第9話 2つの傷
コクが部屋を出て行く足音が聞こえた。
「やっちゃった」
ハクは自嘲的に笑って呟く。
足音はどんどん小さくなり、やがてハクが食器を洗う音に掻き消される。
原因は分かりきっている。私が無闇に気を張っていたせいだ。
サユと呼ばれた少女の父親の、死ぬ間際の話なんて聞くべきではなかった。無関係の他人になっているはずなのに、それでも彼女の父親の話を聞いて心が揺れてしまっている。
今の時代、人攫いが特別珍しいということはない。むしろ滅多に人攫いなど経験していなかった、ここ、ナギル村が珍しい場所だったのだ。
何処にでもあるような話だ。少女が二人攫われて、その父親が殺された、たったそれだけの話。
話を聞いて、心を痛めるのはいい。可哀想だと同情するのもいい。
――でも、つらいと思ってしまうことは赦されない。涙を流してはいけないのだ。
だって、ハクと呼ばれる奴隷はサユという名の少女とは全くの別人なのだ。悲劇を悲しんでもいいし、サユに同情するのだって構わない。けれど自分をサユという少女に重ねて、つらいと思うのは違う。
話を聞いて泣いていた時、あの時の私は『ハク』ではなかった。『サユ』になってしまった。間違えていた。
間違いを犯してしまった時にしなければならないことは何か。
謝罪をしなければならないし、反省もそうだ。だが、最も重要なことはそんなことではない。対策を立ててもう二度と同じ過ちを繰り返さないこと。それこそが最優先してやるべきことであり、人間の繁栄の理由でもあると思う。
もちろん私は人間ではないが、人間と同じ身体構造をしている奴隷にも行うことはできる。ならば努力をしなければならない。
家への帰り道でそんなことを考えていた。
もう二度と『サユ』にならないために、サユの家族に関係があることには触れない。そう決めた。
決めてしまったから、サユの父親の墓参りなんてするなと自分に言い聞かせた。
気にしないように、気にしないようにと勤めていた。
――でもそれが裏目に出てしまった。
コクの口から出た『家族』という言葉。コクがハクの心境を知るはずもない。きっといい意味で言ったのだろう。
普段のハクならば両手を挙げて喜ぶような真似はしないまでも、顔が自然とほころぶくらいの嬉しさはあったかもしれない。
しかしサユの家族のことを気にしないように気を張っていたハクにとっては自身の決意を揺るがす言葉でしかなかった。
それゆえコクを睨んでしまった。
『家族』を忘れようとしているのに、どうして思い出させるの? 心の中でそうやって問いかけている自分がいた。
気付いたときには遅かった。コクは顔面蒼白になっていた。
コク様に「ありがとうごさいます」と言えば何も問題はなかったはずなのに、どうしてこんなことをしてしまったのだろう。そんな思いが渦巻いていたし、今になっても悩んでいるままで………
「痛っ」
洗っていた包丁の刃で人差し指の先を切ってしまった。傷は浅いけれどうっすらと血が滲んできている。考え事をしていて注意力が散漫になっていたようだ。
「はぁ……手当てしなきゃ」
包丁を置いて手を綺麗な水で洗い流し、自室に行く。
部屋に入ると、切っていない方の手で棚を開けて、「えーと、確かこの辺りに………ん、あった」救急箱を取り出す。箱を机の上に広げて消毒液を用意して、指先にかける。
消毒液が滲みたのかハクは一瞬、顔をしかめた。
次に絆創膏を探し出して、指に巻く。人差し指を曲げたり伸ばしたりしてみるが、第一関節に絆創膏がかかっていてどうにも動かしにくい。
「しょうがない、かな」
広げた救急箱を片付けて、棚に入れ直す。
部屋を出て台所に戻ると、ハクはまた洗い物を再開した。
昼。
食事の準備を終えたハクはコクを呼ぶために彼の自室の前に立って、悩んでいた。
理由は単純だが、非常に難しい問題でもある。それはコクを睨んだ、つまりコクに敵意を向けてしまったハクに"価値"があるのかという問題だ。
待遇が悪くなるのはおそらく避けられないことであるだろう。先程も自分の分の食事を用意するべきかどうかを散々迷っていたが、一緒に食事をする許可など降りはしないだろうと考えて、結局は一人分しか用意しなかった。
そもそも、もっと根本的な問題すらある。コク様が私と生活をしたくないと言うのならば、私はこの家の中で寝泊りすることは出来ないし、最悪命すら危うい。コク様が、生きる価値なしと判断すれば私は死ななければならない。……死ぬ覚悟は出来ている。
もしもの時は、サユの父親の墓参りをする猶予を貰うつもりだ。コク様の奴隷である限り墓参りをするつもりはなかったが、死ぬ前に一度くらいはしておこうとも思っている。
目を閉じて心を落ち着かせて、もう一度覚悟を決める。脳裏には何故か、コクと初めて出会った怪しげな祭壇のような場所が浮かんだ。
「よし」
意を決してノブを握り、扉を引き開ける。
ばたっ、と足元にコクが仰向けに倒れてきた。
「え? あっ………」
驚きで思考が停止する。
コクは倒れた衝撃で目覚めたのか、目を細く開けて瞬きを数度繰り返した。その瞳がハクを捉える。
「あ、あ……あ」
口をパクパクさせていたハクはそれで正気を取り戻した。「あ、あの……」
コクは打った箇所をさすりながら上半身を起こした。
