第36話
ケアフリーボーイから下りた途端、膝が曲がってこけそうになった。飛んでいるのは龍で、騎手の疲労なんてたかが知れているのにびっくりするほど力が入らない。
ユノに勝った。
意識はまだ現実を受け入れていない。躰だけが喜んでいる。その事実に気付くと、ようやくその実感が沸いてきた。
「やってくれたなあエイシロウ!」
ノアの怒声。浮ついた気分が一瞬で消し飛んだ。
「どうなるか分かってんだろうなあ!?」
近づいてくるのはノアだけじゃない。他にも大勢が部外者立ち入り禁止の装鞍所に大股で入ってきて、最後方にはグラハムファミリーのボスまでいる。
クウスケは駄目だったのか。俺は殺されるのか。
考えている間にもノアたちが迫ってくる。ケアフリーボーイに乗って逃げるか。いや、神の加護でケアフリーボーイごと殺されるだけだ。
慌てて止めに入った職員が拳銃で撃たれた。途端に装鞍所が騒がしくなり、龍たちの落ち着きがなくなった。
厩務員がなんとか抑えようとしても焼石に水だ。小枝のように振り回された挙句、龍たちは次々に装鞍所を飛び出していく。
ケアフリーボーイもアンガスの爺さんが宥めているけどぎりぎりの状態だ。
俺は少しでも装鞍所から離れようと、ノアたちに歩み寄った。
「覚悟は決まってるみたいだな」
ノアが歯を剥いた。笑いではなく威嚇。眼を見開き、青筋を立てたその表情は野生の獣そのものだ。向き合っているだけで汗が止まらない。耳もどんどん遠くなり、心臓の音だけが頭の中にがんがん響く。
俺は死ぬんだな。
そう思うと急に楽になった。競龍を汚しに汚した俺が、最期にユノと正々堂々勝負できた。それだけで十分だ。レイジに任せたからシイナの心配もいらない。
顔を殴られた。反応もできなかった。地面に倒れ込み、立ち上がろうとして髪の毛を掴まれる。
「悲しいよ、俺は。お前のこと結構信用してたんだぞ。妹に触れなかったのも信用してたからだ。それをお前は、こんな形で無碍にした」
大丈夫だ。シイナにはレイジが着いている。計画が失敗したならしたで、今頃街から逃げているはずだ。
「友達の名前はレイジだったか」
全身の肌が粟立った。
「見張らせてるに決まってるだろ? ここに連れてくるまでお前は生かしてやる。その時を楽しみにしと──」
「──ぬるいんだよてめえは」
痛みが、腹に突き刺さった。蹴られた──気付いたのと同時に不快感が胃からせり上がってくる。吐いた。吐ききる前にまた蹴られた。
「まずは見せしめだ。退け!」
ノアの手が俺の髪から離れる。躰を支える力はなく、俺は自分の吐瀉物に頭から倒れた。酸っぱい匂いが鼻につく。
また蹴られた。胃液だけ口から出る。腹周りの筋肉が痙攣し、次に蹴られる前に嘔吐した。
「調子こきやがって。妹が来るまで死ぬんじゃねえぞ。お前には瞼を切り取られて目も瞑れなくなった状態で、妹が凌辱されるところを見るっていう大仕事があるんだからな」
どうにかしないと。朦朧とする意識で俺はなんとか思考を巡らせる。
まずはここから逃げる。でもどうやって。周りは敵ばかりで、巫覡も何人いるか分からない。その状況で逃げられるのか。
蹴られた。痛みで思考が中断する。どうしたって逃げられない。現実的な事実が希望を押し潰す。頼むからシイナを逃がしてくれ。
レイジに祈る──今の俺にできるのはそれだけだった。
「そこまでだ!」
カイチおじさんの声がした。
「全員下がれ。それともここで殺し合うか?」
俺を蹴っていた男が舌打ちし、ノアと共に離れていく。装鞍所の入り口から近づいてくるのは確かにカイチおじさんだ。他にも多くの人がいる。
