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第35話

 レース当日になった。


 ようやくこの時が来た。ケアフリーボーイは急な出翔になったけど、アンガスの爺さんが八割ぐらいの力を出せるまで状態を整えた。

 元々何も分かっていなかった俺でも万全な状態なら楽に勝てるぐらい地力のある龍だ。むしろこれで丁度いいのかもしれない。


 対してユノの龍も地力はあった。

 能力の割に今まで勝ち切れていないのは安定性の無さが理由だろう。勝つときは圧勝、負ける時は呆気なくといういかにも乗り難しいタイプだ。


 そんな龍にユノが乗ろうものなら抜けた一番人気になるのは当然だ。ケアフリーボーイの人気も事前予想より随分上がったけど、七番人気と真ん中程度の人気で落ち着いた。


 しかし人気とは裏腹に、龍の力は互角だろう。


 勝負を分けるのは騎手の能力だ。


 条件は整った。墜落の件も気にしなくていい。真っ向からユノに勝負を挑み、今の俺の全てを叩きつける。

 それがもうすぐできるのかと思うと、初めて競龍学校に行ったあの日のような気分になってくる。


 わくわくが止まらなかった。正直、勝ち負けすらもどうでも良かった。


 本来なら俺は、もう競龍に関わってはいけない人間だ。

 サミュエル厩舎の人間を八百長に引き込んで家族もろとも死に追いやり、俺自身も八百長に手を染めた。競龍そのものに砂を掛けた。


 そんな俺が、リントウ帝国でデビューしたばかりだというのにスタージョッキーとして称えらている同期だったユノと高いレベルで勝負できる。


 いまさら競龍の世界に復帰できるなんて虫のいいことは考えてない。ただ一度だけ、ユノと真剣勝負ができればいい。そして、その機会が与えられた。


 興奮を抑えきれなかった。恐怖にも似た感覚が足元を襲い、立っているのか浮いているのか分からなくなってくる。


 背中を、思いっきり叩かれた。


「予想勝利タイムはいくつだ?」


 アンガスの爺さんが気合いを入れてきた。いつの間にか装鞍が終わり、ケアフリーボーイは俺の騎乗をいつものようにのんびり待っている。


「二分二十五秒四」


 俺が即答すると、爺さんはにやりと笑みを浮かべた。


「上出来だ」


「どこがだよ。今言ったのは普通ならって話だ。そんな甘い相手じゃない」


 予想勝利タイムが重要なのは、ケアフリーボーイの戦術が他の龍を完全に無視して淡々とペースを上げていくスタイルだからだ。

 最初に勝利タイムを予想することで逆算して道中のペースを割り出し、それを忠実に守ってゴールする。だから体内時計が何よりも大切だった。


 そして、二分二十五秒四というタイムは風や龍の能力を加味して出したものだ。ただ、ユノはそれを超えてきそうな気がする。常識で導き出したタイムである二分二十五秒四では、多分勝てない。


「二分二十五秒三だ」


 爺さんは呆気に取られていたけど、俺がそう言うと肩を竦めて足場となるよう腕を差し出した。


「マシになってきたじゃねえか」


 俺は爺さんの腕に足を乗せてケアフリーボーイに跨り、そのままコースに出ていった。


 夏らしく陽射しは強く、空はどこまでも突き抜けて高く、しかし高地が影響して暑さはさほどでもない。まさしく競龍日和だ。


 風もほとんど吹いていなかった。風が及ぼすタイムへの影響はなさそうだ。コース形状も相まって、どのポジション、どの枠順であろうが有利不利は発生しない。

 勝とうが負けようが言い訳のしようがない最高の条件だ。


 俺はケアフリーボーイを飛ばせてウォームアップをさせた。状態はまだ上があっても体調は万全だ。


「今日はよろしくな」


 俺はケアフリーボーイの首筋を撫でてからスタート地点に降下した。


 ユノが乗る龍も状態は良さそうだ。見るからに神経質そうに周囲を気にしているけど、その気難しい龍をユノがどう乗るこなすのか。そんなところも楽しみだ。


 時間になり、俺はスターティングヒルに入った。外よりの枠だけどスタートが遅いケアフリーボーイに枠順は関係ない。ユノは最下段最内枠で苦しそうだけど乗りこなしてくるだろう。


 正面内側に立つ塔に旗が上がった。集中してスタートの合図を待つ。


 旗が下りる。ケアフリーボーイの身が沈んだ。地面を蹴って崖を飛び下り、翼開長十メートルを超える巨大な翼が空を掴む。


 スタートの切り方は最高だった。

 だけど当然、スピードのノリはいまいちだった。予定通りにどんどん放されていき、あっという間に最後方に置き去りにされる。でも、それでいい。


 最初の直線四百メートルは一三秒九だった。ここから少しずつペースを上げていく。


 しかし単純な数字や体感に惑わされてはいけない。

 最初の直線は下りの勢いのままコーナーに入る分、同じ力で飛んでもタイムは速くなる。逆にコーナーを回った後の直線は上りだ。必然的に同じ力で飛んでもタイムは遅くなる。


 大雑把なペースはレース前にシミュレートできている。それを実際のレースで調整し、新しいペースを考えながら無茶をさせないようケアフリーボーイを制御する。


 ここまでは順調だ。

 ケアフリーボーイも俺の指示に従い、離された龍群との差を人間の俺ですらじれったくなるほどゆっくり詰めているのに力む様子が微塵もない。


 俺は前を行く集団を見やった。先頭最上層にいる数頭がいつまでも争っているけど、全体としては平均ペースといったところだろう。


 ユノはどこだ。


 いくら探してもユノが乗る龍の姿がない。気難しい分、気分よく飛ばせるために思い切って最上層か大胆に雁行の最後尾か。

 どちらにしろ他の龍を避けて飛ぶと思っていたのにその姿が無い。


 まさか、龍群の中にいるのか。


 分からない。でも見えないというのはそういうことだ。ユノがミスをしたのか。いや、そんなはずはない。ユノには何か考えがあってその作戦を取ったに決まっている。でもその作戦が何か俺程度には見当もつかない。


