第1話 出会い
何よりもまず初めに、これが夢なんだと理解した。理由なんて存在せず、必要ともされない。因果関係なんてものはなく、簡潔に結果だけがある。自分が何者か、すら分からなかった。ただ分からないと言う結果だけがあり、考えると言う過程は必要とされず省略される。ここでは考えると言う行為自体が無意味で、結果に何一つ影響することはない。そんな夢の世界。
何も考えず、考えることを必要とされず、考えることを許されず、流れに任せた。
認識する世界は青と少しの白に塗りつぶされていて、それは擬似的な空と雲だった。微細な変化が上書きされ白の雲の位置が動く。身体が宙に拘束されていると言う結果を認識する。鈍く光る銀色の鎖が、上下左右、空の彼方から伸びて身体に巻きついている。
急激に鎖が錆びていく。時間が早回しになったよう。
朽ちていく鎖は身体の表面を這い回り、擦り傷とも言えないほど軽度な痛みを残して外れ、大空に放り出される。落ちる。重力加速度なんてものが存在しないここでは落ちる行為自体に意味がある。それは夢の世界でのリアリティの追求であり、空を飛ぶことは不可能だと知っている本能の呟き。
空気の流れ。重力の擬似軽減。様々な感覚がどこかで眠っている脳に働きかけて落下の感覚を呼び起こす。そして恐怖。現実でないと理解してないがらも身体は生きる努力をする。
が、それだけ。いくら努力をしようとも過程を経ない世界では結果に影響を及ぼすことなんて出来ない。ただ落ちる。恐怖に竦んでいる訳でもないのに肉体は動かず、結果の受け入れを強要される。生存本能を一時的に抑制。
落ちて落ちて落ちて落ちて落ちて、青い終着点を眼下に捉える。透明な液体が広がる海に頭から落ちる。
鼓膜を揺るがす大きな振動と圧力が発生して世界は変化する。冷たいものに包まれる。因果のない世界では高所からの落下で死ぬことはなく、しかし無関係に与えられた痛みは全身を暴れまわり、肺の酸素を外に送り出しながら底に沈んでいく。肺に水が入って咽るが出て行くのは空気とそして――。
なにか大切なものが失われていく。体温が奪われる。失ったことで出来た穴を埋めるように余分なものが入り込んでくる。咽る。吐き出す。入り込んできた異物に拒否反応を示して追い出す。身体はどんどん空っぽになり意識も同時に薄れる。身体は海の底に沈み、意識は闇の底に沈む。
視界が暗闇に閉ざされる直前、必然に目の前を漂っていた錆びた鎖を見て――身体は動く努力すらも放棄している………
生存本能が壊されていることに気付く。
―――意識が閉じた。
夢の内容は記憶の中で曖昧に霧散する。その無数とも言えるパズルのピースは巧妙に隠され、やがて無意味な情報として廃棄されるだろう。だが今は記憶の宝箱に厳重な鍵を施されて、片隅に追いやられる。そして空いてしまった場所には新しい器が運び込まれる。
少年は彼自身の願いによってその器に何も入れないことを選択して、空っぽで世界に放り出される。
少年の意識がゆっくりと覚醒する。
目蓋が開くが、光に慣れない視界が白く染まって目を細める。ベッドに寝転がったまま数度瞬きを繰り返した後、まだ覚醒しきっていない頭でぼんやりと、見慣れぬ灰色の天井を眺めていた。
「主……様?」不意に声が聞こえた。
「あるじ?」
声のした方に首を傾けると、そこには少年を見つめる白い少女がいた。まるで雪の妖精にでも出会ったような気分だった。腰まで伸びた銀色の髪、感情の乏しそうな銀色の瞳、色素の薄い肌、真っ白なワンピースのような服装、そして白色の腕輪。その少女全体が「白」に統一されているようだった。
おそらく床の掃き掃除をしていたのであろう少女は手に箒を持ったまま彼の元に駆け寄ってきて、その無感情な瞳で覗き込んだ。
「主様、お目覚めですか」
「え? ああ……」