解放された俺は立ち上がろうとしたけど、自分の吐瀉物で滑って顔から落ちた。
妙に静かだった。俺はもう一度立ち上がろうとして、脇から誰かに支えられた。
「エイシロウ、もう大丈夫だ」
吐瀉物も気にせず、カイチおじさんが俺を抱き起こす。さらにハンカチまで渡してきて、俺を庇うようにグラハムファミリーの前に立った。
「面倒な話は無しにしようではないか、グラハムファミリーの諸君」
諜報部隊の中心にいる男が尊大な調子で言った。立ち位置からして隊長だろう。目付きや顔付きは鋭く、男にしては長い髪だ。そいつは懐から得体のしれないネックレスを取り出した。
「説明の必要はないな?」
どよめきが起こる。グラハムファミリーの全員がボスに視線を送り、当のボスは表情をぴくりとも動かさずに口を開いた。
「確かに、本物のようだな」
含みのある言い方に感じたけど誰も気にしてはいなかった。グラハムファミリーはボスを除いた全員が悔しそうに歯を食い縛ったり近くの物を蹴り飛ばしたり、それぞれの方法で怒りをこらえている。
「すまない。遅れたね」
また別の男の声がした。しわがれた老人のものだ。装鞍所の入り口には若い男たちを従えた老人がいた。今まで何度か見かけたことがある。
競龍運営員会会長のホウゲンだ。後ろの若い男たちは会長の孤児だろう。しかしクウスケの姿がどこにも見えない。
「これは丁度いいところに来ましたなあ、会長殿」
隊長がそう言って薄く笑みを浮かべた。それを見たカイチおじさんは眉をひそめ、俺から離れて隊長の傍に寄っていく。
「これで主要な人物が全員集まったということですな」
隊長は何が面白いのか笑いっぱなしだった。口元を手で隠して笑い続け、ネックレスをボスに見せつける。
「ジェレミー・グラハム。お前は自身の正体を吹聴されたくはないだろう、ん?」
ボスは微かに眉をひそめ、何も言わなかった。隊長はようやく笑い声を抑え、ネックレスを見せびらかすよう両手で広げた。
「拗ねた子供のように強情だな。だが、お前は私の命令には逆らえない。何故なら私が、お前の命よりも重いこの首飾りを持っているからだ」
グラハムファミリーの中から誰かが飛び出した。「行くな!」ノアの声が響く。飛び出した男はその声を無視して手にした剣を振り被った。狙いは諜報部隊の隊長だ。
「感謝するといい。はねっ返りは私が代わりに処理しよう」
悠然と隊長はそう言い、微動だにせず斬られた。
折れた刀身が、弱弱しい放物線を描いて地面に落ちた。男が持っていた剣は根本から消え、その断面は赤く光っている。
困惑したようにそれを見る男の肩を、隊長は労うように叩いた。
「無駄死にが好きだな」
途端、男が炎に包まれた。
絶叫も瞬く間に炎に飲まれ、もがく暇なく地面に倒れた。遅れて人の髪が焼ける悪臭が俺のところに届き、また龍たちが騒がしくなる。
「ジェレミー・グラハム。部下の非礼は特別に許してやろう」
隊長の手も燃えていた。ところが熱がっている様子は微塵もなく、その手を払うような動作で火が消える。それと同時に斬りかかった男の炎も消え、骨さえも分からなくなった黒い物体が露わになった。
「さて、最初の命令だ。ホウゲンを殺せ」
瞬間、会長の孤児たちがリボルバーを構えた。
グラハムファミリーは困惑したように仲間と視線を交わし、ボスに縋るような眼を向ける。
俺は諜報部隊の様子を見ようとして、隊長の背中にリボルバーを向けているカイチおじさんに気付いた。
「動くな、ヒヨシ・ツキオミ。動けば撃ち殺す」




