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絶え間なく降り注ぐ

作者: 深海聡
掲載日:2026/01/23

 空を見上げて、リュシィは手を伸ばした。

 何日も降り続いた雨が上がって、止められるのも聞かずに思わず外へ出てきてしまったのを、ほんの少し後悔する。

 いくら陽気が春めいてきたとはいえ、まだ上着が手放せないくらいには、風が冷たい。

 まばらに生え始めた草についた露が、手足を、服の裾を濡らす。

 風に吹かれた木々の葉から、雨の名残が細かな水滴になって降り注ぐ。

 乾いていたはずの髪も、服も、気が付けばしっとりと水分を含んで重みを増している。

 ――つまり、濡れてしまって思った以上に寒い。


「どうしよう、帰るべきかな?」


「えぇーもったいないでしょ」


 思わず呟いた言葉に返ってきた返答に、手のひらに握りしめたままだった小さな人形の存在を思い出した。

 数日前、フラリと立ち寄った旅人がくれた人形。

 純白の毛並みと、何の素材で作られたのか良く分からない、虹色に輝くねじれた角が額についた馬。

 つぶらなコロンとしたボタンでできた目が、じっとリュシィを見上げている。

 見当たらなくなってしまった銀色のはさみを探してあげたお礼だとか言っていたけれど、こんな不思議が宿るものだなんて聞いてない。

 リュシィはまじまじと人形を見つめた後、プハッと、詰めていた息を音を立てて吐き出した。


「えーええぇーしゃべったんだけど……噓でしょ」


 何となく声を潜め、周囲を見回し、キョドキョドと明らかにおかしな状況に慌てふためくリュシィを意に介した様子もなく、人形はごく軽い調子でケラケラと笑った。


「いやいや、ホントホント。」


 リュシィの慌てぶりを楽しんでいる節すらあるそれを、リュシィはじっとりとした視線で見つめる。


「本職は月の光を糧として動く案内人なんだけど、ワタシは乙女相手なら無敵な特性があってだねぇ」


 リュシィの視線を意に介した風もなく得意げにしゃべり始めたそれは、常日頃からリュシィが母と姉から禁じられている類の対応そのもので。

 駄目と言われる理由をしっかり実感しながら、リュシィはちょっと顔をしかめた。

 なるほど。しゃべる馬鹿はばれるというのは、このことか。などと思ったのは、色々と腹が立ったからという訳ではない。

 本当に、これっぽっちも、失礼な奴だとか……思ったけど。などと、リュシィは何とも言えない気分になった。


「あー。やっぱりそういう感じなんだ」


 わー、知りたくなかったなぁと、リュシィは手の中にいるミニチュアサイズのユニコーンを残念なものを見るような目で見つめる。


「じゃあ、僕とはあんまし相性良くないかなぁ」


「ん?」


「だって僕、男」


「え、だって、」


「あれは姉さんと母さまのいたずらで姉さんのお古着せられてただけだから」


 不意に吹いた風が、雨の名残を吹き上げる。

 日差しに、キラキラと水滴と金の髪が翻る。

 若草色の瞳に諦観を潜ませて笑うリュシィの透明で繊細な美しさは、近所でも美少女よりも完璧な美少女として既に有名な話だ。

 それに多少複雑な思いを抱いても、それはそれで構わないかと思っている。

 周りはただふざけているだけで、本気でからかったり、むしろ嫌がらせに使ったりするつもりなどないのだから。

 リュシィが本気で嫌がれば、やめてくれるだろうと思う。

 だけど、そんな風に構われるのも存外嫌じゃないから困る。

 それに。そんな時間も、そろそろ終わりだから。

 だから昨晩は、皆羽目を外しすぎただけなんだ。


「きっともう、こんな機会なんてないだろうし」


 物思いに沈むリュシィが吹き寄せる風に思わず顔を上げれば、風と共に人が転がり込んでくる。

 ふわふわと癖の強い赤金色の髪が、鼻先をくすぐる。


「わっ…ぷ」


 衝撃に思わず変な声が出たリュシィに、飛び込んできたその子の口元が堪えきれない笑いに歪んでいるのに気づいて、リュシィはやれやれと肩をすくめた。

 身構えていても、子ども同士のじゃれ合いに遠慮はなくて、受け止めきれずに一緒に草の上に倒れ込むまでがいつもの流れだ。

 そう。これは、いつもの流れだ。


「危ないからやめなっていつも言ってるでしょ、アビィ」


「わたしに倒されるリュシィが悪いんじゃない?」


「……そこはせめて、ルキって呼んでおこうよ」


「いいじゃない、可愛いんだから」


「かわ…もう、いいや。それでアビィが満足なら」


 諦めたようにため息をついたリュシィが位置取りを工夫して、アビィが頭を地面にぶつけないようにさりげなくかばっている様子を見遣り、その首、頬、耳とほんのり赤く染まっている様子を見て、ぬいぐるみのユニコーンはあきれた様子で頭を振った。


