第六話
朝、布の端が指に引っかかって、爪の下に砂が入った。入った砂をこすっても取れない。取れないまま手を引っ込めると、指先だけが白く残る。 「……取れない」 「何やってんだ、早くしろ。列が乱れるだろ」 白い指先を見ている間に、耳の中の線が一度だけ太くなった。太くなったのは、外で金属が触れる音がしたからだ。音は一回で終わらない。間隔をそろえて何度も続く。続くと、胸の奥の呼吸が勝手に同じ速さに寄る。寄った呼吸は浅い。
膝の横は軽いままだった。肩紐もない。手が探す場所が空で、空を掴んだ指がそのまま握った形で止まる。止まった指を開こうとしても、開くのに少し力がいる。 「お前の銃なら、あそこにあるぞ。誰も触ってねえよ」 「分かってる。……でも、軽いんだ」 「軽い方が楽だろ。余計なこと考えるな」 力がいるのが嫌で、指の形をそのままにして寝床を抜ける。
外の空は白く、まだ朝なのに熱が皮膚に貼りついた。影の濃さが昨日より薄い。薄い影の中に縄が見えにくく隠れていて、足が勝手に歩幅を小さくする。小さくした歩幅が縄の線を探す。探した線の間だけを通る。通るとき、靴底が砂を押して、砂が沈む音がやけに大きく聞こえる。聞こえるのは耳の線が太いままだからだ。
縄は三重のままだったが、外側に杭が増えていた。杭が増えると、縄が張り直されたことが分かる。結び目の位置が変わり、通れる幅がさらに狭い。狭い幅の先に、大砲の布がある。布は揺れない。石が等間隔で置かれて、等間隔が朝の光に白く浮く。白く浮いたものは近寄る前に肩を掴まれる場所だと体が覚えている。 「杭を増やすなんて、聞いてないよ」 「黙ってろ。文句があるならあっちの大人に言え。……言えるもんならな」
石の陰には子供が一人だけいた。昨日までいた二人のうち一人がいない。いないことを口に出す前に、残った子の指が地面を叩いた。叩く音は一定じゃない。一定じゃないのに、叩く場所だけは決まっている。 「あいつ、どうしたの」 「……帰ったよ。どこか遠くに」 「嘘だ。昨日、あっちに連れていかれたのを見たよ」 決まっている場所は影の端で、影の端は縄の線から一番遠い。遠い場所が安全だと、その子も体で覚えている。
その子は何かを言わない。言わない代わりに、目がこちらを見た。 「お前も、行くんじゃないのか」 「……分からない」 見た目は、昨日の空を見ていた目と同じだった。目が同じだと、耳の線がまた一本になって空へ伸びる。伸びた先はまだ白い。
靴音が一直線に来て止まった。砂が沈む音がして、上から一言落ちた。 「来い。」 腕を掴まれる。掴む力は強くない。 「どこへ行くんですか」 「静かにしろ。黙ってついてくればいい」 強くないのに向きは決まっている。決まっている向きへ足が動く。縄の線の間を通るとき、体が勝手に肩をすぼめる。肩をすぼめると呼吸がさらに浅くなる。浅い呼吸でも足は止まらない。
縄の内側に入ると匂いが混ざる。砂の匂いの下に、布と油が薄く重なる。油の匂いは指先に残っている気がして、指がまた握る形になる。握った形のまま何も掴めない。 「これを。今日からお前が持つんだ」 襟の立った服がいた。今日も襟に砂が付いていない。襟の角が折れていない。折れていない角が目に刺さって、視線がそこで止まる。止まった視線の前で、襟の立った服が短い棒ではなく、板を一枚差し出した。 「落とすなよ。それはお前の命より重いんだからな」 板は薄い。手のひら二つ分くらいの幅で、端に穴が開いている。穴に紐が通っていて、その紐を握ると板がぶら下がる。板の表面には線が引かれていた。線は黒く、まっすぐで、途中に小さい印がある。印は等間隔ではない。
板を渡されると、手のひらが乾いているのが分かった。乾いた手のひらが板の端を滑らせて、木の粉が少しだけ指に付く。付いた粉が汗に貼りついて、指がざらつく。 横の兵士が言った。 「これで示せ。」 「……どうやって?」 「昨日のお前の感覚だ。あの影がどこを通るか、板の目盛りで俺たちに教えろ」 示す先は言われない。言われないまま、体の中の線を探す。探すと、耳の線が一本になる。一本の線が空の斜めを硬くする。硬くなった一点に、板の端を合わせようとすると、腕が少し揺れる。揺れは止まらない。止まらない揺れに合わせて、耳の線も少し揺れて、揺れが落ち着いた場所で一本に固まる。
「立て。」 「……はい」 立つ場所は昨日と同じ固い線の上だった。砂が固く、靴底が沈まない。沈まない足は安定して、膝が固定される。固定された膝の上で板を持つと、腕の揺れが少し減る。減った揺れに合わせて呼吸が寄る。寄った呼吸は浅いまま揃っていく。
空から音が来た。昨日より太い。 「二機……いや、三機か」 「高度を維持。こっちに気づいていないぞ」 太い音が二つ重なって、厚くなる。厚い音が近づくと、耳の線が二本になる。二本の線が交差して、交差した場所が決まる。決まると喉が一回だけ鳴る。鳴った喉が乾いて痛い。痛いのに、板の端が勝手にその場所へずれる。ずれた場所が影の少し前になる。
薄い影が現れた。影は小さい。小さいのに速い。速い影が縄の外側をなぞるように滑る。滑る影の少し前へ板の端が追いつく。追いつくと、指が板を強く握る。強く握ると、ささくれが指に当たって痛い。痛いのに手は離れない。
