第7話
向かったのはノミ屋の事務所だった建物だ。
今はマフィアがこっそり使っているらしい。奥にある一室には地下への入り口があり、ツケを貯め込んでいた奴をいたぶる為の地下牢のような部屋がいくつもある。
俺たちはそこに降りていき、打ち合わせをする奴らと顔を合わせた。
「全員集まったな?」
ランプで照らされた地下室にノアが声を掛ける。一人を除いた全員が頭を下げて答えた。見た目からしてマフィア連中だ。真ん中にいる頭を下げなかった中年の男だけが一般人か。
「八百長の打ち合わせを始めるぞ。まず──」
「──妻と娘は無事なんですか!?」
中年の男がいきなり叫んだ。その眼が薄暗い室内に爛々と光っている。ノアが仲間に眼を向けると、一人が身を縮めて近寄ってきた。
「すんません。八百長を前に怪我をさせるわけにもいかず」
「いやいい。テイゾウさん、会わせてあげますよ。おい」
テイゾウ。その名前と一般人にしては太い首で思い出す。今でこそ中堅どころだけど、俺がガキの頃はトップジョッキーの一人だった男だ。
何人ものマフィアが奥の部屋に行き、女と少女──テイゾウの妻子を連れてくる。二人とも目隠しをされ猿轡を噛まされ、腕も縛られていた。怪我したようには見えないけど、どちらも肩を竦めたまま躰を固くしている。
「……どういうことだ」
そう言ったテイゾウの声が震えている。
さらに、奥から何人もの人間が連れてこられた。歳はバラバラで年寄からテイゾウの娘より小さい子供もいる。全員が全員、テイゾウの妻子と同じように拘束されていた。
「従妹は関係ないだろ!?」
テイゾウが吠えてもノアは表情をぴくりとも変えず、仲間が用意してきた椅子に座って足を投げ出した。
「両親と娘、どっちが大事だ?」
怒りか、恐怖か、動揺か、テイゾウの唇がわなわなと震えている。人質たちの後ろにはそれぞれマフィアが控え、いつの間にか全員がナイフを握っていた。
「まずは叔母からだな」
テイゾウの抗議は間に合わなかった。骨ばった婆さんの首が切られ、テイゾウの足元に突き飛ばされる。
猿轡を噛まされては苦悶の声すら上がらない。思い出したように短い痙攣を起こし、すぐに動かなくなった。弱い光に照らされて黒く光る血が、俺の靴に届く。
虫が昇ってくるような感覚が、背筋を一直線に貫いた。急いで脚を引く。血の筋が地面に尾を引いた。
「叔母は躰が悪かったらしいな。次は年齢順で親から行くか? それとも血の離れた従妹夫婦から行こうか?」
ノアの表情は俺と話していた時と何一つ変わらない。今にも朗らかに笑いそうな顔で平然と椅子に座っている。
「……勘弁してくれよ」
テイゾウの絞り出すような声が、俺の耳を打った。一言一句同じことを言いたかった。
こいつらはマフィア──ノミ屋以上のクソッタレだ。危険は先延ばしになっていない。むしろ目の前にいて、喉笛にナイフを押し付けられている。
ノアが顎をしゃくった。老人二人と中年男女二人の首が同時に切り裂かれる。
テイゾウが絶叫した。錯乱したような悲鳴が地下室に反響し、耳の奥に突き刺さる。眩暈がした。頭と脚が別々に揺れているような感覚に襲われる。
「テイゾウ。お前が口にしていいのは一言、はい、だけだ」
音がした。テイゾウの腰が抜けて座り込んでいる。それでもその首は、微かに横に振られた。
「呆れたな。命とプライド、どっちが大事だ?」
ノアの視線が人質の背後にいる仲間に向く。瞬間、テイゾウが口をぽっかり開けた。
「……委員会の制裁がある。八百長がバレれば死刑だ」
「ちゃんと逃がしてやる」
「みんな殺しておいてどの口が!」
ついに、テイゾウの眼から涙がこぼれた。その粒はどんどん大きくなり、堰を切ったように止めどなく流れていく。ノアは溜息を吐き、椅子から立ち上がった。
