第二話 「ひび割れる世界」
キンコンカンコンと終礼の鐘が鳴る。
全国共通で使われる間の抜けた音を聞く度、この国はやっぱり平和なんだなと、とりとめのない感想を抱いてしまう。
「じゃあそのまま帰りのHRやるぞー」
このクラスの社会科担当でもあり担任でもある佐藤先生だ。
先生がだらっとした声でそう告げると、クラスへの連絡事項をこれまただらっと告げていく。
佐藤先生の授業はその声のトーンからか、とても眠くなるとみんな口々に言っていた。
ただ、彼らの会話は、僕の知っている一般的な学生の会話のそれとは異なり、「そのせいで授業に集中出来なくて帰ってからしっかり復習しないといけないから困るんだ」とか言うのだ。
やはり、頭のいい人達はその思考回路からして、僕とは構造が違うらしい。
遠くて寮があるところならどこでもよかったが、これほど価値観の違う場所だったとは。
これではまるで、異世界じゃないか。
いつの間にか、HRは終わっていた。
教室にいるクラスメイト達が一斉に立ち上がるまで、僕はそのことに気が付かなかった。
今日はどうにも意識が散漫としている。
睡眠不足というわけでもないのに、どうしたのだろう。
こめかみに人差し指を当て、頭を傾けて考えてみる。
……そういえば今朝、両親からそれぞれ全く同じ内容のメールを受け取ったな。
(お前はどっちの味方なんだ)
要するに、本格的に離婚が確定したということに違いない。
後は、どちらが僕を引き取るか。
一般的には母親が引き取り、父親が慰謝料という形が多いと聞いているが。
仮に僕が何か言って、あの人達は僕の意見を聞いてくれるのだろうか。
……もし仮に、僕の言うことに耳を傾けてくれるというのなら。
もう一度、もう一度だけやり直してはくれないだろうか。
そんな願い、通らないだろうけど。
なら別に、僕はどちらでもいい。
どっちに付いたって、もう僕が一人であることに変わりはないだろうから。
いつの間にか、教室には誰もいなくなっていた。
僕も早く帰ろう。
ここにいたって何も始まらない。
外に出ると、空は薄く雲が這っているものの、概ね天気は良好。
陽は雲の合間を縫うように溢れ、その溢れだした光が雲の上に何本も線を引いているようだった。
「天使の梯子」というそうだ。
昔トウヤがそう教えてくれた。
なるほど確かに幻想的に見える。
名前の本当の由来は知らないけど。
もしもあそこから本当に天使の下へ行くことが出来るのだとしたら、どれだけいいだろう。
僕は空に見惚れながら家路に着く。
もうすぐ梅雨の時期だ。
今はまだ涼しいが、日中は大分気温も高くなってきている。
これから息をするのも億劫になるほど空気が蒸していくのかと思うと、心底うんざりする。
一年が春だけならいいのにと思う。
当たり前だけど、苦しいのは苦手だから。
少し寒いくらいが丁度良い。
それに、春って、何となく新しいことが始まりそうな気がするから。
「あれ?」
――思わず声を漏らした。
いつもならとっくに家に着いているだろう。
この神社前の通りを数十メートル行くと、商店街の入り口とぶつかる。
そこを左に曲がり二本目の十字路を右に渡り、また数十メートル行くと、僕の住んでいる学生寮がある。
学校から徒歩十分。
どんなにゆっくり歩いても、二十分で着くだろう。
だから神社の前の道なんて、ほんの数分歩くだけだというのに、未だ神社へと続く階段は見えない。
立ち止まり、振り返る。
……誰もいない。
もう一度前を見る。
変に静かだ。
少し強めに風が吹きつける。
ありとあらゆるものが、僕の恐怖心を煽った。
心臓の音が早くなった気がする。
生唾を飲み込んで、どうするべきか考えた。
……考えたって仕方が無いこともある。
とりあえず僕は、家に向かって走りだした。
「はぁ……はっ、はぁ……っ!」
走っても走っても、先に進んでいる気がしない。
ランニングマシーンの上をひたすら走っているような感覚だ。
景色は流れているはずなのに、身体は動かしているはずなのに、道に終わりがない。
どうしよう、帰れない。
いよいよ焦りはじめた、その時だった。
――ピシ。ミシ。
後ろから何か音が聞こえた。
何だ、何の音だ。
――――ピシ、ミシ。
間を置いて数度、その音が聞こえた。
何かが軋む音のようだ。
一体、どこから……。
周辺を更に細かく調べてみようと、歩道の端に視線をやった時。
パリン。
何かが、割れた。
それは窓ガラスを金属バットで割るような、そんな大きな音じゃなくて。
水溜まりに間違って片足を踏み込んでしまった時のような――。
僕はただ滅茶苦茶に走った。
もしかすると叫び声をあげていたのかもしれない。
何かが割れるようなその音から逃げるように、ただ夢中で走った。
そのうち、音が大きくなっていく。
音が近くなってくる。
視界に、ひびが入る。
――バリッ。
視界が、割れた。
「―――――ッ!?」
突然、世界が反転し、暗転する。
上下がわからなくなる。
左右がわからなくなる。
僕は僕だろうか、それすらも疑わしく思えてくる。
身体を動かそうとしても、動かしているような感覚がないのだ。
全てが暗黒に包まれていた。
……なんとなく、落ちていくような感覚はある。
それに気が付いた時、僕は、何故か心底安心したのだ。
このまま深い深い闇の中へ堕ちていけたら。
自身の形もわからなくなるほどに優しく包まれて眠れたら。
きっときっと、僕はそれだけで幸福なんだろう、と。
開いているか閉じているかもわからない目を閉じる。
そこには何も無かった。
あぁ、何もない。
何もないよ。
もし仮に、これで僕が終わっても構わない。
はじめからなかったようなものだから。
それで、いいよ、もう。
僕は、自分でも気持ち悪いほどの高揚感と充足感に包まれ、意識を失った。
※2018年6月1日、改稿。