はじまり
「んぁ……」
暗い闇から優真の意識が浮上してくる。
目に映るのは見慣れた天井。DLCとして購入した優真の拠点だ。
未だはっきりとしない記憶を何とか手繰ろうとした。
(ゲームオーバーか?)
転送魔法が正しく効果を発揮すれば、帰ってくるのは地下に置いてあるダンジョンメイカーの前のはず。
しかし、体力がゼロになりゲームオーバーとなれば、復活するのは島内の教会のはずだ。
「ん?」
疑問に導かれるように体を起こす。
そう、優真がいるのは拠点となる住居の一室。
名目的に休憩室としている部屋だ。
(なんだこれ……? ゲームオーバーなら教会だろ? でも、地下でもないし……?)
何かよく分からないことが起きている。
ともかく現状を把握しようと、『気怠さが残る』体に鞭を打とうとして優真の動きがピタリと止まった。
「え?」
『AF』では疲労度というステータスが設定されている。
これは戦闘を繰り返したり、状態異常のペナルティを受けたりすることで増加する数値だ。
疲労度が溜まると、俊敏度が低下するなど不利な効果をステータスに及ぼす。
そう、俊敏度の低下などの効果である。
間違っても実際に『疲労感』を覚えたりするはずではない。
VRマシンは五感に働きかけるという特性上、装着者に対するフィードバックは最小限に抑えられている。
人によっては、剣で切り付けられるという視覚情報だけで体に変調をきたすこともあるのだ。
特に負のフィードバック、痛みや疲労などはほぼゼロとなっている。
しかし今はそうではない。
腕や足には気怠さが残り、ほんの僅かにではあるが筋肉痛のような痛みもある。
(なんだ……? え? バグ?)
それだけではない、優真の五感が明らかに現状の異常さを伝えてくる。
(布団ってこんなに柔らかかったか? 肌触りってこんなにリアルだったか?)
夢でも見ているのか。
そう考えて手の甲をつねってみる。
「……痛い」
どうやら夢ではなさそうだ。
ならば、とりあえずログアウトをしようと試みる。
些細なバグであるならば電源のオンオフで解消するかもしれないからだ。
「あれ……? メニューが出ない!」
ログアウトを行うため、システムメニューを開こうとするがどう頑張っても半透明のウィンドウが現れることはなかった。
「え、なに!? どうなって……!」
思考が停止、頭の中が真っ白になって発狂しそうになる。
この感覚は、まるで『ゲームが現実になった』とでも言わんばかりだ。
「お、落ち着け……落ち着け……」
繰り返しつぶやくが、その効果は薄い。
むしろ否応なしに上がっていく心拍数が、現状がゲームではないということを強く訴えてくる。
「マジかよ……一体なんなんだよ……」
世間一般から比較すると『落ち着いている』、『冷静だ』との評価を得ることが多い優真も今ばかりは徹底して混乱していた。
平和な現代日本での評価はこのような異常事態には全く役に立たないのであった。
それは優真自身がごくごく一般的な人間であることの証拠ともいえる。
猛獣のひしめく檻に放り込まれたウサギのような心境の優真は、扉から響くノックの音に対して心臓と一緒に飛び上がった。
「はひっ!?」
情けない声である。
優真が堵殺前の豚のような声をあげると、扉の向こうから声が聞こえてくる。
「失礼します」
そのまま盾に使えそうな分厚い扉が、重厚な音とともに開かれる。
そして部屋に入ってきたのは、一人の女性だった。
「……美……だ」
美人だ、美少女だ。
どちらを言おうとしていたのかは分からない。だが、そこに立つ女性はそのどちらでもあり、そのどちら以上の美貌を持っていた。
肩まで伸びた金髪に、磁器のような白い肌。丸く青い瞳には慈愛の光が灯り、柔らかな唇は言葉を発するたびに見る者を虜にしそうである。
そして最大の特徴はその背中にあった。
柔らかな羽を束ねた純白の翼がふわりと広がっている。
「ユーマ様、おはよう御座います」
「……もしかして、リリー?」
「? はい、そうですが」
きょとんとして首をかしげるリリー。
それは少女のようなあどけなさと、妙齢の女性のような気品に満ち溢れていた。
生きる芸術作品とでもいうべきほどのリリーの姿を目の前にして、優真は――
(いやいや、まて。リリー? あのリリー? DLCで500円で購入して俺が設定したあのリリー!? ウソだろ? いや、でも外見は大体似ているし、いや! でもここまで美人じゃなかったような!? あ、あれか? 余った経験値を『美しさ』に流し込んだからか!? いや、でもリリー? リリー!?)
