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捜神記  作者: 蒼井優
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翼ある者

 偉大なる女帝が産んだ初めての子は、皺だらけで醜い女の赤ん坊だった。

 猿そっくりの顔は赤黒く、骨に皮のついた枯れ枝のような手足はどちらも折れそうなほど細く、握る力も蹴る力も弱々しい。

 年老いた猫のかすれ声に似た小さなそれが、この赤ん坊の産声だと、宮廷医師団が気付くのに一瞬間がいった。

 そして赤ん坊の首の付け根には、奇妙なこぶがあった。

 こぶは半透明で、押すと弾力があった。

 気丈な女帝は産んですぐに、

「どうか?」

 と尋ねた。とりあげた医師団の団長は、しばし沈黙した後、

「姫君でございます」

 とだけ答えた。

 女帝にとってはそれがすべてだった。

 そうか、と答えた後、女帝は初産にまつわるいっさいの興味を失った。


 ただちに、皇女用に選ばれていた乳母が呼ばれた。

 まだ夜明けまで間のある薄暗い外廊下を、乳母となるロタは寒さに震えながらひたひたと急ぎ足で進んだ。浅黒い肌、豊かな黒髪にはちきれそうな胸をしたロタ自身、まだ子を産んだばかりだ、

 あとひと月で新年を迎えるというのに、雪は降らずに寒さばかりが増していた。まるで宮殿全体が喪に服しているように、しんとしている。時折、どこかでひそひそと囁き声が聞こえる。

 中庭を通りかかると、皇子であった場合には、即座に打ち上げるべく用意されていた花火が片付けられ、そのままどこかへ運ばれていく最中であった。

 宮殿の向こうに、黒々とした竜王山脈の峰々が冷たくたたずんでいる。この国を統べる皇帝の一族は、その竜王山から下りてきた、背中に翼のある神の一族だったという。

 山脈の黒い影の上に、受け月が細く輝いていた。

 その山の向こう、はるか遠くに、ロタの育った国があった。


 宮殿の地下にある召使いの控えの間から、息を切らせて階段を駆け上がり、長い外廊下を走ってきたロタは、部屋の前で呼吸を整え、衣服の裾をそろえて、豊かな黒髪をまとめなおして、何事もなかったかのような顔で重い扉を叩いた。体中に血が巡ったので、はち切れそうな乳房の先端から、早くも乳がにじみ出ていた。

 音もなくゆっくりと扉が開いた。

 女帝の産み部屋のそこかしこに飾られた金の燭台の上で、白檀の香りが練り込まれた蝋燭の灯りがゆらめいていた。寝台や椅子などあらゆる家具が、豪奢な彫刻と、金箔や宝玉で飾りたてられ、蝋燭の揺れる炎をうっすらと反射させている。

 

 部屋中がぼんやりと金色に輝く中、小さな醜い赤ん坊がひとり、ゆりかごの中で眠っていた。

 宮廷医たちがそれを遠巻きに眺めては、時折ひそひそと囁き交わしている。空気が重かった。

 女帝はすでに後産をすませ、自分の寝室に戻っていた。

 白い上着に、揃いの白い頭巾をかぶった宮廷医たちは、ロタが来てホッとしたように、次々に部屋を出て行った。

 年配の医者が一人とロタだけが、赤ん坊と共に残された。医師団の団長だった。

 おずおずと近づいたロタに、口髭も真っ白な団長は、

「育たぬかもしれぬ」

とだけささやいた。


 ロタは己の身の不運を呪った。

 これから先、皇女が死ねば、乳母であるロタが何らかの咎を負わされるのは明らかだった。

 婚家に置いてきた、ふくふくとした可愛い我が子をロタは想った。色の白い、亡夫によく似た男の子だった。この醜い赤ん坊とでは、天と地ほどの差があった。

 ロタは、皇子用に念入りに選ばれた貴族階級の乳母とは違い、適当に選ばれた。乳が豊富に出るのが取り柄の、肌の浅黒い、黒い瞳の異民族の出だ。

 ロタの夫は、曾祖父に将軍を持つ、帝国の軍人一家の一人息子だった。それなりの家柄だったから、夫も軍人とはいうものの、戦の前線に出ることはなかった。

 けれども、帝国と同盟を結んだばかりの南国を守る任務について間もなく、熱病を得て、子が産まれる直前にあっさりと死んだ。

 ロタの産んだ子は男の子で、婚家は一人息子の忘れ形見となった、その赤ん坊を手放すはずもなかった。かといって帝国に逃げてきた異民族である嫁一家とは、元来身分が不釣り合いだと結婚に反対していた。

 ロタの父は、故国では大学で教えていたが、今では日雇い仕事にありつければよい方だったし、母は掃除婦をしていた。身一つで逃げてきたその一家は、今では下町の移民街でひっそりと暮らす労働者階級に過ぎない。


 ロタは12の時から、帝国の中流階級の一家に、女中仕事に出ていたが、月に一度だけ休みがあった。その休みの日、街の片隅の古本屋で本を探していた時に、軍人ながらに本好きだった夫と出会った。

 一冊の本に、二人は同時に手をのばし、相手に気付いて共に引いた。そして譲り合った末に、買ったらまずロタに貸すことを夫は約束した。ロタの肌の色と身なりで、暮らしぶりを察したようだった。

 貸してもらったその本を返す際に、ロタは故国から持ってきた、たった一つの本を一緒に渡した。言葉は違えどそれは同じ物語、古い神の物語をロタの故郷の言葉で書いたものだった。

