 彼女の説明をきき、父の笑顔に励まされたジェニーは徐々に正気に戻ってきた。と同時に、ヴィレール軍への激しい怒りで体を支配される。

 その怒りのような熱情につき動かされ、ジェニーは床に倒れるララを抱き起こした。


 ファビエンヌの母親から事情説明を受けた娘たちは、それぞれの親と一緒にジェニーの家を後にして、夜の闇の中へ消えていった。全員が重苦しい沈黙につつまれ、あの陽気なニールでさえもジェニーにおやすみのキスをせず、父母たちと急ぎ足で去っていった。

 家に集まっていた人々が全員帰り、楽しい笑顔などない暗い食卓をジェニーたちは家族で囲んだ。その後、ジェニーとローリーは二階の部屋に上がり、お互いに無言で自分たちの荷物をまとめ始めた。

 最低限必要な数の服、薬、剣などの武器。

 兄が真剣な顔で剣を何種類も荷物に入れるのを見たジェニーは、それが実用に使われないことを祈るばかりだ。

 小さい頃より、一風変わった“生き延びるための”教育を人知れず受けてきた兄妹は、身を守る訓練と、必要ならば攻撃する訓練を父母より受けてきている。一般家庭が保有することのない武器も多種類保有している。その甲斐あってか、ローリーは軍人にも匹敵するほどの剣の腕前を身につけている。

 妹の切ない表情に気づいたのか、彼はジェニーをじっと見つめ、いきなりジェニーを自分の腕に抱きしめた。服をとおして聞こえる兄の心臓の鼓動が、とても早い。

 ジェニーは、震える両手で兄を必死に抱き返した。

 階下では、深夜まで両親が荷物の整理に追われていた。用心深い彼らは、外から窓に木枠をはめて明かりが外へ漏れないように配慮し、明かりをしぼった室内で黙々と作業をしていた。今回の理由はやむを得ない理由ではあるものの、今までに何度となく引っ越しをしてきた彼らにとって、荷造りは慣れたもののはずだ。


 明日への不安から、兄ローリーと何年かぶりに同じ寝床で眠っていたジェニーは、どうにも寝苦しくて夜中に目を覚ました。隣のローリーは規則的な寝息をたてて眠っていたが、一階では父母がまだ起きている気配がある。寒さに尿意をもよおしたこともあり、彼女は大きな厚手のショールをまとい、部屋をそっと後にした。

 部屋を出て階段の手前まで来ると、両親は、作業自体はどうやら終了して、静かに話しこんでいる様子だった。

 きっと、二人も今後の不安から眠れないのだ。

 そう考えた彼女は、自分も彼らに甘えるために、いそいそと階下へと急いだ。

 二人がいるテーブルからは、娘の彼女の降りてくる姿が見えないようだった。母はすすり泣いているらしく、彼女のうつむいている後頭部がジェニーからも見えた。父親の低い声が彼女を励まし、彼女は彼の腕につかまって何とか耐えているようだった。父親は母親の肩を優しく抱き寄せ、そっと肩をたたいている。

「……よりによって、ヴィレール軍なんて!」

 ふりしぼるようにほとばしった母の声は半分かすれていて、思わず、ジェニーは階段の上で身を低くして体を隠した。何だか、聞いてはいけない事を聞いてしまったように思えた。

 ジェニーは四足で這ったままに階段をのぼり、何も気づかずに安らかな寝息をたてている兄の横に冷たくなった体を滑り込ませた。兄がちょっと体を震わせたが、彼が起きることはなかった。

 体が温まっていくのを実感しながら、ジェニーはさっき聞いた母の言葉を反芻した。頭に何か引っ掛かるものがあった。

 だが、ジェニーはそれが何かを思いめぐらせてみたものの、心身の疲れからくる眠気には勝てず、答えを見つけられないうちにいつのまにか眠ってしまった。そして、朝起きた頃には家中があわただしくなっており、ジェニーの頭には、昨日の光景も母の言葉も、すっかり記憶からなくなってしまった。