絶好調に混乱していた。
凄まじいスピードでどうでもいいことを考える優真。
口が半分開いて瞳が高速で動き、瞬きを連打する。そんな誰がどう見ても大丈夫ではない優真にリリーが声をかけた。
「あの……ユーマ様?」
「りりりりりりりりり……」
電話のベルのような返事しかしない優真にリリーが慌てて近づいていく。
そしてベッドの横に膝をつき、優真の手を優しく両手で包んだ。
五十嵐優真23歳、母親以外の女性と初めて手をつないだ瞬間である。
「あばばばあっばあっば……」
優真の初めてを奪った女性は街を歩くだけで崇め奉られんばかりの美女、または美少女(翼付き)である。
実際に優真もこの女性が教祖であるならば、魂の1つや2つを生贄にしてもいいとさえ思った。
そんな女性が、優真の右手を両手で包みながら、少し潤んだ心配そうな目で斜め下から見つめてくるのである。
「あーあーあー」
過ぎた衝撃に脳が活動を停止した。
23歳まで純潔を守りきった優真の脳みそである。
この反応はむしろ当然ともいえる。
しかし、それに対するリリーの反応は素早かった。
「ユーマ様! す、すぐに治して差し上げますっ!」
言うや否や、リリーの足元に白く輝く魔法陣が展開された。
そしてその光は手をつながれたままの優真を覆っていく。
「≪リフレッシュ≫!!」
リフレッシュ。
字面だけならば非常にシンプルで親しみやすいものである。
しかし、こと『AF』ではこれは究極の回復魔法である。
スキル『光魔法』がレベル100でカンストしていることと、特別なアイテムを消費して初めて使用可能になるこの魔法は、『対象者の完全回復』という効果をもたらす。
この完全回復とは、生きていようが死んでいようが、本人がその能力を最大限に発揮できる肉体状況を即座に用意するというものである。
強力であるがゆえに、肉体レベルが1000のリリーの魔力も半分近く消費されてしまうのが唯一の欠点である。
その欠点も、リリーが装備する毎秒最大魔力の50%回復の効果を持つ指輪によって無いも同然なことになってはいるのだが。
「ユーマ様、大丈夫ですか!?」
優真が混乱しているというだけで、一瞬の迷いもなく最大効果の回復魔法を唱えたリリー。
これは彼女の愛であり、忠誠であり、過保護な部分でもあった。
そして男女関係なしに全ての人の心を奪う美貌を持つ彼女の、最大の魔法と愛を一身に受けたこの男は――
「あ、ありがとう、リリー。なんとか落ち着いたよ」
効果てきめんであった。
若干声が上ずっているのは優真自身の対女性能力の低さに起因するだけである。
「ええと……リリー、でいいんだよね」
「はい! 私はユーマ様の忠実なる僕のリリーです!」
「しもっ、僕っ……!」
リリーの返事にまたも優真の脳が暴走しそうになる。
今回の暴走は先ほどのようなこんがらがったカオス方面ではなく、目の前のリリーの僕発言によるピンク方面なものであった。
一瞬にして優真の肉体的状況が即座に用意されそうになるが、一度深く息を吐くとすぐに収まった。
≪リフレッシュ≫さまさまである。
「ふぅ……」
魔法効果の残滓が優真に冷静な思考能力を取り戻させた。
(ええと……おかしいよな。基本的に従者は「了解」か「不可能です」の返事しかしないもんな。それに……)
優真の右手は、いまだにリリーに包まれたままだ。
柔らかさと温かさがしっかりと伝わってくる。
(『AF』は全年齢対象だから、NPCに触れることはできないはず……でも……)
少しだけリリーの手を握ってみる。
すると、驚いたように指先がピクリと反応した後、若干強めに握り返してくれた。
(触れるし……ってことはやっぱり……そうなのか)
どうやらこの状況を素直に受け止めたほうがよさそうだ。
素直に受け止めるとは、『ゲームの世界に入ってしまった』もしくは『ゲームの世界が現実になった』などと理解することである。
(現状は……問題とかなさそうだな。ともかく身の回りの状況とかを把握しないと……いったい何がどうなってるんだ)
「あのさ、リリー」
いろいろと聞きたいことがあるんだけど、と続けようとした優真が固まった。
手を握ってもらったリリーが蕩けそうな表情で優真を見つめていたからだ。
それはまさしく恋する乙女のもの。いや、それにしてはやや耽美すぎる表情ではあった。
「ユーマ様ぁ……」
「あの……リリー?」
ここで事態をリリー側から見てみよう。
生み出されて三年間、優真と共に冒険を続けたリリー。
しかしリリーをNPCと割り切っている優真から放たれる言葉は簡単な命令文のみ。
一度もその肌に触れたことがないのである。
今はどうだろう。
リリーの行動に非常に人間味あふれた反応を返してくれる上に、手を(先に握ったのはリリーではあるが)ギュッと握ってくれたのである。
