妖精
科学ジャーナル紙の記者兼編集担当、堀田仁。
日々新しく発表される論文を追い、研究者に連絡を取り、大学や研究施設を取材して回る生活を送っている。締切と校正に追われながらも、最先端の知見に触れられるこの仕事にそれなりの誇りもあった。
編集のような立場ではあるがもともとは理系出身だ。数式が並ぶ論文を前にしても、完璧とはいかずとも理論の流れや核心部分は理解できている。少なくとも、自分は「わからないものをわからないまま信じる」人間ではない。そう自負していた。
そんな堀田には、ひとつお気に入りの場所があった。郊外にある大きな公園の池のそばに置かれた古いベンチ。芝生はよく手入れされ、水面にはいつも穏やかな風が波紋を描く。仕事で頭が疲れたとき、ここで一息つくのが習慣だった。
今日も取材帰りに立ち寄りベンチに腰を下ろす。缶コーヒーを開けてぼんやりと池を眺める。水面を渡る風の音が思考を少しずつほぐしていった。
ふと足元に視線を落とすと、脇に小さな花がいくつか咲いていることに気づく。花壇があるわけでもない。雑草だろうか、と一瞬思ったが、妙に整った形と鮮やかな色合いが目を引いた。
その花の周囲を、二匹……いや、三匹ほどの虫が飛んでいる。蜜を吸っているのか、それとも香りに引き寄せられているのか。そう考えながら目を凝らしたその瞬間だった。
――虫ではない。
小さな人の形。
薄い羽根をパタパタと動かし花の周囲を舞っている。
三匹の妖精。
「……え?」
思わず声が漏れる。
冗談だろ、と脳が否定する。
疲れているのだ。
幻覚だ。
理性が必死に説明を試みる。
だが、そのうちの一匹と目が合った。
次の瞬間、妖精たちはさっと花の陰や葉の裏へと身を隠した。まるで見られてはいけないものを見られたかのように。
「……今、目が……」
堀田は立ち上がることもできず、ただ呆然とそこを見つめ続けた。心臓が早鐘を打つ。理論も説明も頭の中からきれいに消えていた。
確実に見た。
確実に目が合った。
しばらくして、何事もなかったかのように風が吹き水面が揺れる。
花も、
そこにあったはずの気配も、
いつの間にか消えていた。
堀田は深く息を吐き缶コーヒーを一口飲む。
「……ムーでも……読んでみるか」
苦笑しながら、そう呟いた。
終




