第5話 少女の想い
今回はハク視点です。
時は少しだけ遡る。
――ハクは一礼するとコクの元を去った。
コクの部屋の扉が閉まる音を聞きながら廊下を歩き、物置に行く。そこで箒など掃除道具を片付けて、やっと一日の仕事が終わった。
「ふう」息が漏れる。
いくら家が小さく、住む人が二人しかいないとはいえ、掃除や料理などの家事全般を一人でこなすというのは慣れない身体には堪えるものだ。
物置から出て、今度は自分の部屋に向かう。廊下には明かりは無く、ただ窓から入ってくる月明かりが淡く照らしているのみ。しかし視界が悪い中でもハクの足取りは鈍ることはなく、曲がり角も壁にぶつかることもなく平然と進む。それはやって来て間もないはずのこの家の間取りを正確に把握しているかのようだ。
自室に入ると服を着替える間も惜しんでベッドに倒れこむ。本当は寝巻きが用意されているのだが、通常奴隷はそんなものを着ないし、着る気力も失せていた。ハクを買った人は侍女の真似事をさせたいらしく、人間と同じ水準の生活を保障してくれた。
目を閉じて暗闇に身をゆだねる。
「そういえばコク様に場所教えるの忘れてた……」寝巻きの場所を教え忘れていたことに気付いたが、今更伝えても既に手遅れかもしれない。
ふと疑問が過ぎる――コク様はどこの出身なのだろうか。奴隷に関する知識が皆無だったのは記憶喪失のためか、それとも奴隷の文化がない地域の出身だからなのか。
分からない。
分からないが、そんなことは奴隷の自分には関係がないことだ。
――"ハクのその身体は人間のものだろ"
彼の言葉が蘇る。
確かにそれも一面では正しい。しかし人間と奴隷は決して同じではない、同じものとして扱われてはならない。義務を果たせなかった弱者や罪人――奴隷は権利を行使してはならないのだ。
『では義務とは何だ』
誰かに囁かれた気がした。
慌てて目を開けて確認するが、月明かりに照らされた部屋に浮かび上がる人影はない。もう一度目を閉じる。
どこからともなく聞こえてきた言葉。『義務とは何だ』
知らない、分からない。
そんなことは奴隷の私が知る必要はない。考えることに意味もない。
私は奴隷になった。それが事実。
私が弱者だった。それも事実。
奴隷になる過程がどのようなものであったとしてもそれは変わらない。弱者だったから奴隷になったという単純な結論がある。
だからこれ以上何も考える必要はない。何も考えてはならない。私は奴隷だから。考えてはならない。
もし考えて、それで結論が出てしまったら、今まで自分を支えていたモノが壊れてしまうような気がした。
奴隷だから仕方ない。そう自分に言い聞かせて生きてきた。何度も何度も呪文のように。奴隷になった日からずっとずっと、いつもそのことだけを考えていた。
なのにどうして私に人間としての生活をすることを強いるの? どうして私を奴隷として扱ってくれないの?
ここで甘えてしまったらもう奴隷として生きていくことが出来なくなる。奴隷だから仕方がないと必死に言い聞かせてきたのに、その支柱を壊されてしまう。でもコク様はそれを望んでいて………。
気持ちが揺れ動く。奴隷として生きてきた日々の中で今日ほど楽しかった日は他にない。人間として扱ってもらえただけで、人間だったときの私が感じたどの喜びよりも、嬉しかった。けれど私は奴隷。
確かに、今日の私の行動は明らかに奴隷の範疇を超えていた。しかし私はコク様の「人間として振舞ってほしい」という期待に応えただけ。
……違う、それは言い訳。引き金を引いてしまったのはコク様の態度であることに違いはないが、私の中に人間として生きたいという気持ちが燻ぶっていたのも理由の一端。
人間として生きたい。コク様は許してくれるだろう。しかし私自身が許せないし、なによりそれは赦されないことだ。
コク様が奴隷がどういうものか理解すれば、きっと奴隷である私に対する見方も変わる。それまでの辛抱だ。
私は奴隷だからコク様の期待には応えなければならない。しかし、それと同時に人間として生きることは出来ない。
コク様が奴隷と言うものを理解するまで。それまで私は人間――侍女として生きよう。決して奴隷だということは忘れずに。
そう決意して―――白き少女は夢の世界へ落ちていく。その胸の内に黒き姿を秘めながら。
ハクは夢を見る。それは幸せな夢などではなかったが、奴隷になってから見る数少ない悪夢以外の夢。それは今の主と初めて対面したときから始まる夢。
目の前は唐突に白い光に包まれる。
慌てて目を閉じ、光が収まると目蓋を上げた。すると、直前まで何もなかった祭壇のような場所の中心には黒い少年が横たわっていた。御伽噺の中でしか存在しない魔法を見ているかのようだった。
