第七話
朝、寝床の布をめくる前に、耳の中の線が一本になっていた。一本になった線は、何かの音を待っているみたいに細く張って、張ったまま揺れない。揺れない線のせいで、布の擦れる音が遠くに落ちる。遠くに落ちた布の音の代わりに、外の砂を踏む音が近くに置かれる。近くに置かれた足音は一定じゃない。一定じゃないのに、同じ方向へ寄っていく。寄っていく音が増えると、呼吸が勝手に浅くなる。
膝の横は軽いままだった。空の重さしかない。空の重さは持てない。持てないから、指が勝手に握る形になって止まる。止まった指の形をほどくのに、少し力がいる。力がいるのが嫌で、指を握ったまま寝床から出る。
外の空は白く、朝なのにもう熱が皮膚に貼りついていた。貼りついた熱が汗を出させる。汗は出るのに乾くのが早い。早く乾く汗は、皮膚だけを突っ張らせる。突っ張った皮膚の上で肩が勝手に上がる。上がった肩のせいで、首の筋が張る。張った首の筋が動くたびに、耳の線が一瞬だけ揺れる。
縄は増えていなかった。増えていないのに、杭がまた増えていた。杭が増えたぶん、縄の線がまっすぐになっている。まっすぐな縄は、昨日までの縄より冷たい感じがする。冷たい感じがするだけで、触れる前に止められる。止められることだけを体が知っている。
大砲の布は揺れない。布の端は整っている。石が等間隔で置かれている。等間隔の石は、目立つ。目立つものは近づく前に肩を掴まれる。掴まれる前に、足が勝手に歩幅を小さくする。小さくした歩幅が縄の線の間だけを探す。探した線の間を通る。通るとき、靴底が砂を押して、砂が沈む音がやけに大きい。
石の陰に子供はもういなかった。いないことを見た瞬間、胸の奥が少しだけ空く 。空いた胸の奥を埋めるみたいに、耳の線が太くなる。太くなった線がまた一本になって空へ伸びる。伸びた先は白い。白いのに硬い。硬い白が一点だけ決まっている。決まっているのに、そこに何もない 。
靴音が一直線に来た。止まる。砂が沈む音。上から声が短く落ちた。
「おい、時間だ。こっちへ来い。お前のやるべきことは分かっているな。」
腕を掴まれる。掴む力は強くない。強くないのに、向きが決まっている。決まっている向きへ足が動く。足が縄の線の間を通るとき、体が勝手に肩をすぼめる。すぼめた肩が呼吸を浅くする。浅い呼吸のままでも足は止まらない。
縄の内側に入ると、匂いが薄く変わる。砂の匂いの下に、布と油が混じる。混じった油の匂いが指先を思い出させる。思い出した指先が勝手に握る形になる。握った形のまま、何も掴めない。
襟の立った服がいた。今日も襟に砂が付いていない。襟の角が折れていない。折れていない角が目に刺さって、視線がそこで止まる。止まった視線の前で、襟の立った服が板を二枚並べた。昨日の板より厚い。厚い板の端に小さい穴が二つある。穴に細い糸が通っていて、糸の先に小さい重りが下がる。重りは金属で、光を拾う。光を拾う金属は白い空に小さく目立つ。
横の兵士が短く言った。
「これを両手でしっかり持て。決して傾けるんじゃないぞ。」
板は渡されない。渡されない代わりに、こちらの前に置かれる。置かれた板の端を指で押さえるように言われる。押さえると、板が熱い。熱い板が指の腹を焼く。焼けた指の腹が痛い。痛いのに離せない。離すと言われていないからだ。
「いいか、空をよく見ろ。目標を見失うな。」
言葉は短い。見る先は言われない。言われないまま、耳の線が一本になる。一本になった線が空の一点を硬くする。硬くなった一点に目が貼りつく。貼りついた目の前で、糸の重りが風に揺れる。揺れる重りの揺れが、呼吸の揺れと重なる。重なると呼吸が揃う。揃った呼吸は浅いまま、一定になる。
音が来た。
遠い。遠いのに太い。太い音が近づくと、耳の線が太くなる。太くなった線が二本に割れて、二本が交差する。交差した場所が決まる。決まると喉が一回だけ鳴る。鳴った喉が乾いて痛い。痛いのに、目はそこから外れない。
薄い影が出る。影は小さい。小さいのに速い。速い影が縄の外側をなぞるように滑る。滑る影の少し前へ、目が勝手にずれる。ずれた場所に糸の重りが重なる気がする。気がした瞬間、指が板を強く押さえる。強く押さえると指がさらに痛い。痛いのに離れない。
背中から短い声が落ちた。
「動くな。そのままの位置を維持しろ。絶対に目を逸らすな。」
動かない。動かないまま、目だけが影の少し前を追う。追うと、糸の重りが風で揺れて、揺れが影の動きと合わなくなる。合わなくなった瞬間、耳の線が太くなる。太くなった線が一本に戻って、影の少し前をまた硬くする。硬くなった場所に目が貼りついて、貼りついた目の奥が痛む。痛むのに瞬きができない。できない瞬きの代わりに涙が出る。涙が出ても目は動かない。
