第49話
ツキオミの龍は少しずつ上昇していた。
力強い羽ばたき──体力はまだまだ残っているか。元気一杯でもスピードに劣るケアフリーボーイが追いつけるかは分からない。
「目の前の敵から逃げるのかよ!」
苦し紛れで叫んだ。ツキオミに挑発が利かないのは分かってる。それでも叫ばずにはいられなかった。さらに畳み掛けようとした瞬間、ツキオミの龍が垂直落下した。
加速か。違う。あれはなんだ。咄嗟のことで理解が遅れる。
岩を擦るようなケアフリーボーイの鳴き声が聞こえた。その眼がツキオミの龍を無視して上空を睨んでいる。
俺は虚空を見上げた。傲慢なツキオミが、あれだけ馬鹿にされて逃げるわけがない。真上から降ってくるツキオミの姿が脳裏に浮かんだ。
俺はケアフリーボーイを下降させ、一気に加速した。垂直落下する龍の動きでツキオミの動きも判断できる。あいつの作戦に気付いてしまえば避けるのは難しくない。
何かが、首に巻きついた。
触るとロープのような感触があった。でも何も見えない。それだけを理解し全身に力を入れる。
衝撃。
後ろから引っ張ってくる強烈な力が、俺の首一点に集中する。
意識が飛びかけた。躰が宙に浮きそうになる。でも耐えた。競龍学校時代に鍛えた首はそんなにヤワじゃない。護身用のナイフを握って見えないロープを手探りで切った。
落ちていくツキオミが露わになり、垂直落下していた龍がクッションになって受け止める。一瞬でも判断が遅ければ死んでいた。でも、ツキオミが俺から逃げるわけがないのがはっきりした。
俺は街に向かって飛んだ。目指すのは北西の森だ。子供の頃に遊んだあそこが俺のホームだ。太陽も顔を見せ、人間の目も利くようになっている。
大木が連なる北西の森に、街側から回り込んで突入する。そこからは登りだ。この森の樹々の間隔は広く、龍でも合間を縫って飛ぶスペースがある。
この状況で不利なのは俺だ。ケアフリーボーイは不器用で翼も大きく、小回りなんて全く利かない。逆にツキオミの龍は小型で翼も短く機動力は申し分ない。余裕綽々で俺たちを追尾し、少しずつ距離を詰めてくる。
それでも、ツキオミは攻めてこない。攻められるわけがない。
俺が策を講じて挑んだのは、とっくに理解しているはずだ。さらに俺に不利なこの状況を見てツキオミが罠の可能性を考慮しないわけがない。
だからこそ、俺は追い詰められて仕方なくこの森に入ってしまった。そうツキオミに思わせなくてはならない。
俺は眼を凝らした。分かっていても不器用なケアフリーボーイに乗って森を飛び交うのは神経を削る。少しでも判断を間違えば樹に翼を引っかけて墜落だ。そして、この速度と高さでの墜落は即死を意味する。
心臓が爆発したような音で拍動する。向かい風で冷や汗は一瞬で渇き、掌はお湯に浸かったような感覚が広がっていく。
北西の森の出口はすぐそこだ。ケアフリーボーイの視線が、右から前に動いていく。
回り込まれたか。俺は咄嗟に左に旋回する。目の前に樹。内側に切り込み過ぎた。ケアフリーボーイが羽ばたきを止める。俺も鞍にへばりついて少しでも姿勢を低くする。
背中が擦れる。そう思ったのは一瞬だった。
躰が破裂する──口から中身が飛び出しそうになる。目の前が暗くなった。
圧力から解放される。
旋回は成功した。潰れていた肺が一気に膨らみ、視界が戻ってくる。背中が焼けるように熱く、触れる風が刺すように痛かった。胸にも刃物が刺さったような苦しさがある。
どこかの骨が折れたか。上体を起こそうとするだけで指先が震えた。でも、鞍に掴まるぐらいはなんとかできる。それなら十分元気なうちだ。
俺は森の斜面を下った。ケアフリーボーイの龍鱗が微かに膨らむ。警戒している証拠だ。機動力に勝るツキオミが迫ってきたらしい。
猶予はなかった。俺に手立て無しと見れば、ツキオミが決着を付けにくる。
俺は攻めた。可能な限り最速でギリギリのコースを選択する。
それでもツキオミの龍に比べれば無駄だらけの飛行だ。痛みを堪えて後ろを見やる。風にそよぐ枝葉でツキオミたちの位置が遅れながらも視認できる。やはり、あっという間に近づいている。
前を見た。この後のことはもう考えなくていい。効率的な体力の使い方なんて必要ない。俺は全力で鞭を振るい、ケアフリーボーイの全てを引き出した。
見える。樹に刺さった鉄の杭が、目印が見える。俺はその樹を躱して即座に下降した。
網が、目の前に広がった。
樹と樹の間に張られた巨大な網。そこにぶつかれば網は破れながらも龍の翼に纏わりつき、ツキオミは勢いを維持したまま墜落するしかない。俺はその網の下を寸前で掻い潜り、追ってくるツキオミを振り返る。
機敏な下降。明らかに遅い反応でも、ツキオミの龍はさらりと網を躱した。そして、そこで得た加速を利用して俺たちに突っ込んでくる。
ツキオミが、だんだんと反転してケアフリーボーイと背中合わせになっていく。その顔には不敵な笑みが浮かび、触れた物を焼き尽くす手が赤々と光っている。
「今だ!」
俺は叫んだ。隠れていたレイジが樹の上から飛び降りた。その手に持っているロープを引っ張って、俺とツキオミの間にそれが持ち上がる。
もう一つの網だ。
コーナーワークの悪いケアフリーボーイですら避けられる網が、ツキオミに避けられないはずがない。しかし一度網を避けたツキオミは、一瞬だろうと確実に油断する。その瞬間を待っていた。
新たな網に気付いたツキオミの表情が変わる。見えたのはそれだけだった。
ツキオミの龍に網が絡まり、揚力を失って落ちていく。機動力に任せたツキオミの滑空速度は尋常ではなかった。凄まじい慣性に引きずられ、ツキオミたちが大木に激突する。
巨大な大砲でも撃ったような音が轟いた。ぶつかった大木が少しずつ傾いていき、弾かれたツキオミたちが回転しながらさらに飛んでいく。
すぐには止まらない。何度も何度も玉のように大木に弾かれ、ようやく止まったと思っても斜面を転がり落ちていく。
生死を確認するまでもなかった。諜報部隊は残っているけど、ツキオミを失っては戦う意思も消える。俺は勝ったんだ。シイナは殺されずに済んだんだ。何度も心の中で繰り返し、しまいには声に出していた。
躰の痛みなんかどうでもいい。俺は手綱を引っ張ってケアフリーボーイのスピードを緩め、空を覆うように広がる大木の枝葉を仰いだ。木漏れ日を探して大きな隙間を見つけ、そこから森の上に出る。
相変わらず、夏の空はどこまでも高かった。
手を伸ばしても届く気配が一向になく、それを意識すると途方もなく世界が広がっていく。この世界には俺一人しかない、初めて龍に乗ったあの時の感覚が蘇ってきた。
ふと、下からレイジの声が聞こえた。
興奮してるのは分かるけど上手く聞き取れない。聞き返そうとして、ケアフリーボーイが明後日の方角に向かって甘えた声を出した。アンガスの爺さんだ。俺がさっきまで乗っていた龍に跨り、遠くから飛んできている。
「全然、一人じゃなかったな」
俺は笑っていた。笑えば笑うほど折れた骨の辺りが痛んだ。
それでも、笑いが止まらなかった。