隣に立っていた男が祭壇に上り、少年へと歩いていく。それを追いながらも、もしかしてこの男がさっきの光を引き起こしたのではないかと勘ぐってしまう。男が羽織っている黒いローブが魔術師や魔法使いといったものを起草させるのも原因の一つだった。
少年の傍らに立つと男から黒い腕輪を差し出される。受け取ると、屈んで少年の手を取り、はめた。このときが少年が正式な主になった瞬間。
少年に腕輪がはめられたのを見届けると、男は踵を返して長い廊下を引き返して行った。急いで少年を背負い、男に続く。男が歩く速度は来たときのそれと変わらない。人間が奴隷に合わせる必要などないのだ。奴隷が人間に合わせなければならない。
奴隷としての生活で重労働を重ねてきたとはいえ、寝ている人間一人を背負って歩くのは予想外に疲れる。しかし代わりに、来るときほどの不安はなかった。それは終着点がどこか分かっているからであり、背中に温かみを感じているからでもあるだろう。
やがて道の先に松明の明かりではない強い光が見えた。外の――太陽の光だ。
それから少し歩き、やっと外に出て、いきなり強くなった光に目を細めた。目が慣れ、見渡すと自分達を取り囲むように生えている木々が、そして振り返ると、薄暗い洞窟のような道がある。来たときには気付かなかったが、木々が洞窟を避けて生えているようにも見える。
不気味に感じ始めると、洞窟は山肌に作られた口のように見えて怖くなった。もう二度と来ないことを切に願う。
「おい行くぞ」
声を掛けられて気付く。こんなことをしている場合ではなかった。
男が歩き出したので、それを追って木々の間を縫うように進む。先程の道とは違って整備されておらず足場が悪いために疲れが溜まる。
数分歩き、林を抜けて街道に出る。馬車三台がすれ違えるほどの大きさを持った道で、その脇に一台の馬車が止まっていた。馬車の御者の席には齢六十ほどの老人か座っており、こちらに気付くと、降りてゆっくりと歩いてきた。年のわりにその足取りはしっかりとしている。
「お帰んなさい、旦那」
「ああ」男が返事をする。
「それで、そっちの奴隷が背負っている子は?」
「ああ。こいつはこの林の奥に住んでいる私の友人の子でね。少しの間預かることになったのだ」
「そうですか。それにしてもこんな林の中に住むなんてよっぽど物好きなんでしょうね」
「ああ、まったく。私も変わった友を持ってしまったものだよ」
男は明らかに嘘をついていたが、そんなことは自分に関係のないことだ。訂正する権利もないし、必要もない。
「ところで旦那。次はどこへ行けばいいんでしょうか」
「ナギルまで頼む」
その単語を聞いた瞬間、驚いて男の顔を見上げる。ナギルという村の聞き覚えは嫌と言うほどあった。
「ナギル村ですかい?」
「ああ」
「分かりました。では」
老人は男を馬車へと招き入れる。次いで自分も馬車に入る。男が座っている席の逆側の席に少年を横たえ、自分も座る。席の幅はそこまで広いというわけではないので、所謂膝枕のような体勢になってしまったが仕方ないだろう。
馬の鳴き声が聞こえ、馬車が走り出した。
腿の上で眠る少年に視線を向ける。あどけなさが残る少年が安らかに寝息を立てている様はなんとも保護欲をそそるものだった。無意識のうちに少年の黒髪を撫でていたが、そのことを対面に座る男が注意することはなかった。
馬車に揺られながらという環境はお世辞にも心地よいものとはいえなかったが、少年の髪を撫でる行為に心が満たされていくのを感じていた。
小一時間ほど経ち、御者の老人が男に話しかけた。
「旦那、もうすぐ着きますけどどの辺りまで行けばいいでしょうか」
男はそれに対して細かな指示をする。その地名もやはり聞き覚えのあるものだった。
そして数刻の後に馬車が止まった。少年を背負って馬車の外に出る。見覚えのある家がそこにあった。
後ろから男に声をかけられる。「ここが今日からお前とその少年が住む家だ。金と必要なものはここにおいておく。好きに使え。一ヵ月後にまた来る」
傍らに物が置かれた音がしたが、それは意識の外に追い出されていた。
男と御者の老人が話す声や馬車が走り去っていく音も聞き流した。
ただ目の前に広がる光景だけを見ていた。もう二度と来ることはないと思っていた家。
それは自分が生まれた家であり、自分が育った家であり、人間としての自分が終わった家……。呆然と見つめていた。
――そこで辺りは暗闇に包まれ、夢は終わる。
ハクが何を思っているのかと、「prologue -b」の続きを書いてみました。
夢の中での事なので、状況説明よりもハクがどう感じたのかを優先したつもりですが、これで書けているのかどうか……。
麻道的にはハクはヒロインというよりも、もう一人の主人公ですね。
なので、これからもコク視点の話とハク視点の話が出てくると思います。