「時間をやる。そこで冷静に考えろ。家族と話し合うなら耳栓は外してやれ。そのままだと聞こえないからな。ただ、この部屋からは出せない。その場で話し合え」
俺もノアに続いて地上に出た。地面に埋められていたような圧迫感が消えて躰が軽くなり、異常に空気が美味く感じた。
唯々諾々とマフィアに従っていては駄目だ。今はよくても少しでも状況が変われば俺は呆気なく殺される。
金を稼ぐしかない。なんとしてでも三千万ルーブルもの大金を稼ぎ、マフィアたちと縁を切る。俺が生き残る道はそれだけだ。
その後、テイゾウは堕ちた。それから行われた八百長の打ち合せの内容は覚えていない。
すぐに競龍場に戻る気にはなれなかった。
肺の中身を入れ替えるように辺りをうろつき、ふと、盗んだ金の指輪の存在を思い出す。
売れば焼石に水でも借金の足しになるはずだ。俺は今の住処であるアンガス厩舎の横にある家へと指輪を取りに戻り、盗品だろうと買い取る古物商の店を訪ねた。
珍しく客が一人もいなかった。燭台が一つしかない受付だけの狭い店だけど、なんでも買い取るお蔭でいつも店の前に行列ができていたのに、今日ばかりは閑古鳥が鳴いている。
「この指」
言い掛けて俺は口をつぐんだ。
どう考えても閑散とし過ぎている。受付に座った店長は俺のことに気付いていないのか受付台に足を乗せて爪を切っていた。俺の記憶だとここまで傍若無人な人となりじゃなかったはずだ。
競合店ができたんだろう。店主の視界に入るように金の指輪を置いた。
「向こうは十万ルーブルで買うといってきた。この店はいくらで買ってくれる?」
店長の眼が、それ自体が生き物のように動いて俺を睨んだ。瞬間、力強く受付台が叩かれる。
「ならブレンドンのゴミカスのとこで売れよ!」
それが競合店の名前か。俺は古物商を後にして、その名前を頼りに店を探そうとする。その途中で一週間近く前に聞いた噂を思い出した。
利益ド返しレベルの高価買取をする店ができた。売る物もなかったから気にも留めなかったけど、メインストリートのすぐ裏の通りにそんな店があるらしい。そのせいで最近は強盗が増えているなんて噂も流れていた。
ブレンドン質店。
デカデカと看板が掲げられ、店の前には長蛇の列ができていた。元も質屋だったはずだけど店名が変わっている。繁盛していた記憶はなく、店長は街の黎明期からいたらしく敷地面積はそれなりにあり、周囲と違ってこの店だけが木造だった。
列に並んで順番を待ち、金の指輪を提示した。
歳のいった男が指輪を見分して重さも図る。店内には買い取ったであろう品々がいくつも並び、鑑定士も他に二人いた。店内をうろついている客もいるにはいるけど、物を売りに来る人間の方が圧倒的に多いみたいだ。
「二十万ルーブルでどうですか?」
鼻水が出そうになった。さっき古物商に吹っかけた十万ルーブルだって十分破格だ。
「それでいい。買ってくれ」
即決で換金した。指輪を担保にすればもっと金が引っ張れそうだけど盗品を抱えたくない。金を懐に隠して店を出る。
この金の使い道の第一候補は龍券だろう。
この街で手っ取り早く大金を手にするには龍券で当てるのが一番だ。確実に当てるとなれば当然、俺が関わっている八百長レースの龍券がいい。
しかし、競龍関係者は八百長防止を理由に龍券は買えないことになっている。知り合いに頼めば買うこと自体はできるけど、共犯者になってくれる口の堅い知り合い──そんな都合のいい奴がそうそういるわけがない。
妹のシイナを引っ張り込むわけにもいかない。マフィアに頼むのが早いけど下手に刺激するのは危険だ。
衝撃が、左からぶつかってきた。




