藍咲家当主の死亡
旅館『はたご』に一泊した美由紀は、朝みたび湯に浸かって、湯上りの牛乳を飲んでいたところだったが、村のどこかでパトカーのサイレンが聞こえてきて「なんだろう」と思った。旅館で働く仲居たちも美由紀以上に気になる様子で、玄関まで出て野次馬と化した。その様子を見て美由紀は、仲居の一人に話しかけた。
「あの、何があったか分かりますか」
「いえ、分かりません。でもサイレンを鳴らすことなんて、滅多に無いことなんです。何か大変なことが起こっているんじゃないかと思います」
美由紀は、それだけ聞くと、部屋に戻ってスマホを見た。法司から着信があっている。すぐに折り返し電話をかける。
「あ、法司。着信があったけど、何かあったの?」
「朝早くから済まない。実は藍咲家の当主、藍咲矢一さんが今朝遺体で発見されたとの知らせが村の警察からあった。私は今から藍咲家に向かって状況を確認する。途中で拾うから一緒に来てくれないか」
「了解」
程無くして、法司の運転する車が、旅館『はたご』の前に到着し、美由紀を呼んだ。今回はフェラーリF50ではなく、四駆の乗用車だ。
「車変わったわね」
「村までは自分の車で来た。これから山を越えるので、村の人から借りてきた」
「あんまり飛ばさないで」
「分かっている。右ハンドルの運転は不慣れだ。よかったら柊が運転しないか」
「私は、ペーパードライバーだからパス」
「そうか。予め現場は保全するよう、村の警察には頼んである。急ごう」
村の通りこそ、法定速度で走ったが、山道に入ると例のパターンでぶっ飛ばし、あっと言う間に藍咲家に到着した。
四駆から降りた美由紀は、草むらに行き出すものを出した。
「…。あんたの車には金輪際乗んない」
「出来るだけ早く現場に着きたかった」
法司は、相変わらずの無表情で言ったが、本当はわざとやっているのかも知れない。だとしたら相当のサディストだ。
二人は、見事な日本家屋の玄関へ入ると、歩哨に立つ一人の駐在に声を掛けた。
「紫水神宮の本郷です」
「ご苦労様です。どうぞ」駐在は敬礼して、法司らを現場に案内した。すでに数人の駐在が、鑑識を連れて捜査に当っていた。駐在の主任らしき男性が法司を認め、「どうも、お待ちしてました」と出迎えた。
「寝室ですね。発見されたときの状況を教えてください」
本来なら、事件事故の捜査に民間人が介在する余地は無いが、この村では、紫水神宮を崇める慣習から、本郷家の者は実力者扱いを受ける。
「はい。矢一氏は、今朝ベッドで遺体で発見され、死因は首の骨を折られたことが原因と視ています。私が駐在になってはじめてのことですが、どうやら殺人事件のようです。参りました…。今県警に応援を要請したところです」
田舎の駐在は、殺人事件に遭遇することは殆ど無い。そのため今回のような事件では、県警から応援を呼ぶことにした。
「この家の使用人が第一発見者ですが、状況が微妙でして、使用人が言うには、矢一氏の遺体の傍には奥さんの美弥さんがいて、泣き崩れていたとのことです。つまり本当の第一発見者は、奥さんということになるのかも知れませんが、美弥さんに事情聴取しても、何にも話してくれんのです」
「…。美弥さんに会ってもいいでしょうか」
「どうぞ。こっちです」主任は法司を別室へ案内した。
「リビングのソファーに座っているのが美弥さんです」
法司と美由紀は、空を見つめてぼうとしている老婆の美弥に自己紹介し挨拶した。
「法司さん…。お久しぶりね」
「美弥さん、矢一さんのこと、お気の毒でした。少し落ち着かれましたか」
「…」美弥は黙ったままだ。
矢一は今年八十二歳、美弥は七十五歳で、二人とも高齢だった。
藍咲家は次期当主の探題とその妻和貴子、子供は長男航太郎と長女の美紀の六人家族で、矢一は彫刻家としてその生涯を費やし、作品も国内外に高い評価を受けていた。
作風はとくに中国の影響を色濃く出していて、その中国では非常に優れた作品として、高値で売買される。また、既存の彫刻の補修などの仕事も依頼があり、藍咲家の収入は、矢一の仕事だけで、相当なものであった。
「美弥さん。また落ち着いたら話を聞かせてください」と法司はそれだけ言うと現場の寝室へ戻り、主任駐在に声を掛け、家の者に話を聞く許可をもらった。
法司と美由紀は手分けして聞き込みに回った。
美由紀はまず探題氏に挨拶し、話を聞いた。
「探題さん。これが殺人だとして、矢一さんが殺される理由に心当たりがありますか?」
「考えてみたが、親父は芸術家で偏屈な性格でな。人との付き合いは殆ど無かったと思う。殺される理由なんぞ、全く分からん」
「そうですか」
