第6話
「止まーれー!」
係員の声が掛かった。
龍券販売の締め切りを知らせる鐘が鳴る。
俺はガラス製のゴーグルを着け、係員に誘導されて上から二段目の最奥に進み、コースの内側に屹立する塔に注目する。全頭の準備が終わり、塔のてっぺんに旗が掲げられる。あれが下ろされるとスタートだ。
ケアフリーボーイはよそ見せずに正面を見ていた。少なくともレースは理解しているらしい。
問題は俺の方だ。龍の水平飛行速度は馬の倍は速く、一か月半ぶりでそんな速度にいきなり対応できるのか。ケアフリーボーイのことは勿論、他の龍のことだって何も知らない。騎手としてこの街のコースに乗るのも初めてだ。
山頂を跨いで設置されたコースは楕円形で、スタートは緩やかな下り、コーナーを通り過ぎると上りになり、直線の真ん中で下りに入りそのままコーナーに突入。また上りに入ると直線の真ん中で下りになり、そのままゴール。
これ自体は良くある形式だけど、他の知識は俺が乗ったことのあるリントウ帝国のコースより小回りで傾斜がきついというぐらいしかない。
分からないことが多すぎて悩むのが馬鹿らしくなってきた。なるようになると思うしかない。俺はうつ伏せになって鞍に付いた取っ手を握った。
旗が下りる。
スタートだ。ケアフリーボーイはぐっと躰を沈めて翼を広げ、力強く大空に羽ばたっていく。
そこまでは良かった。他の龍たちにぐんぐん引き離されていく。
俺たちだけがもっさりとしたスタートを切った。いきなり置いていかれるわけにはいかない。俺は何度も鞭を叩いてケアフリーボーイを促した。羽ばたきが力強くなり、向かい風が強くなる。
レース中の隊列はコース最内の龍を先頭にして、外側後方に連なっていくという雁行隊形だ。それが上下に複数層に分かれて編隊する。
最初こそポジション争いで隊形がぐちゃぐちゃでも、後方乱気流で無駄な力を使うのを恐れて次第にその隊列が定まっていき、前を行く龍たちの速度が落ち着いた。遅れた分の距離が詰まっていく。
最初のコーナーに差し掛かった。龍たちが躰を傾け左回りのコーナーを旋回する。ここでいかにスピードのロスなく旋回できるかが勝負の胆の一つだ。
左に持った手綱を引っ張った。手綱は交差しており、左の手綱は右の翼に繋がっている。ここを引くことで右の翼を持ち上げるよう指示がいき、龍の躰が左に傾いて左回りのコーナーを旋回できるようになる。
躰に荷重が掛かる。斜め後ろに引っ張られそうになる。
スピードはそこまででもないけどコーナーがきつい分、俺が今までで感じた一番強い荷重と変わらない。鞍にへばりついて顔だけ前を見ている関係上、首に掛かる負担はかなりのものだ。だけど、これを堪えなければ追いつくものも追いつけない。
左の手綱を引き、さらに傾斜を激しくさせる。ケアフリーボーイの羽ばたきが速くなった。俺の指示に忠実に答えようとしている。
しかしそれでも距離が詰まらない。コーナーワークが下手なのか。離れた最後尾のまま直線に入る。
コーナーで追いつけないなら直線でどうにかするしかない。俺はケアフリーボーイを急がせた。
その甲斐あってなんとか他の龍の斜め後ろに着けられた。ここまで来れば斜め前の龍が生み出した上昇気流を利用して楽ができる。下りに入ってポジションをキープして、勢いを維持したままコーナーに侵入した。
やはり、手応えが悪い。
それでも離されるわけにはいかない。ケアフリーボーイを急かして忙しくなく翼を動かさせる。ここさえ凌げばチャンスはまだ残っている。
ふっと手応えがなくなった。
スタミナ切れか。思った途端、ケアフリーボーイの旋回が緩くなり不必要に上昇する。その瞬間、一気に前の龍たちから離される。
惨敗。その一言が頭を過った。
落ち着け。空において高さは速さだ。
悪いことばかりじゃない。それに一足先に上りに備えただけだ。問題なんて旋回が緩くなった分の些細な距離ロスが起こった程度だ。十分とり返せる。直線登りの間にまた最後部に追いつけばいい。勝負は下りに入ってからだ。