砲の方で布の端が上がった。上がった布の下から砲身の影が一瞬だけ見える。見えた影が太い。太い影が空の薄い影に重なりそうで、重ならない。重ならない距離があるのに、体の中では「ここだ」が決まっている。決まっている場所へ、糸の重りが一瞬だけ止まったように見える。止まったように見えた瞬間、口の中が鉄の味になる。
砲声が来た。
胸でぶつかる。腹が叩かれる。舌の根が跳ねる。口の中の鉄が一気に濃くなる。白が目の前に広がって、白の中で薄い影が一瞬だけ欠けた。欠けた影が戻らない。戻らない欠け方が、影の線を折る。折れた影が低い方へ落ちる。落ちる影は速い。速いのに、落ちる角度ははっきり見える。見える間、息が止まっていた。止まっていた息が戻って喉を擦る。擦れた喉が痛いのに、目は動かない。
地面の向こうで、黒いものが跳ねた。跳ねた黒が砂の色に落ちて、落ちた場所だけが一瞬暗くなる。暗くなったまま、煙が立った。煙は細い。細いのに、上へ伸びて途中で折れる。折れた煙が風に引かれて横へ伸びる。伸びる灰色を見ていると、耳の線がそこへ刺さる。刺さった線が離れない。
肩が強く掴まれた。掴まれた肩が骨に当たって痛い。痛いのに、声が出ない。出ない声の代わりに、首の後ろが押されて視線が下へ落とされる。落とされた視線が板の上の線を見る。線は黒く、まっすぐで、途中の印が乱れている。乱れた印が、さっきの落ち方と同じ形に見えてしまう。見えてしまうと、胸の奥が軽くなる。軽いのに、胃が縮む。縮んだ胃のせいで唾が出ない。出ない唾の代わりに鉄の味が残る。
背中から短い声が落ちた。
「余計なものを見るな。板の上の数値を記録しろ。」
同じ言葉。短い。
見るなと言われたから、目を板から外す。外した目が自分の指を見る。指の腹が赤い。赤いところに砂が付かない。付かない赤は目立つ。目立つものは隠す。隠す癖が出て、指を握る。握ると痛い。痛いと指が確かになる。確かな痛みが、今ここにいることだけを教える。
襟の立った服が紙を折った。折る音は小さい。小さい音なのに、耳の線がそこへ寄る。寄った線がまた煙の方へ戻る。戻った線が煙の根元を指す。指す先は見えない。見えないのに指す。
「よし、今日の作業はここまでだ。元の場所へ戻れ。」
戻る足は縄の間を通る。通る足が勝手に遅くなる。遅くなると熱が足の裏から上がってくる。上がってくる熱が膝を溶かす。溶ける膝のまま外側へ押し出される。押し出されたところで、靴音が増えた。増えた靴音が一斉に同じ方向へ向かう。向かう方向は煙の方角だった。煙の方角へ向かう背中は曲がらない。曲がらない背中が揃って、揃った背中が縄の外を遠ざかる。
昼の熱い時間、縄の内側は静かになった。静かなのに、耳の線だけが太い。太い線が煙の方角を指し続ける。指し続ける線のせいで、布の音が遠い。遠い布の音の代わりに、遠い足音が近くに聞こえる。近くに聞こえる足音が何度も戻ってきて、戻ってくるたびに砂を払う音が混ざる。払う音は乾いていて、乾いた音ほど耳の線が刺さる。
縄の外側で、地面を均す作業が止まった。止まった代わりに、何かを運ぶ人が増えた。布が担がれる。布の下に硬い形が見える。形は長い。長い形が揺れないように、手が多い。多い手が揃って動く。揃って動く手の間から、濃い色が一瞬見える。見えた瞬間に肩が掴める前に、目が勝手に逸れた。逸れた目が自分の赤い指を見る。赤い指が痛い。痛い指を握って隠す。隠した痛みが確かで、確かなものだけを抱えて待つ。
夕方、煙は薄くなった。薄くなっても消えない。消えない灰色の名残が空の端に残る。残る灰色を見ていると、耳の線が少しだけ細くなる。細くなった線の代わりに、背中の方で短い声が増える。増える声は命令だけになる。命令が増えると、足が勝手に動く。動く足は縄の線を避ける。避ける歩幅が体に固定される。固定された歩幅は、遊びの線じゃない。遊びの線じゃないのに、体は覚える。覚えるしかない。
夜、寝床に戻っても膝の横は軽いままだった。軽い空白は、手が探しても埋まらない。埋まらない空白の上で、耳の線が太くなる。太くなった線が布の擦れる音を拾わない。拾わない線が遠い金属音だけを拾う。拾った金属音は一定の間隔で続く。一定の間隔が呼吸を揃える。揃った呼吸の中で、口が勝手に動く。声にはならない。声にならないまま、舌が上顎を押す。押した舌が乾いて痛い。
閉じた目の裏に、落ちていく影と、伸びて折れる煙が残っていた。残った煙の少し前に、体の中の線が一本だけ走る。走った線が消えないまま、夜が続いた。




