翼ある者(2)
皇女の名はオルガと名付けられた。
といっても、ひと月たっても産み部屋でロタと赤ん坊はひっそりと暮らしていて、足りない産着や、湯あみさせるのに必要な盥や湯を、ロタがおずおずと申し付けると、下女が時折、ロタの食事と共に持ってきた。肉や魚が添えられた食事は、宮廷の中では粗末な部類だったが、ロタにとっては贅沢なものだった。
時折来る宮廷医は、肉付きを増す赤ん坊に驚いているようだったが、
「あの、お名前は……なんとお呼びすればよいのでしょう」
と、ロタにきかれるまで、そんなことは思いもよらないようだった。
忘れられていたのだ。
侍従長に書面が届けられ、女帝の執務室にそれは運ばれた。
「まだ死んでいなかったのか」
とだけ女帝は言うと、次の書類を見ながら羽ペンで適当に印をつけた。
インクが落ちたのは、ロタの出身国名の上だった。
竜王山脈の向こう、今では荒れ果てたオルガという国の名前が、そのままつけられた。
やがて女帝はふたたび孕んだ。
乳をやらない女は、月のものがはじまり、すぐに孕むことができる。だから高貴な女たちは乳母を雇うのだ。
女帝の夫は、同盟国の中でも、古い家柄だけが取り柄の、王家の三男坊だった。子だくさんの家系で知られ、周辺国のあちこちに皇子や皇女を、婿や嫁に出している。それだけで血脈を保っているようなものだった。
女帝の夫も、その家柄に、職務に忠実に務めを果たしたと思われた。
オルガが産まれて、三月ほどのことだった。
突然に「産み部屋を出ろ」と命じられて、ロタはそれを告げに来た侍従に尋ねた。
「では、どこでオルガ様をお育てすればよいのでしょう?」
ロタの婚家は、皇女様をお預かりできるような館ではございません、と言い立てて引き取りを拒んだ。
ロタはオルガを連れて、都からは離れた山裾近くに広がる、宮廷用の農園に移り住むことになった。
病弱であろうオルガのためには、空気のよいところでお育てするのが一番です、と医師団は口をそろえた。宮廷内にいる間に死なれては、自分たちの咎となるからだ。
ようやく首のすわったばかりの赤ん坊を連れて、ロタは馬車に乗った。それは皇族用のものではなく、普段農園との行き来に使われている、大きな荷馬車だった。
荷物は着替えとわずかな寝具だけだったが、侍従長が最後にそっとオルガの首に、紋章をかけた。真っ白な象牙でできていて、翡翠がはめ込まれている。翼が浮き彫りとなったそれだけが、オルガが皇族であることを示すものだった。
侍従長もさすがに哀れと思ったのだろう。
「道中、お気を付けて」
とロタに声をかけ、侍女がパンや甘い焼き菓子の詰まった籠を手渡した。
都の石畳の上を馬車が走り出した。大きな荷馬車はがたごとと音を立てる。窓の外を眺めながら、ロタはふいに思った。産み部屋でも、私たちには誰も声をかけてはこなかった。
「ちょっと、寄らなければいけないところがあるの」
御者はそれが最初からの命令だったかのように、向きを変えた。都から農園までは、城壁を出てしばらくある。買い物でもするのだろうと思ったのだ。行き先が貧民街でも驚かなかった。乳母の肌の色は浅黒い。
馬車を停めると、乳母は「少しここで待っていて」と言い置いて、古ぼけた建物の中に入っていった。近所の子供らが、物珍しそうに荷馬車を取り囲んだ。御者はうるさそうに鞭でそれを追い払った。
「いいわよ、出発してちょうだい」
再び荷馬車が動き出す。
大人が三人加わって、さすがに重そうだ。下男と下女もつけてもらったのかとだけ御者は思った。
「ロタ、大丈夫なのかい?私たちまで」
「いいのよ、母さん、父さん、姉さんだって、ここの暮らしよりはましかもしれないでしょう」
「それが皇女様?」
「ええ、そうよ」
「自分の子は抱けずに……」
「この子とは関係ないわ。それに、この子だって賢いのよ、ほら見て」
オルガは、周りを取り囲んだ浅黒い顔の大人たちを見ながら、確かににっこりと笑って、細い指を突き出した。
空は突き抜けるように青かった。冷気が馬車の中にも押し寄せてくるが、赤ん坊は寒くはないよう、絹の布団で幾重にもくるまれていた。
農園長は、宮廷からそんなしらせは届いていないと、胡散臭そうに荷馬車の一行を追い出そうとした。
だが、見るからに異国の風貌の一家が抱いている、小さな赤ん坊の首にかけられた皇家の紋章は、本物だった。赤ん坊がくるまれていた豪奢な絹の布団にも、紋章の模様が金糸で刺繍されている。
そう粗末にも扱えないと、皇族の御付のために建てられた宿舎があてがわれた。
女帝がここを訪れたのは、もう10年以上前、まだ皇太女だった少女の頃の話だ。以来、毎日ここから野菜や卵、肉が宮廷に運ばれて行くが、宮廷からは誰も訪れる者はいなかった。
御付のための宿舎もながらく使われていなかったが、それでもきれいに掃除されていた。
農園長は、宮廷から戻ってきた料理長からの注文書の裏に、オルガがそこでしばらく養生するからくれぐれも粗相のないように、という侍従長からの手紙を見つけて以来、丁寧になった。皇族用の宿舎に御移りになりますようにと言われたが、ロタは「陛下がいらっしゃるかもしれないので」と断り、実際はそんなことはないと分かっていたが、御付用宿舎に腰を落ち着けた。もし身内を呼んでいるのがばれて咎められても、その方が許されるかもしれないと思ったのだ。
毎朝、宮廷に運ぶのと同じ野菜や果物、肉や小麦粉、卵などが宿舎に届けられるようになった。
ロタたち一家は、国を離れて初めて、ようやく人心地着いた。
ただしそれは、オルガが生きている間だけなのだ。