「何か最近変わったことは有りませんでしたか」
「駐在にも同じことを聞かれたが、特に親父について変わったことは何も無い。ただ長い間行方不明だった、わしの弟の直弥が帰ってきたくらいだ」
「弟さん?」
「ああ。三十六年ぶりに消息不明だった直弥が、記憶喪失から回復し帰ってきた。今はまたもとの住まいに帰っていると思う。弟が帰ってきたと思ったら、今度は親父が殺された」
「弟さんの連絡先は聞いてますか?」
「駐在に直弥の主治医の連絡を教えてある。携帯をもっていないと言っていたからな」
「…。分かりました」
美由紀は今度は、探題の長女美紀に話を聞いた。
「んー。おじいちゃんが殺されたなんて、まだ信じられない」美紀は目を泣き腫らして答えた。
「美紀さん。きのうの夜、何か気がついたことはなかったの?」
「無いですー。美紀の部屋はおじいちゃんの部屋からは遠いので、寝てたら物音がしても起きないと思います」
「ありがとう…」
美由紀は最後に、探題の長男航太郎に話を聞いた。
「航太郎さん、あなたもお仕事は彫刻家ですね。実質的におじいさまの矢一さんのお弟子さんでしたか?」
「はい。彫刻のいろはは祖父から手ほどきを受けました。父は才能が無かったので、祖父は僕に目を掛けてくれていたようです」
「探題さんは、商社をやっているそうですね」
「はい。彫刻家としての才能が無い代わりに、祖父と僕の作品を国内外に売る仕事をやっています」
「そうですか。作業場でこれまでの矢一さんの作品と、あなたの作品を拝見しました。実に見事な仕事と、彫刻に不勉強の私にも感じられました」
「…。ありがとうございます」
「答えにくいときは、おっしゃらなくてもいいのですが、矢一さんとあなたの作品では、作風というか、方向性が随分違うように思いました。普通、師匠の跡をお弟子さんが継ぐ場合は、このような彫刻の世界では作風が変わってしまうことはよくあるのでしょうか」
「…。さすが裁判官をやってらっしゃることはある。鋭い質問です」
航太郎は、苦笑いをして言った。
「実はここ数年、僕と祖父は、意見が合わなくなっていました。祖父は大陸のモチーフを自分のものとして昇華し、芸術性を高めていましたが、僕の場合はもっと自由な発想で、あたらな境地を切り開くような芸術に挑んでみたかったんです。その事を祖父に話すと、烈火のように怒り出して、それ以来反りが合わなくなってしまいました。本当は僕はこの村を出て、広い世界で自分の力を試してみたいと思っています」
「そうでしたか。では航太郎さんは矢一さんにとってある意味、探題さんより近しい存在と言えますが、その観点から矢一さんが殺される理由について、心当たりはありませんか?」
「この世界で、命のやり取りになるようなことは、例えば盗作疑惑くらいなものでしょうか。そういった意味では、祖父は問題を抱えるようなことは無かったと思います」
「…。そうですか。ところで、昨日本郷の家であった、本郷家当主の継承問題の話し合いのとき、橘家の菜摘さんがあなたの事をお尋ねでした。彼女とあなたは…。お付き合いを?」
「そんなことまでご存知なんですね。はい、僕と菜摘は好き合っています。ただ出会いは芸術系の専門学校のサークルで知り合って、お互い自分の家のことは全く知りませんでした。夏休みで帰省する話になったとき、実家が同じ御供処村だったことで、はじめて分かったんです」
航太郎は今年二十二歳、橘菜摘は十九歳。若い二人にとって、家の確執問題は、心に大きな負担だろうと美由紀は思った。
「最後に一つ。航太郎さんと菜摘さんのことを矢一さんは?」
「いえ、知らなかったと思います。父と母に知れたのが二、三日前で、このことで祖父から何か言われたことはありませんから」
「そうですか。どうもありがとう」
美由紀は航太郎と別れて、法司と合流して、互いの結果を共有した。
「今、一番動機が強いのは、航太郎ね。あと怪しいのが最近帰ってきた、探題の弟直弥なる人物」
「使用人や、和貴子さんに聞いたが、証言に矛盾点は無く、矢一さんの死亡について、何か隠している様子は感じられなかった」
「法司の色仕掛けに、白状しないなんていないしね」
「…。おかしなことを言う。私の思い人はたった一人しかいない」
「はい、はい。正太郎が聞いたら、またゲロ吐くわー」
どこかで、ハクションと一度くしゃみがする。
「とにかくいったん、村に戻って駐在所と相談しながら、今後を考えましょう」
「分かった。今度は柊が運転してくれ」
「わ、分かった」
二人がそう言って四駆に乗り込むと、美由紀の超スローな運転に、法司は居眠りをして村に着いたのは昼過ぎであった。