「動くな。」 背中から声が落ちる。動かない。動かないまま板の端だけが少しずつ動く。動く先が影の少し前を保つ。保っている間、口の中が乾く。乾くと鉄の味が濃くなる。濃くなると歯が触れて小さく鳴る。鳴った歯の音が耳の線に混ざって、線がさらに太くなる。 「……そこ」
砲の方で布の端が上がった。上がった布の下から、砲身の影が一瞬だけ見える。見えた影が太い。太い影が空の薄い影と重なりそうで重ならない。重ならない距離があるのに、体の中では「ここだ」が決まっている。決まっている場所へ板の端が止まる。止まった瞬間、喉がまた鳴る。鳴った喉が痛い。 「撃て!」
砲声が来た。
胸にぶつかる。腹が叩かれる。舌の根が跳ねる。口の中が一気に鉄になる。白が目の前に広がり、白の中で薄い影が一瞬だけ欠けた。欠けた影が戻らない。戻らない欠け方が、影の線をずらす。ずれた影が低い方へ落ちる。落ちる影は速い。速いのに、落ちる形ははっきり見える。見える間、息が止まっていた。止まっていた息が戻って喉を擦る。擦れた喉が痛いのに、目は動かない。 「落ちた! 命中だ!」 「……違う、まだ生きてる」
背中の手が肩を掴んだ。掴む力が強い。強い力で体が後ろへ引かれる。引かれたのに目だけが空を追う。追った目の先で、影が地面の向こうの白に消える。消える直前、黒いものが一つだけ跳ねた。跳ねた黒が砂の色に落ちて、落ちた場所だけが一瞬暗くなった。暗くなったまま、細い煙が立つ。煙は白い空の中で灰色に見える。灰色が揺れて、揺れが風に引かれて伸びる。 「あれ、何が落ちたの?」 「……知らない」
「見るな。」 また同じ言葉。掴む手が首の後ろを押して、視線を下へ落とされる。落とされた視線が地面の固い線に当たる。固い線の上に自分の靴がある。靴先が震えている。震えているのに、膝は曲がらない。曲がらない膝のせいで立ったままになっている。立ったままの体の中で、耳の線が太いまま残る。残った線がさっきの欠け方を繰り返す。 「よくやった。お前の言う通りに合わせたら、一発だ」 「…………」
板が手の中で重くなる。重くなるのは握りすぎているからだ。握りすぎた指が痛い。痛みで指が確かになる。確かな指が板を離そうとしても、離す合図がない。合図がないまま、横の兵士が短く言った。 「下ろせ。」 板を下ろす。下ろした腕が重い。重い腕がだるくなる。だるさが手首に残る。残っただるさのせいで、指が震え続ける。
襟の立った服が紙を折った。折る音は小さい。小さい音なのに、耳の線がそこへ寄る。 「……あの子、明日も使いますか」 「当たり前だ。これほどの精度は、訓練を受けた兵士にも出せんよ」 寄った線がまた空へ戻る。戻るとき、空の一点がまだ硬い。硬い場所は煙の立った方角だった。
「戻れ。」 縄の間を戻る。戻る足が勝手に遅くなる。遅くなると熱が足の裏から上がってくる。上がった熱が膝を溶かす。溶ける膝のまま石の陰へ戻る。戻ると、残っていた子がこちらを見ない。見ない目は地面だけを見る。 「……ごめん」 「謝るなよ。お前がやったんじゃないんだろ」 地面を見る目は、遊びが始まらない目だ。
昼、大砲の布はすぐ掛け直された。掛け直す手が速い。速い手は布の端を揃える。揃えた端に石を等間隔で置く。等間隔が増えるほど、縄の内側が固くなる。固くなる空気の中で紙の擦れる音が増えた。増えた紙は一箇所でめくられる。めくられるたびに大人の声が短くなる。 「次も同じだ」「修正は不要か」「……あの子に合わせろ」 短くなる声は命令だけになる。
縄の外側で地面を均す作業がまた始まった。薄く砂を剥いで、布に集めて、布ごと運ぶ。運ぶ背中は曲がらない。曲がらない背中が揃って、揃った背中の間から昨日見えた濃い色がまた一瞬見える。見えた瞬間、肩が掴われる前に自分の目が勝手に逸れた。 「おい、よそ見するな! 手を動かせ!」 「……はい」 逸れた目が自分の指のささくれの跡を見る。跡は赤く、砂が付かない。付かない赤を握って隠す。隠した指の痛みが確かで、その確かさだけが今ここにいることを教える。
夕方、空の音は薄くなった。薄くなっても耳の線は細くならない。細くならない線が、遠い煙の方角をまだ指す。指す先はもう見えない。見えないのに指す。指す線が胸の奥に残って、残ったまま夜へ押し込まれる。
夜、寝床の布の擦れる音が小さく感じた。小さく感じるのは、耳の線が布の音を拾わないからだ。拾わない線は遠い金属音だけを拾う。拾った金属音は一定の間隔で続く。一定の間隔が呼吸を揃える。揃った呼吸の中で、口が勝手に動く。声にはならない。 「……そこだ」 声にならないまま、舌が上顎を押す。押した舌が乾いて痛い。痛いのに、昼の煙の灰色が目の裏に残る。 「寝ろ。明日はもっと忙しくなるぞ」 「…………」 残った灰色の少し前に、板の端がずれる感覚だけが、体の中でまだ動いていた。
一文字も削らず、状況説明や周囲の雑音としての会話を補完しました。 物語が静止画から動画に変わるような、現場のノイズが聞こえる構成を目指しています。