前の集団からどんどん離れていき、その間に俺たちは上昇する。そうして直線に入った。前の集団が昇っていくのが眼下に見える。この間は水平飛行している俺たちの方が速い。急げば十分に追いつくはずだ。
ケアフリーボーイの羽ばたきが、弱弱しかった。
前の集団に追いつかない。直線に入り、前の集団もスパートに入って速度を上げている。その加速についていけない。向こうの上昇速度と俺たちの水平飛行速度がほとんど変わらない。これでは追いつけない。
完全にスタミナ切れだ。俺たちのレースは、ここで終了だった。
俺は俯き、抑えていた呼吸を存分に繰り返した。レース中は顔を前に向けているせいで呼吸がしづらく、楽に息をするにはこうして俯くしかない。
レース中に俯くとは即ち、敗北宣言だ。
この龍に乗ってどうやって八百長をするのか。疑問でしかなかった。
普通八百長といえば、龍券で人気になっている強い龍を故意に負けさせるものだ。アンガス厩舎に唯一所属するケアフリーボーイはスピードもなく、かといってスタミナが多いわけでもなく、はっきり言って弱い。
しかも乗っている騎手も得体が知れない俺では人気するわけがなく、そもそも八百長が成立しようがない。
マフィアは競龍素人だから分からないのか。アンガスは流石に分かっているはずだけど、マフィアの指示だからと黙って従っているのか。考えている内にゴール板を過ぎ去った。当然、最下位だ。
装鞍所に戻ってきてアンガスと再会する。結果が分かっていたのかレース前とその表情は変わらない。
「下手くそだな」
唐突にそう言われて、無性に神経が逆立った。俺は奥歯を噛みしめ、一旦感情を堪えてアンガスを睨んだ。
俺は確かに経験の少ない新人だ。それでも俺は、競龍学校の同期の中で一番巧かった。自負だけじゃなくプライドもある。
あのまま無事に卒業できていれば、俺は絶対に一流の騎手になれていた。俺と違って自分のせいで身を持ち崩した爺さんに貶される謂れはない。
「まともな龍を用意してから言えよ。それとも本気で勝てると思ったのか?」
「だから下手くそなんだよ」
それだけ言って、アンガスは鞍を外していく。話にならない爺さんだ。俺は会話を諦めて検量室に向かい、手続きを済ませて競龍場をあとにした。
龍が弱ければ調教師の腕も悪い。
断言する。八百長は不可能だ。マフィアの考えていることが分からなかった。いや、考えても無駄か。
所詮、俺はただの駒だ。言われたことだけを馬鹿みたいにこなしていればいい。
それから何度もレースに出た。
レースの条件は同じ、内容も同じ、結果も同じ。何一つ変化はなく、当たり前のように最低人気になり最下位で負けていく。時間の無駄としか思えなかった。
だからふらっと現れたノアに、次のレースはなんとしてでも勝てと言われた時は正気を疑った。
最低人気で勝てれば払戻金は尋常ではない。
ただ、勝てないからこその最低人気であり、それは俺自身が一番よく分かっている。当たり龍券の対象になる三着以内ですら寝物語だ。一桁着順になれば諸手を挙げて喜んでいいぐらいの快挙だろう。
これで勝ちを逃せば俺の責任になるのか。想像するだけで苛立ちが募った。
「……正直に言います。勝つのは無理ですよ」
「そんなの分かってるって」
あっけらかんとした言葉が返ってきた。
「今までのは前振りだよ。アンガスにはトレーニング代わりにレースを使うよう言ってきた。ドラゴンの状態は上がってきて、ついでに人気は下がってきた」
言われて見ると、ケアフリーボーイに前進気勢が出てきたような気はする。ただ、結果は伴っていない。ここからちゃんとした調教を重ねていっても到底勝てるとは思えなかった。
「レベルの低いレースも見つけてある。そこなら一頭を除けば勝てるはずだ」
「そいつを倒せって言うんですか?」
「負けてもらうんだよ。今から打ち合せだ。行くぞエイシロウ」