 昨夜から夜通しで街の境界地点で見張りをしていた男たちからは、現時点では、何の異常も報告されていなかった。裕福な商工業地帯ヴェストに比べると、中央の街は農家や牧場を営む世帯が多く、比較的、田舎の土地だ。ヴェストや中央の街を含む三地区の統治者を降伏させてしまったかもしれないヴィレール王国にとっては、ジェニーたちの地域は既に襲う価値がない、と判断された可能性もある。しかし、それでも油断はできない。

 中央の街の通りは人の往来こそ少なかったものの、各自の家では今夜の逃亡に向けて朝から大忙しのはずだった。朝早くから、父とローリーは小麦を取りに近所まで出かけており、母は納屋で荷物を馬車に積んでいた。ジェニーは家から出ずに室内で料理をするように言われ、パンの生地を大量に練っていた。

 何も深く考えられなかったので、ジェニーは自分がどれぐらいの時間を生地作りに割いていたのか、どれだけの量を作りおきしたのか、まったくわかっていなかった。窓も扉も全て閉め切っていたので、家の中はとても暖められており、彼女は暑くなってきて、腕まくりをした。

 焼き釜に火をおこし、釜が温まる間に、生地をちぎって釜に入れられる大きさの数個にまとめる。油をひいた鉄板の上に形を整えたパン生地を置き、釜の奥にそれを押し込んだ。釜に重い鉄製の蓋をした彼女は、次は野菜の下準備をしようと台所の食品入れのところへと歩いていった。

「ジェニー?」

 急に後ろから呼びかけられた彼女は、びっくりして振り返った。玄関の戸口に、母親が立っていた。

「ママ? ああ、驚いた!」

 ジェニーは心底ほっとして、大きく息をつく。彼女の母は自分の背後を気にしながら扉をしっかりと閉め、娘に弱々しく微笑んでみせた。

「荷物はもう全部積めたの、ママ?」

「まだよ。だからあなたにもちょっと手伝ってほしいの。納屋に来てくれる?」

「うん。ちょうど今パン生地を入れたばかりだから、しばらく目を離しても大丈夫。手伝うわ」


 その日初めて外へ出たジェニーの目には、太陽の光がまぶしかった。外の空気はひんやりとしてはいたが、気温が比較的高く、気持ちのよい陽気の日だ。街中心部から少しはずれた場所に彼女たちの家があるせいで周辺はいつも静かだったが、今日はいつにもまして静けさに包まれ、鳥のさえずりさえ聞こえてこなかった。

 二人が納屋に歩いていくと、その姿をみとめた鶏や山羊たちが寄ってきた。彼らは世の中の不穏な状況など知らず、いつもとかわらず元気そうだ。

 ジェニーの前で母は納屋の扉をいっぱいに開け、娘を招き入れた。

「そこに置いてある荷物を荷台にのせたら、縄できっちり縛っておいてちょうだい。ママは今から、裏でちょっとやりたい作業があるの」

「裏で? 何するの、ママ? 私も手伝うわよ」

「いいのよ、あなたはこっちをやってちょうだい。終わったらまたここに戻って来るわ」

「これはすぐに終わっちゃうわよ、ママ。私の方が裏にまわるわ」

「いいの、ジェニー。作業が済んだら、ママがこっちに迎えに来るから。それまでここに居るのよ。いい? わかったわね? ここで待っていてね?」

 納得はいかなかったが、母親の優しくも厳しい口調には従うほかない。

 頷いたジェニーを見て母親は娘の頬にキスをすると、再度、すぐに戻る、と念を押した。

 納屋から出た母親が、外から大きな扉を閉める。上方の小さな搬出口から入る光が納屋の中に明るい光を差し込んでくれたが、ジェニーは闇の中に一人で取り残された気がした。ジェニーは、大きなため息をついた。


