第8話 禁句
麻道暴走のお知らせ。
時は少しだけ遡る。
ハクが家に帰ってきて料理を始めたとき、眠りから覚めかけていたコクは台所から聞こえてくる微かな音で目を覚ました。
「ん、う……うう。ふはぁ」
欠伸と共に伸びをして、目蓋を上げる。視界には、やはり見慣れぬ灰色の天井が飛び込んでくる。未だ寝ぼけている頭でここが何処なのか考える。
「………ああ、そうだった。俺の家、か」
昨日のやり取りを思い出す……
ハクに振り回されてばかりいた。
回想終了。
「一言で表せて、しかも振り回されてばかりって……なんか格好つかないな」
事実だから仕方のないことだけれど。
それにしてもハクの行動はよく分からない。どうしてそこまで奴隷に拘るのか、も。
自分が記憶喪失だから分からない。そうやって言い訳する事だって可能だろう。でもそれは違うと思う。記憶喪失だからといって、コクの一般常識までが消えているのではない、はずだ。食事の方法だって、覚えているし、その他諸々も忘れたということはない。
ならば記憶を失う前のコクにとってもやはり奴隷は異常なものであったはずだ。奴隷に関することだけを綺麗さっぱり忘れるなんてこと、考えずらい。
ハク自身は奴隷だと主張しているが、コクにとって彼女は単なる一人の少女なのだ。ハクが言っていたことだが、『奴隷であることを言い訳にしている』ことを認めることなんて出来ない。
だから奴隷がどういうものなのかしっかりと見極める必要がある。そして奴隷を平然と認めている社会についても。
何をすればいいのか?
そんなことは決まっている。奴隷を知らないなら知ればいい。この社会を知らないならば知ればいい。記憶がなくなってしまったなら、ここで作ればいいだけの話だ。
……でも本当にそれでいいんだろうか。
奴隷を知れば、社会を知れば、解決するのだろうか。奴隷を言い訳にするハクをを論破する材料を見つけたところで何の意味があるのだろう。きっと彼女自身が納得しなければ意味がない。
窓の外を眺める。向こう側には、青い空と白い雲と緑の庭が広がっている。その景色はおそらく、昨日も、一昨日も、その前も、それこそコクが生まれる前から繰り返されてきたものだ。そこには単調だけれども、しっかりと過去がある。しかし、自分はどうなのだろうか。
思い出はここで作ればいい。それは問題ない。けれど失った思い出は、戻ってこない。今まで過ごしてきた時間は失ったままだ。過去を失ったままで、本当にいいんだろうか……
「あの、コク様?」
背後でハクの声が聞こえた。おそらくなかなか起きてこない自分を起こしにきた、といった所だろう。
「ハク」
「なんでしょうか?」
振り返り、言う。「ハク。俺に外の世界を見せてくれないか」
ハクは、しばしの思案の後、「畏まりました。しかしその前に朝食をお召し上がりになってください」
「朝食か。ありがとね、ハク」
「いえ。当たり前のことです」
「じゃあ飯にするか」
言って、ベッドから降りる。
朝食後、ハクは使った食器などを洗いながら、背後に立っているコクに問いかけた。
「コク様、先程仰られていた『外の世界』についてなのですが」
「………」
ハクは食器を洗いながらコクに話しかけている。振り向かずにコクに話しかけている。自分が強制したことなのだが、ハクがこんなにも早く適応するなんて思ってもおらず、コクはそのことに呆然として、質問に反応出来なかった。
「コク様?」
ハクが振り返る。
このときになって、やっとコクは驚きから解放された。
「あっ、ごめん。ボーっとしてた」
「いえ。私は構いませんが、大丈夫ですか?」
「本当に大丈夫。大丈夫だから」
「それならいいのですが………」
「心配しないでもいいよ。……全く違う話になっちゃうんだけど、そっちのハクの方が、やっぱり俺はいいと思う」
ハクは何のことか分からないと言うように首を傾げ、視線をコクに向けた。その瞳に感情は籠もっていなかったが。
「そちらの『私』とは?」
「えっと、なんて言えばいいのかな。自然体というか、堅苦しくないというかさ。同じ家で寝食を共にするんだから、血は繋がってないかもしれないけど、もう家族なん…だか…ら……さ」
