第5話
「ノアって名前だ、よろしくな」
翌朝になって俺を迎えに来た男は、マフィアにしては屈託のない笑みを浮かべる奴だった。
歳は俺より少し上の二十歳ぐらいか。顔立ちもどこか子供っぽいけど、反面躰は大きく異様に鍛えこまれている。素手の殴り合いでこいつに勝てる奴はまずいないだろう。
すぐに競龍場に向かった。まだ開門前にもかかわらず、多くの人間が正門に集まり熱気を放っている。
俺たちはそんなギャンブル狂いの脇を通り過ぎ、関係者入り口から中に入り、競龍場に隣接する厩舎地区に足を踏み入れた。
厩舎地区は騎手、調教師、厩務員、そして龍が暮らしている地区だ。
端の方には人間用の住宅地もあるけど、ほとんどは龍の為の厩舎が無数に連なり敷地内のほとんどを占めている。
俺もガキの頃には何度も忍び込んだ。ここだけはリントウ帝国の中央競龍と比べても遜色がないほど立派だ。
あの頃とは違い、堂々と厩舎地区を進んでいく。皮肉なことだった。ガキの頃も競龍学校時代もこんな風にこの場に帰ってくるとは思わなかった。
気付けば溜息を吐いていた。その無意識の行動にも辟易とする。俺は頭を切り替えて久しぶりに接する龍たちに目を向けた。
ウォームアップがてら厩舎周りをうろついている龍の姿は、一見すると首の長い鳥だ。ところが体長は四~五メートル、翼を広げた時の幅は最大で十二メートルを超える。
牙と爪は人間を虫のように殺せるほど凶悪で、『龍鱗』と呼ばれる鱗のように見える幾重にも生えた羽毛は弾丸をも弾く。その上巨体を支えるべく進化した太い二本の脚から放たれる蹴りは、滑空時の勢いも加われば城壁すらも易々と砕いた。
まさに怪物だ。
こうして見るのは競龍学校を辞めた以来、一月半ぶりだ。岩を擦っているような鳴き声がそこかしこで上がり、重い羽ばたき音と共に地を這うような風が吹いてくる。
また、競龍騎手に戻れるのか。
実感が沸くほどに脚が重くなってきた。可能なら今すぐにでも背を向けて帰りたい、そんな思いが足首に纏わりついている。
意味のない思いだ。全てにおいて今更すぎる。俺は絞り出すように息を吐いた。それだけで脚の重さは半分ぐらいマシになった。
地区の端にある厩舎でノアが足を止める。ここが俺が所属する厩舎か。
作りは新しく臭いもほとんどしない。龍が暮らす部屋である龍房は十頭分あるけど、埋まっているのは一つだけだ。その唯一埋まった龍房の前には鉄柵越しに茶色の龍と向き合っている奴がいた。
「ここがお前の所属する厩舎だ。おいジジイ、こっちが前に話したジョッキーのエイシロウだ」
そいつが俺たちを見る。
不機嫌そうに下がった口角はいかにもとっつきにくそうな爺さんだ。余った皮膚が垂れ下がり、白いものが混じった無精髭を生やしている。外見の印象は最悪だ。多分、俺と同じ立場の人間だろう。
「エイシロウ、このジジイがトレーナーのアンガスだ」
呑気に挨拶するような関係でもない。俺は軽く手を上げただけで済ませ、アンガスも俺を無視して龍に視線を戻す。龍も初対面の俺なんか意に介さず、片脚立ちでリラックスしきっていた。
「お前たちには八百長をしてもらう」
分かってはいたけど、明言されると鳩尾の辺りが重くなる感覚があった。リントウ帝国で競龍学校に通っていた人間が堕ちたものだ。
「エイシロウ、お前のジョッキー登録はもう済んだ。今日からでもレースに出られる。アンガス、このドラゴンは予定通りレースに出られるな?」
「出るだけならな」
流石に面食らった。
「今日いきなり乗るんですか?」
ノアが歯を見せて笑った。
「ただのお試しだって。お前もいきなり本気で乗れなんて言われても困るだろ?」