「これ、ワタシ、お呼びじゃなくない?」


 リュシィの胸元でゴソゴソしながら呟くぬいぐるみとごく近くで見つめ合うことになったアビィが、青みがかった緑の目を丸くする。

 バシバシ。

 慌てた様子でリュシィの腕を叩くアビィに、リュシィは少しだけ顔をしかめた。


「ちょ、アビィ、それ地味に痛いからやめてって言ってるでしょ」


「ね、それ、ぬいぐるみ、動いてしゃべってる!」


「うん」


「や、うんじゃないから。え、普通じゃないよね?」


「うん」


 何をされてものんびりと草の上に寝そべり、だらんと脱力したまま、リュシィは空を流れていく雲を眺めていた。

 少し顔の位置を変えれば、ほのかに野の花の香りがする赤みがかった茶色の髪が、ぴょこぴょこと鼻先をくすぐるから、リュシィは自然と口数が減る。

 そんなリュシィにはお構いなしで、アビィはゴソゴソと動くぬいぐるみにくぎ付けだ。

 その目力に負けたのか、ぬいぐるみは慌てた様子でリュシィの懐に引っ込んだ。

 その動きを追いかけて、リュシィに飛びついた態勢のまま、上着の合わせから懐を探ろうとするアビィの手を、リュシィは思わずぎょっとした様子でつかむ。


「ちょ、アビィ」


「え、待って。それ見せて」


「え、や、駄目だって」


「ケチ!」


「そういう問題じゃ…ちょ、だからまずいって」


 雨上がりの地面の上でもみ合った結果、見事にどろどろのぐちゃぐちゃになったリュシィが、ムスッとした表情でアビィを抱えたまま上体を起こす。


「わゎっ」


「……僕、帰るから」


 アビィが泥まみれにならないように立たせ、不機嫌を隠しもせずにリュシィは背を向ける。

 その背中と髪に泥がべったりついていることに気が付いたアビィは、そこで初めて自分のやらかしに気づいて、言葉に迷う。

 何を言うべきか迷っているうちにリュシィはさっさと家に戻ってしまって、結局アビィは何かを言う機会を失ってしまった。

 明日言えばいい。そんな風にこの時点では軽く考えていたことを、アビィはとても後悔することになる。




 朝もやの立ち込める戸口で、リュシィは小さく笑みを浮かべた。

 別れを告げることが、どうしてもできなかった。

 キラキラと止めどなく零れ落ちる涙を見ることが、とても嫌だったから。

 その涙をどうやって止めることができるのわからなくて途方に暮れることも、いつの間にか何ごともなかったかのように大泣きしたことさえ忘れられることも、ちょっと面倒だ。


「どうせ君は……」


 言いかけた言葉があまりにも八つ当たりめいていて、リュシィはその言葉の続きを思わず飲み込んだ。

 忘れて良いなんて口にして、本当に綺麗さっぱり忘れられていたりしたら最高に後悔しそうなのに。

 時々、気分に流されて禍言を口走りそうになる。


「ホント、こういうの駄目だな」


 両手で思いっきり、頬を叩く。

 想像以上の音がして、想像以上に痛い。

 そのことに何だか、リュシィは半笑いになった。


「じゃあ、行ってきます」


 元々家族には、気持ちが鈍るから挨拶しないで行くと伝えてあったから、家の中は静まり返っている。

 リュシィは一族の中でも、稀に見る強い力を持って生まれた術士だ。

 だから力の使い方を学ぶために、10歳になったら術師の塔に行かなければならない。

 それはずっと前には決まっていたことで、でも、リュシィがアビィだけには伝えられなかったこと。

 誰もいない小道を歩きながら、リュシィはじっと足元を見つめる。


「僕が帰ってくる頃にはきっと……」


 その言葉の続きは、怖くて言葉にできなかった。

 言葉にしたら、涙があふれてしまいそうだから。

 だから言わなかった。


「アビィ。僕と君とは、生きる時間が違うんだって。術師はとても長命だから、きっと、僕は、僕たちは」


 言葉になり損ねた思いが、靄に浮かぶ影のように崩れて消えていく。

 ぽろりとひと粒、涙が零れた。


「それでも、いいんだ。君の笑顔がキラキラしているなら」


 すぅっと息を吸って、リュシィは笑みを浮かべた。


「どうか。僕を忘れて」

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