ハクの視線が急に鋭くなっていくのをコクは感じた。顔は無表情で、きっと傍から見ればいつもと変わらないハクだっただろう。
だが確かにその表情はいつもとはまったく違うものだった。見た目はそれほど変わらない。眼が少し細められているくらいだ。
しかし纏っている雰囲気が明らかに違うのだ。感情を映し出さない視線に、まるで鋭利な刃物を首筋に添えられているような気がして―――
「コク様、どうかなさいましたか?」
――次の瞬間には、もうハクは元通りだった。
「いや、なんでもない」
だからコクもいつも通りに接しようとしたのだが。
「どうしたんですか、コク様。顔が真っ青ですよ?」
「え? そうか?」
おどけてみたが、コク自身もそれは分かっていた。背中には冷や汗が伝っている。
「そうですよ。真っ青です。………もしかして食事がお口に合わなかったのですか?」
「い、いや、そんなことはない、が……」
ハクが申し訳なさそうに視線を逸らし、合わせ、また逸らす。
「……申し訳ありません」
俯いて小さく呟いた。
「違う……謝るのは俺だ。ごめん。それと、外に行くって話はやっぱり明日にしてもらってもいいか」
「……はい」
それからは双方無言で、ハクが食器を洗う音だけが聞こえていた。
そんな空間が居たたまれなくなって、コクは静かにその場を立ち去った。
早足で廊下を歩いて自室の前に辿り着くと、扉を乱暴に開けて部屋の中に入り、静かに閉めた。それと同時、緊張の糸が解けたことによって腰が抜け、扉に背中を預けた。そのままずるずると滑り落ちていき、床に腰を下ろした。
「は~、はははっ、ははっ、くくくっ」
場違いな笑いが漏れた。身体は脱力して動いてくれないのに、口元だけは引き攣っていた。
そして意味はないと思いながらも、この部屋に近づいてくる足音がないかどうか、耳を澄ました。―――遠くから水音が聞こえてくるだけだった。ハクはまだ洗い物を続けている。そのことが分かり、コクは心底安堵した。
ハクはそんなことをするはずがないと思いながらも、本能が警鐘を鳴らしていたのだ。『あいつは危険だ』と。『殺される』と。
殺気を含んだ視線、なんて表現じゃあ、甘い。そんな生易しいものじゃなかった。コクは動けなかったのだ。本能が逃げろと身体に命令していたにもかかわらず、全く動けなかった。
きっかけはほんの少しの警戒心だったのかも知れない。
ハクの顔には表情がない。視線には感情が籠もっていない。それは例えるなら純粋な水のよう。だがそれゆえに、少しでも異物が混入すれば速やかに広がって、支配する。
真相は本人しか分からない。いや、もしかすると本人すら分からないだろう。それほど微妙な差異。研ぎ澄まされた針のような殺気だった。
あんな殺気を一朝一夕で習得できるとは思わない。しかも無意識のうちにそれをやってのける異常さ。
ハクはいったい何者なのだろうか?
考えても分かることではない。
しかし確かなことが一つだけある。ハクは『家族』という言葉に反応した。口では昔の自分と今の自分とは全くの別人だと言っているが、過去の自分を簡単に捨てられている訳がない。やはり未だ未練があるはずだ。だから『家族』という言葉に反応して、本物の家族を思い浮かべてしまったのだろう。
情報の整理が終わった所で、ドッと精神的な疲れが押し寄せてきた。その流れに逆らい続けることができずに、コクは意識を手放した。
すみません、暴走しました。
もともとはこんな話(後半)を入れる予定はなかったんですが……書いてしまったものは仕方がないです。
ハクの素性に関する伏線(って言っていいのかな?)は後々ちゃんと回収します。
気長に待っていてください。
それと、麻道は夏休みに入ると忙しくなりそうなので投稿するペースが落ちるかも知れません。
ま、今でも遅いんですが、遅い上に不定期になる可能性があります。
今週の三連休は朝から晩まで部活に拘束されることになりそうなので、次話は日月火のいずれかくらいになります。