配慮してくれる分まだマシか。龍に触れること自体一か月半ぶりだ。それで調教をすっ飛ばしていきなりレースに出るのは荷が重いけど、文句を言っても始まらない。
「結果は二の次でいいんですよね?」
「おう、お前が関わる八百長はまだ先だ。それまでは適当でいい」
少しだけ肩の荷が軽くなる。その時が来るまで借金の心配をする必要もなければ、八百長がバレた時の競龍運営員会の制裁に怯える必要もない。
準備はとんとん拍子に進んだ。
アンガスの厩舎に所属する人間は調教師のアンガスと騎手の俺だけで、厩務員は一人もいない。龍も最初に見たケアフリーボーイという名前の茶色のデカい雄龍が一頭いるだけだ。
これがリントウ帝国の中央競龍ならあり得ない体制だけど、所詮草競龍でしかないこの街だと似たような厩舎はちょくちょくある。
装鞍所でアンガスと共にケアフリーボーイに鞍を着ける。
馬のものと違い、龍のそれはかなり縦に長く、飛んでいる時の強烈な向かい風を避ける為に腹這いのような姿勢を取れるようになっている。他にも飛んでいる時に握る用の取っ手が付いているのも特徴的だ。鞍の前後に二対ある腹帯を龍の腹に回し、翼の邪魔にならないよう斜めに交差させて締め付けた。
アンガスの腕を足場にして騎乗する。
馬と違って頭ではなく、翼の付け根から伸びる手綱を取り、レース中に気絶しても落ちないよう鞍と躰をロープとガラビナで固定すれば準備は完了だ。
ケアフリーボーイを促して装鞍所を出た。すぐ目の前はコースだ。準備を終えた龍から順に空を飛び、レース前のウォームアップを始めている。
「指示は?」
振り返ってアンガスに訊ねると、疑いの眼差しが返ってきた。
「好きに乗れ」
お手並み拝見ってところか。
もう一度ケアフリーボーイを促すと、その背中がぐっと沈んだ。同時に翼を広げ、力強く羽ばたいて地面を蹴る。
久しぶりの浮遊感。のんびりとした羽ばたき。上半身にぶつかるまだ緩い向かい風。眼下に見える山の窪みに嵌ったような街の風景。高さからくるひやりとした恐怖がむしろ心地いい。
自然と気分が高揚した。
懐かしい感覚だ。
何者にも囚われない圧倒的な解放感は、龍に乗って空を飛んでいる時にしか味わえない。山林に埋もれるように存在するこの街はあまりにちっぽけで、相対的に俺自身がでかくなった気になってくる。聞こえるのも風ばかりで、人間が作り出す喧噪は何一つない。
単純で、純粋で、だからこそ狭くも感じるどこまでも広い世界。それが空だ。形は全く違っても、俺はここに帰ってこれた。
何も考えたくなかった。考える事自体無粋だった。
大きく深呼吸をした。空気の味さえ地上とは違う気がする。
感傷に浸るのはここまでだ。
これから行うレースの距離は四千八百メートル。いわゆるクラシックディスタンスと呼ばれる距離だ。
リントウ帝国で行われるレースで最も試行回数が多いのは三千六百メートルと四千メートルのレースだったけど、格の高いレースではこの四千八百メートルが主流になってくる。どちらかというとスピードよりはスタミナが必要だけど、片方が欠ければ絶対に勝てない距離だ。
問題は、俺が乗っているこの龍──ケアフリーボーイに一切のスピードを感じないことだ。
ウォームアップだからではなく、本番でもそう速く飛べないだろうという確信がある。だからこそ四千八百メートルというやや長丁場のレースを選んだんだろう。大人しくて従順だし、気性的にも長い距離は向いていそうだから分かるけど、それにしたってスピード不足に感じる。
ともあれコースを半周程度飛び、スターティングヒルと呼ばれる階段状の崖の隣に降りた。残りの龍が集まってくるのを静かに待つ。
「止まーれー!」
係員の声が掛かった。