忠誠心マックスの彼女にとってこれは紛うことなき最上級のご褒美であった。
「リリー?」
「はわぁ! は、はい!」
名前を呼ばれたリリーがパタパタと手を振りながら我に返る。
その様子はレベル1000の猛者にはとても見えないものだ。
「ええと、とりあえず全員を中央ロビーに集めてくれるかな? 話がある」
「はい! ただちに!」
優真の命令にビシッと返事をしたリリーが部屋から飛び出していく。
その背中を目線で追うと、柔らかな羽毛に包まれた白い翼が見える。
「……よし」
小さくつぶやき、気合を入れる。
(まずするべきことは、現状把握だ。さっきのリリーの反応を見るに従者や他のNPCにも所謂『心』があるようだな。
ということはさっきの命令は不味かったか? きちんと個人として認めて尊重しないとな)
何気なく命令をしたが、現実となった(と考えるべき)この世界ではそのような行動は慎むべきなのだろうか。
そんなことを考えながら、優真は自身のことを調べていく。
(顔つき、体つきは全く『俺』のまま……か。ステータスは……)
念じると、目の前にウィンドウが現れる。
オプションやログアウト等といった項目は消えているが、それ以外は『AF』のままである。
(各ステータスはそのままか。でも別に超人になったような感じはしないな)
ゆっくりと手のひらを閉じたり開いたりする。
あくまでも一般的な力であり、扉を開こうと思ったらドアノブを引きちぎってしまった、などという事態にはならなさそうだ。
そんなふうにしてゆっくりと現状確認を続けた結果、分かったことは以下のとおりである。
・ステータスはゲームの時のまま。ただし日常行動に支障はなさそう。
・アイテムを保管するストレージもそのまま使用可能。念じて出てきた目の前の穴に手を突っ込むと任意のアイテムが取り出せる。
・持っているアイテムやスキル、ステータスを確認するためのウィンドウは問題なく開くことが出来る。しかし、ログアウトやオプションなどの機能を表示するウィンドウは表示されない。
(ゲームから、システム的要素がなくなっただけだな)
ここまで冷静に考えて、優真の中にある疑問がわいた。
(あれ? どうしてこんなに冷静なんだ? ≪リフレッシュ≫の効果はもう切れているはず……)
考えた末に、ある仮説にたどり着いた。
(ステータスの精神力、これか?)
ゲームでは魔法の威力や呪いなどのバッドステータスへの耐性を示すものだ。
しかし現実となった今では、文字通り精神の安定をもたらすものではないだろうか。
(まぁ、冷静に物事を考えられるってのはいいことだよな)
突飛であり得ない現状に混乱することなく対応できているのがその証拠であろう。
(とりあえずは……現状認識が必要だな)
優真の決意を計ったかのように、木製のドアから鈍い音が響く。
そしてゆっくりと扉が開き、リリーが部屋の中に歩みを進めた。
「ユーマ様、全ての従者、使用人が集まりました」
「分かった。すぐに行くよ」
あえてゆっくりと返事を返した後、優真は内心ほくそ笑む。
(ふふふ、もう手を握られただけで動揺などしないさ)
ステータスによって与えられた心理的余裕。
それが優真のゆったりとした行動をもたらしたのだ。
そしてベッドから足をだし、靴を履こうとかがむ。
「ユーマ様、お手伝いしますっ」
編み上げブーツに足を入れた優真にリリーが素早く近づいた。
「ああ、頼むよ」
「はいっ、直ちに!」
優真の足元に跪き、手際よく靴ひもを結んでいく。
そんなリリーの様子を見て、優真の口角が思わず上がる。
(ほら、もう大丈夫だ。こんな美人に悠々と命令を出せ……るっ!?)
次いで、目が飛び出さんばかりになった。
天人族のリリーはまさに『神のような』美人である。
その造形はあどけない美少女の様でもあり、成熟した美女の様でもある。
シミどころか皺を探すことすら困難な肌は、見るだけでもその柔らかさと滑らかさが分かる。
そんなリリーが纏うのは、戦闘時とはうってかわって外観重視な服装だ。
ダンジョン外でのリリーの服装は、プリセット通りの『天のローブ』であり、それは肩から胸元にかけて大きく露出した純白のローブである。
つまり、それなりに胸部のボリュームがないとストンと下に落ちてしまいそうなものである。
そんな服を着た美人が優真の足元に跪くのである。
ななめ上方45°からのベストショットである。
筆舌尽し難き柔らかな双房が、跪くという動作も相まって『たゆん』と揺れ、太ももに挟まれて『ふにゅん』と形を変える。
その光景は優真にとっては些か、というよりもかなり過激であった。
その結果……
「おっおおおおおっ!?」
四文字中の初めの一文字を連呼して、優真は再び壊れた。
直後に二度目の≪リフレッシュ≫が発動したのは言うまでもない。