 緑色の革で丁寧に装幀されたその本を見て、後に夫となったこの青年は驚き、初めて笑った。

 二人は古本屋の奥の椅子と机に陣取り、二つの本を並べて、引き比べて読んだ。


 やがてロタの腹に子が出来た。

 軍人一家はしぶしぶ結婚を認めた。

 だが本好きの、どちらかといえば軍人よりも学者肌だった息子に、無理やり跡を継がせた挙句、早死にされ、嘆き悲しんだ後は、婚家の面々はこの肌の浅黒い嫁の処遇に困惑した。

 産まれた子は欲しいが、嫁はいらない。

 そこで間もなく産まれる女帝の子の、皇女であった場合の乳母役に推挙したのだった。

 頑丈そうな体つきと、一日三回は絞らねば乳がたまって、ぱんぱんにはれるほどだったのを見込まれ、異民族ではあるが、推挙した婚家の家柄も確かだということで、乳母役に決まった。

 皇子用の乳母には応募が殺到したが、あえて皇女に応募した者は少なかったし、その中でも一番身分が高い家からの推挙、というだけのことだったのだが。


 自分の息子には、今頃、婚家筋の娘が乳をやっているのだろうか。

 皇子用に選ばれていた乳母と同じく、肌が白く、生粋の帝国生まれ、帝国育ちの、若い女が。

 自分が今、幸運なのか不運なのか判らぬままに、ロタは無駄かもしれないと思いながら、弱々しく泣く赤黒く痩せた赤ん坊に乳をむけた。

 見れば見るほど、小さな猿そっくりだった。


 戦がおきた後、こんな手足のか細い赤ん坊が次々に産まれたことを、ロタは思い出した。

 それまでは、故郷の町のいたるところで、よい匂いがしていた。

 立ち並ぶ屋台からは、炭火で炙られた鶏肉の香ばしい匂いが路上に流れだし、たっぷりと粥の入った鍋がたてる湯気と混ざり合っていた。卵を入れた黄金色の揚げ菓子の匂いが漂い、飴屋がべっこう色の練り飴を歩きながら売る声が響いていた。幼かったロタは、小遣いの銅銭を一つ握りしめては、姉たちと共に、飴屋を追いかけたものだ。

 北の大国と、帝国に挟まれた故国は、小さくとも交易によって栄えていたから豊かだった。

 だが北の大国と、帝国が衝突を繰り返すようになり、そうなると狭間の小さな国は慌てふためいた。

 かつて帝国との戦に負けてからは、独立とは名ばかりで、すでに帝国領の一部とみなされ、実際に帝国軍の兵士たちも防人となって、国境に駐屯していたから、帝国の味方をせざるをえなかった。


 けれども北の大国から、小麦粉はもちろんのこと、何もかもが入らなくなり、やがて南の交易路が異様なほどに訓練された山賊や海賊によって襲われ、次々と閉鎖された。

 砂糖も魚も米も、薬も、布も、木材も、何もかもが入ってこなくなった。

 一年が経つ頃には、一杯の水を巡って人殺しがおきることも珍しくはなかった。

 やがて大国軍が、国境を越えて押し寄せてきた。

 手当たり次第の殺戮が始まった。


 帝国に逃げるには、竜王山脈を歩いて越える以外に方法はなかった。

 夏でも雪と氷に閉ざされ、岩肌には草木一本生えず、人はもちろん山羊さえ住めない、けわしい峰の際を、ロタたち家族は他の人々と同じく歩いて越えた。馬も嫌がるから、北の大国の騎馬軍団も、追ってはこなかった。

 着の身着のままで逃げてきた者の中には、靴や手袋を持っていない者もいたから、手足が凍傷になった者も多かった。指が、鼻が、耳が欠けた者もいたが、それですめば幸運だった。誰も余分な靴や外套など持ってはいなかった。それどころか乾いたパンの一切れさえ持たずに逃げた者もいた。

 切り立った峰の上を、襤褸をまとった黒ずんだ人々の列が、途切れることなく続いた。道端には崖から落ちたり、病を得たり、飢えたりして死んだ者が、弔われることなく放り捨てられていた。

 まだ幼い少女だったロタは、それを見ても何とも思わなくなっていた。


 孕んでいた女たちの多くは死んだ。山越えに耐えられなかったのだ。幸いにも生きてこの世に出られた赤ん坊たちも、やがては干からびて死んでいった。

 ロタは死んだ赤ん坊や女たちの、洞穴のようなぽっかりとあいた黒い眼を忘れることはできない。その細い手足は枯れ枝のようで、まるで今目の前にいる、この醜い赤ん坊のそれにそっくりだった。


 この赤ん坊も、やがては干からびて死んでいくのだろうか。

 そうしたら自分はやはり殺されるのだろうかと、ぼんやり眺めながら乳を赤ん坊に寄せた。


 だが、その口元に白い乳がたれた瞬間、赤ん坊は小さな目をはっきりと開いた。

 そして小さな赤黒い手で乳房を引き寄せ、まるで暗い穴のように見える小さな口をぽっかりと開いて、力強く吸い付いた。

 誰に教わったのでもないのに、赤ん坊は懸命に乳を吸った。

 ロタの、破裂しそうなほど張り切った乳房の痛みが、少しずつ赤ん坊によって吸い出されていく。

 溢れるばかりの乳を腹一杯吸うと、赤ん坊はうとうとと眠りだした。

 まぶたを閉じれば、猿は猿なりに可愛かった。

 気の合わぬ母親の腹からようやく抜け出て、やっと栄養にありついたというところだったのかもしれぬと、後になってロタは思った。



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