少年には事態が全くと言っていいほど飲み込めていなかったが、返事は自然と口から零れていた。
返事を聞いた少女は「では」と残して、ベッドから立ち去っていく。
少年は上半身を起こして、その背中に「あの……」声をかける。
「なんですか」
少女はしなやかな動作で振り返ると少年と視線を合わせた。感情をうかがわせない冷たい瞳をしていた。
「あるじって何のこと」
それは初めに感じた疑問だ。少年のことを指しているのだろうが、どうにも聞きなれない言葉だ。
「主様は主様です。いけませんか」
「いや……いいんじゃない、か」歯切れ悪く答える。
少女の言っていることは理解し難いがおそらく少年が立てた予想と違わないだろうと納得しておく。そして一つの疑問が解決するとすぐにまた疑問が生まれる。
「えと、なんで俺が主なの。というかそもそも、ここ何処」
少年は記憶をたどろうとしたが何一つとして思い出すことが出来ずにいた。
「へ?」
今まで無表情を崩さなかった少女が少し驚いたような顔をした。少女はベッドに近づいて少年の傍らに立つと、少年の手を指して言った。「腕輪」
少年が指された自分の手を見ると、少女がつけている物と同じようなサイズの黒色の腕輪がはまっていた。
「で、この腕輪がどうかしたの」
「へ?」少女は再び驚いた顔になった。「知らないの? ……知らないんですか」
「別に言い直す必要ないと思うんだけどなあ」
「いえ。主様ですから」
「まあいいけど。それで、この腕輪って何。君のその白いのとペアみたいにも見えるけど」
「本当に知らないんですか」
「まあ」
少女は無表情に戻ってしまったが、少年は何故か自分が呆れられているような気がしてならなかった。
「白い腕輪は奴隷が付ける物で、黒い腕輪は奴隷の持ち主の証です」
「つまり、どういうこと」
「私は主様の奴隷です」
「奴隷って……はあ!? 何それ」
少年は驚きを隠せない視線を送るが、少女から返ってくるのはジトッとした視線だった。
「もういいですか」
「いや、待てって」立ち去ろうとする少女の腕を慌てて掴んで捲くし立てるように詰問する。「俺は奴隷なんて買った覚えないし、それにここ何処だよ」
箒が少女の手を離れ、床に落ちて控えめな音を立てる。
「私に怒られても……私はある人に買われて、その人に主様の奴隷となれと命令を受けたので主様の奴隷となりました。あと、ここは主様が住むことになった家の主様の寝室です」
「んで、ある人って誰だよ」
「あの、その前に手を放していただけませんか」
「あっ、ごめん」
思ったより力を込めてしまっていた手を放す。握っていた部分が赤くなっていた。元の肌が白いので余計に赤色が際立ってしまう。
少女は跡がついた自分の肌を無表情で眺めていた。
「ごめん。痛かった?」
「いえ、私は奴隷ですから」
少女は少年の質問には答えず、ただ事実を告げた。無表情で、そのことに何も感慨がないかのように。
「私は私を買った人のことを全く知りません。では私はこれで」
少女は足早に部屋を出て行った。
ばたん、と部屋の扉が乾いた音を立てる。然程大きな音ではなかったが、少年の耳の奥で反響した。
ベッドの傍らに転がったままの箒を一瞥して、「女の子傷つけちまったな」仰向けに倒れる。
「どうすりゃいいか分からねぇ……それに俺はどうしてこんな所にいるんだよ」
奴隷の女の子との接し方も、自分がベッドに寝ていた理由も分からない。問題は山積みだ。
「というか俺って誰」
今になってやっと自分自身のことを本当に何一つ思い出せないことに気付いた。
「記憶喪失かよ………寝よ」
問題は先送りにするタイプだということだけは分かった。
読んでいただきありがとうございます。
"少年"が記憶喪失になっていることを出来るだけ不自然にならないように書いたつもりですが………未熟者ですので大目に見ていただけるとありがたいです。