第6話 初対面の再会
「井戸」の記述に関しては深く考えないで下さい。
麻道は本物の井戸を見たことはあるが仕組みは知らない人なので、実際の井戸と比較すると矛盾があるかも知れません。
朝。窓の外で鳥が鳴き始めてしばらく経った頃、ハクはその目蓋をゆっくりと持ち上げた。眠気は身体に根強く残っているが奴隷が惰眠を貪るという訳にはいかない。
起き上がって自らの頬を軽く叩く。パシッ、と音が部屋に響く。頭を振って眠気を飛ばし、ベッドから抜け出す。
寝巻きに着替えずに寝てしまったので着ていた白のワンピースはしわだらけになっていた。棚の中にしまっておいた新たな服を取り出して、ワンピースを脱ぎ、取り出したものに着替える。
そして姿見の前に立って身なりを整える。姿見は元からこの家にあったもので所々割れてしまっているが十分に機能を果たせていた。服のしわを伸ばし、髪を手櫛で整える。「よし」
部屋の扉を開けると、キィと音が鳴った。昨日の夜は眠気に負けて気付けなかったが、どうやら蝶番に問題があるらしい。
「朝食が終わったら見てみよ」
扉の開閉音をなくすことよりも主の食事を作ることの方が優先されるのだ。
再び、キィと音を立てて扉を閉めて、廊下を歩き、台所へ。
棚から包丁とまな板を取ってきて、次に野菜を洗う―――ための水がほとんど残っていなかった。桶には一割ほどしか水が入っていない。
「今から取りに行かなきゃいけない、よね……」
思わず、答えの返ってくるはずのない質問をしてしまう。
「………」
もちろん誰かが応えるはずもなく、ハク自身も無言だった。
「仕方ないよね。水がなきゃ朝食が作れないんだし……はぁ」
ため息が零れる。
包丁やまな板、野菜を放置したまま、桶を持って台所を出た。自身の部屋とは逆方向に廊下を歩み、すぐに玄関に達する。脇においてあるもう一つの桶も手に持って、家から出る。
まだ日はそれほど昇っておらず、少し肌寒いくらいの涼しさが眠気を完全に飛ばす。朝の新鮮な空気は身体から淀みを取り去ってくれているようで心地良かった。
立ち止まって目を閉じて、一度深呼吸をする。あちらこちらから鳥の声が聞こえる………
「――いけない。和んでいる場合じゃなかった」
歩き出す。家の傍らに作られている、昨日まで蓋の置かれていた井戸を恨めしそうに見ながら、ハクは川へと進む。
普通なら家にある井戸の水を汲めば良いはずなのだ。だが長い間放置され、かき混ぜられることも新しい水が入ってくることもなかったために井戸の中の水は腐ってしまっていた。近いうち腐った水を捨てなければならない。
歩くこと数分、家から川までの道のりのおよそ四分の一を消化したところで、後ろから声が聞こえた。
「……サユ?」
聞き覚えのある声だったが、構わず歩き続けた。
「待って、サユ」
声は明らかにハクにかけられているものだったが、歩みを止めることはない。ハクは決して"サユ"という人物ではないから。
「サユ、あんた、サユじゃないのかい?」
その言葉に足を止めて振り返る。齢三十代後半ほどと思われる女性がいた。
「違います」
先程の質問に対し、いつも通りの無表情で簡潔な真実を述べる。
「だってあんたはどう考えたって――」
言葉を遮るように、ハクはスッと腕を上げた。そこにある人間失格の烙印を見せるために。
「――えっ……」
女性は一瞬驚愕を露にした後、徐々にその表情が納得に変わっていった。その間中、彼女の視線はずっと白い腕輪に捕らわれていた。
「主様の朝食を作らないといけないので私はこれで失礼します」
軽く会釈すると女性に背を向けて歩き出した。
「待ちなよ、サユ……じゃなかった。あんた、名前はなんて言うんだい」
ハクは立ち止まって振り返る。
「私はハクと名乗っております」
また振り返って歩き出すと、女性は小走りで駆け寄ってきた。並んで歩く。
「こっちにはいつ帰ってきたんだい?」
ハクはため息を一つ吐く。無視しても話しかけられそうだったので会話を続けることを決めた。
「……昨日です」
「へえ。昨日なのかい。なら、どこに住んで――」
「お答えできません」質問を遮り、素早く答える。
「なんで?」
「主様のプライバシーに関することを許可なく口には出来ませんので」
「そうかい………ハクは今、幸せ――いや、今の状況に満足しているかい?」
「もちろん満足しています」
即答だった。言葉に力強さはなかったが、決意のようなものを感じさせる響きだった。
「ハク、あんた本当に、満足、しているんだね?」
女性は一句一句区切って発音する。確認を求める言葉の裏に『嘘を吐くな』という本心が存在することは明らかだった。
「もちろんです」
やはり即答。
思考に要した時間はなく、身体に刻まれた通りの答えを伝達する。
表情にはいつも以上に変化がない。心を読み取らせないためのハクの努力はむしろ女性を訝かしませる結果となっていたが。
「そうかい……」
女性のその言葉を最後に無言の時間が続いた。
そもそも、満足しているかという質問自体がおかしいのだ。
満足していないと答えることは、主に文句をつけるということ、それは許されないのである。その上、何が問題なのか問われることになるかも知れない。主に関する事柄は答えられないので、初めからその質問には答えられないことは決まっている。ならばわざわざ満足していないと答える道理はないだろう。
数分の後、女性がゆっくりと話し出した。
「これは昔話、一年と少し前のことなんだけどね。私の家の近所にある家族が住んでいたんだ。今はいなくなっちまったけどね」
「やめてください」
ハクは女性を睨む。珍しく怒気の籠もった瞳をしていた。
「なんでだい?」
「その家族の話は、私には関係のないことです」
口ではそう言ったが、実際は聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちがハクの中で複雑に混ざり合っていた。
「あんたのために話してるんじゃあ、ない。所詮私の自己満足さ」
女性は自嘲気味に言った。そしてハクを見つめる。
「あんたが認められないってんなら、この話は私の独り言ってことにしてくれて構わない。ただね、あんたには聞く義務があるんだ」
「………」
ハクは何も言うことが出来ず、無言で女性の言葉を待った。
そして女性は語り始める。とある事件の顛末を。
この小説中での井戸は、雨水をろ過して溜めておく装置のことを指しています。
そのため雨水を取り込む部分に蓋をすると中に新しい水が入ってくることはなくなります。
ちなみに、使う人がいなくなった井戸は水が溢れてしまわないように蓋をするのが通例です。
前書きや後書きを使ってつじつま合わせをするようでは、まだまだだと思います。これからも精進するので見捨てないでやって下さい。
それと、土日は模試と部活で忙しくなってしまうので、次話投稿は早くても月曜日になりそうです。
最悪、水曜くらいまでには投稿します。