「ハク……おはよう」
眠たげな眼でハクを見つめて言った。
「もうお昼ですよ。コク様」
無表情を装って訂正する。
「………」
コクの瞳が緩やかに理解の色を映し出していく。今朝のハクとのやり取りを思い出したのだろう。
双方が黙って相手を見つめていた。やがてコクは視線を逸らして俯いた。罵倒の言葉すらない。それは――拒絶だ。
予想していたことなのに、実際に目の前で事実を確認したハクは無性に悲しくなった。
どうしてだろう? 眼の奥が熱い。
「……申し訳ありませんでした」
声は自然と重く低くなる。頭を深々と下げた。
それでもコクは黙ったまま。ハクの視界には床と自分の脚だけがあり、コクの表情はうかがい知れない。気になるが、目を背けたい気持ちが強くて顔を上げることはできずにいる。
風が二人の間を吹き抜けていった。何か大切なものを吹き攫われてしまったような気がして、また眼の奥が熱くなる。絆なんてものはなかったけれど、主従関係以上のものが確かにあったはずで、それが壊れてしまった。コクの気持ちは分からないが、少なくともハクはそう感じていた。
風に吹かれた扉がキィと音を立てて閉まり、途中でハクの頭にぶつかった。ごん、と鳴る。
痛みによって、湛えていた涙が一粒、ハクの頬を伝って床に落ちた。その痛みは身体のものなのか、心のものなのか、ハク自身判らずにいる。
今のハクの姿は傍から見れば滑稽に見えただろうが、それを嗤う者はここにはいない。
無言の時間が流れる。やがて、
「なあ、ハク」
「………」
無言で続きを待った。
「……ごめんな……ごめん」
「…………………………え?」
言われた意味が理解出来ない。
顔を上げてみると、遠慮がちにハクを見つめる視線があった。
「ごめんな、ハク」
また謝罪の言葉。聞き違いなどではない。
「どうして……?」
口からはそんな言葉が自然と漏れていた。
「どうして私に謝るの?」
敬語を使うことも忘れ、ただ聞いた。
「どうして……か」
コクは苦笑した。
「さあ? 俺にもよく分からない。だけど俺がそうしたいと思ったから謝ったんだと思う。……俺は多分悪いことはやってない。でもさ、それでも俺は謝りたかった。ハクを傷つけたなら俺は謝らなきゃならない。そう思ったんだ」
「………どうして? 私は奴隷なのに………」
ハクは俯き、自身の腕に付けられている白い腕輪を撫でた。――顔を上げる。
「私は!! 奴隷なんだよ!?」
強く捲くし立てる。
「私はコクの奴隷なのに! ねぇ、どうして!? 絶対嫌われたって思った。拒絶されるって………だから!」
ハクの眼から涙の粒が散り、キラリと光った。
「私は死ぬ覚悟だってした。……なのに、どうして……」
コクが許してくれた、それどころか自分が悪いと言い出して謝った。そのことを喜んでいる私も、確かにいる。けれど認めることが出来ない私だっているのだ。
ハクが捲くし立てている間、ずっとコクは優しい視線を送っていた。それは例えるなら、我が儘をこねる妹を見るような視線だ。
「俺はハクを嫌ったりなんかしないし、拒絶したいとも思わない。死んでもらいたいなんて論外だ。……なぁ、ハク。俺はお前に笑っていてほしいんだ」
「………」
――そうしてハクは悟った。まだ何も壊れてなんていなかった。傷は付いてしまったかも知れない。けれど傷ならば簡単に治すことが出来る。難しい問題なんて存在しなかったのだ。そこには単純で簡単な問題しかなかった。二人の関係に出来た傷は、ハクの人差し指の切り傷のように浅かったのだ。
感じていた不安は、莫大な安堵に塗りつぶされて消えた。頬が緩む。
目元に溜まっていた涙を拭って、言う。
「コク様、お食事の用意が出来ております」
コクは苦笑しながら返した。「じゃあ飯にするか」
「はい!」
傷が治ったかどうか、そんなことはハクには分からない。けれど痛みがなくなっていたのは事実だった。
今回の話はハクの一人称の描写を多用してしまったので、コクの感情描写をしないようにしてみましたが、かえって分かりにくくなってしまった気がします。
あと、急展開すぎたかも知れません。
「そう思うなら直せよ!」って話なんですが、現在の麻道の能力ではこれ以上の引き伸ばしは難しいです。
すみません。
次話投稿についてなんですが、正直なところいつになるのかわかりません。
21日~23日は部活の合宿があって書く暇がありません。
一応、PCを使うことができる環境にはあるんですが、朝7時から深夜3~4時までは食事と風呂の時間を除いて、ずっと作業をすることになると思うので、小説を書く時間がないんですよ。3,4時間しかない貴重な睡眠時間を削って小説を書くほど麻道はタフじゃないです。
23日夜~24日夕方にかけては足りない睡眠時間を補うために爆睡すると思います。
25日は一日宿題に追われていると思います。
いや、26~31日は学校の夏季特別授業があって、26日が提出期限の宿題が大量にあるんですよね。しかもこの期間に、英語・数学・古文・漢文のテストがあるという始末。無論、テスト勉強に追われるわけです。もちろんこの期間も部活に拘束されます。
したがって、時間がないです。暇を見つけては少しずつ書いていく予定ですが、次話投稿は8月に入ってからになるかも知れません。