 母の頼みどおりに荷台の荷物を縄でしっかりと固定し、干草置き場の、柔らかで暖かい干草にうもれてうとうととしていたジェニーは、顔に当たる光線に眩しさを覚えて目覚めた。時間がたち、太陽の位置が移動して、光の差し込む方向がずれてきたのだ。

 ジェニーは母親たちがまだ戻ってこないことに一抹の不安を覚え、はしごを使って下へと降りた。荷台は彼女が眠る前に見たのと同じ状態で、誰もここには来ていないのがわかる。

 ……おかしい。

 ジェニーは不思議に思い、納屋から出ないようにとの母の言いつけに背き、出口の扉を押し開けようとした。が、なんと、扉が開かない。

 見知らぬ誰かが納屋内にいる彼女の存在を知らずに、外から鍵を閉める可能性は少ない。そもそも、こんな日に訪問者があるとも思えない。だとすれば、ジェニーの母親が、彼女を納屋に残して出て行く際に閉めていった、と考えるしかない。

 でも、何のために?

 彼女の不安は、大きな胸騒ぎへと変わっていく。

 内側から体当たりして扉を壊すことも考えたが、大きな音をたてたくなかったジェニーは、その方法を選択するのをやめた。

「どうすればいい?」

 ジェニーは納屋の中を見渡して考えた。

 そして、さっきまでうたた寝していた干草置き場まで登って戻ると、干草の搬入口からそっと外をうかがった。その出入口から、外へ脱出しようと考えたのだ。

 納屋の外は相変わらず静けさに包まれており、のどかな牧草地帯が遠くまで広がっているだけだった。さっきまで納屋のすぐ近くで餌を食べていた山羊たちが、牧草地の遠くの方へいつのまにか移動しており、小さな白い点のように見えていた。彼女が見る限り、道にもどこにも人通りはなかった。

 周囲に異常がないのを確認したジェニーは、一階にかかるはしごを引き上げて搬入口の外へ掛けようとしたが、ハシゴの重量があまりに重くて、早々とあきらめた。代用になる何かを求め、彼女は干草の山を見渡すが、そこにはスキが転がっているだけ。

 ジェニーは困って息をついたが、突然、階下の荷物の存在を思い出し、再び、さっき上がってきたはしごを急いで降りていく。目指すは、荷物を縛った丈夫な太い縄だ。それを使えば、搬入口から外へ降りられる。

 取ってきた縄を梁にしっかりと固定し終わった時、彼女はかすかな異臭が鼻につくのを感じた。何かは判断できなかったが、香ばしいような臭い。

「……あっ! パンが焦げてるんだわ!」

 母を手伝おうと納屋に来る前にパン生地を釜にかけたままだった。ジェニーはあわてて縄を外に向かって投げた。

 自宅が火事になってしまう前に、急いで火を止めなきゃ!

 再度、出入口から顔を出して辺りに人がいないことを確かめた彼女は、縄との摩擦で手が傷つかないように服の袖口を手のひらにまで伸ばして自分の手を保護しながら、壁づたいに外の地面へと注意して降りた。

 牧草地に面した南側から納屋をまわり、家のある方角である反対の北側へと移動した彼女は、そこで初めて、異臭の正体を思い知らされた。自宅からは焦げた臭いすらせず、煙すら出ていない。なのに、自宅の向こうの空には黒煙がもうもうとあがっている。それも、一つではなく、複数の違う箇所から何筋も見える。

 それは自然発生したのではなく、あきらかに人工的に手を加えられた結果だ。彼女が考えられる唯一の発生原因は、ヴィレール軍の襲撃だった。

 あまりの急展開に、彼女は呆然として、空高くのぼっていく煙の流れをただ見つめる。

「まさか……ママは、わかっていて私を閉じ込めて行ったの……?」

 自宅は街の中心より少し離れているせいで、ここに残っていれば被害からは逃れやすい。

 けれど、次の瞬間、彼女は思わず、黒煙の上がる方角に向かって走り出していた。

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