 改めて実感させられる。ユノは俺なんかより遥かに格上だ。


 勝ちてえな。


 強烈な向かい風のせいで夏とは思えないほど涼しいのに、全身がじわっと熱くなってきた。ユノのような天才相手と戦える。それだけで嬉しくなってくる。


 直線半ばで上り終え、下りに入って加速する。そこに至ってようやく最下層の雁行最後尾に取り付いた。

 少しだけケアフリーボーイが行きたがる。手綱を引いて抑える。それだけでケアフリーボーイは素直に従った。


 良い龍だ。最後の鬼門は、やはりケアフリーボーイのコーナーワークの悪さか。


 不器用な上に躰も大きく、上手く旋回できない。無理をさせれば余計な力を消耗してゴール前で力尽き、かといって悠長にしていれば後ろ過ぎて物理的に届きようがない。


 解決策は、あった。


 コーナーに差し掛かる。俺は雁行から離れた外側を回り、一気に捲っていった。

 といっても捲ったように見えるだけだ。実際には今まで通り少しずつペースを上げているに過ぎない。抜かされた龍に乗る騎手たちが早くも鞭を振るうけど、俺は手綱を持ったままコーナーを上がっていった。


 決して無理はさせていない。外を回した分だけ余計な距離を飛んでいるけど、その分コーナーの角度が緩くなって旋回が楽になっている。


 ユノの姿が、視界の端に映った。


 最内最下層、最も距離ロスのない位置を飛んでいる。内と下以外を囲まれた窮屈そうなポジションだ。あれで勝負になるのか、それとも沈むのか。

 しかし、俺も悠長にほかの龍を気にしていられる時間は終わった。


 最終コーナーの終わりが見えた。さらにペースを上げる。


 ケアフリーボーイが楽に旋回できるスピードはとっくに超えていた。最初のコーナーとは違い、このままだと最後のコーナーは回り切れない。無茶を承知で維持するか、減速して旋回に注力するか、そのどちらかだ。


 そう、俺は思っていた。


 アンガスの爺さんは言った。


『俺のとっておきを教えてやる。曲がるのが下手なら曲がらなきゃいいんだよ。そのまままっすぐ突っ込め。直線だってコーナーの延長だ』


 距離ロスになる。しかし、速度は死なない。


 あれほどコーナーが下手だったケアフリーボーイが、速度を維持したまま最終コーナーを通過する。


『俺はそれを、ドリフトって呼んでた』


 後はもう、長い長い直線だけだ。余力は十二分に残っている。ポジションは龍群中段大外。先頭を争っていた龍たちは失速して龍群に飲まれていく。


 新しく先頭に立ったのは、ユノだ。


 抜群の手応えだった。最短距離でコーナーを器用に旋回し、後続を突き離していく。

 それなのに、まだ鞭を振るっていない。手綱も持ったまま進出を促してすらいない。龍自身も翼のピッチは一定のまま、涼しそうな調子で飛んでいる。


 まさに神の加護。いや、もはや神業だ。


 でも俺だって、シミュレート通りにレースを運んできた。


 後続を持ったまま突き放すユノを、俺だけが追いかけ、その着差を徐々に徐々に詰めていく。ケアフリーボーイに瞬発力はない。しかしその分、持続力に長けている。


 俺は鞭を振るった。


 ユノの背中が、少しずつ少しずつ大きくなる。それから、逆に見えなくなった。


 上りが終わる。後は下り。ゴール板が見えた。直下にいるユノの姿は見えない。


 でももういい。ケアフリーボーイの手応えは終盤とは思えないほど力強い。先に抜け出したユノが、俺を再び差し返すなんて不可能だ。


 勝った。


 ユノに勝った。喜びがケツから突き上がってくるのと同時に、俺の耳は聞き馴染んだ音を捉えた。


 鞭を叩く音だ。それが、下から聞こえてくる。


 ユノの姿が見えた。


 意味が分からなかった。

 また、俺とユノの距離が離れていく。後ろからきた余力十分の龍が、先に抜け出してきた龍に再び離される。

 そんなことがあるはずが無い。確かにユノの龍は地力があるけど、ケアフリーボーイだって弱点はあれど同じぐらい力がある。


 俺は笑っていた。


 そうでないとな。疑問は集中力に掻き消され、少しでも風の抵抗を減らそうとケアフリーボーイにへばりつき、鞭で肩口を叩いて頑張らせる。


 残り四百メートルを切った。


 着差は二龍身。絶望的な差。しかし、距離間が変わらなくなった。


 いける。ケアフリーボーイの持続力は半端ない。ユノの龍は瞬発力に秀でる分、持続力に劣っている。だからこそユノは鞭を振るのを限界まで我慢した。


 着差は、再び詰まってきた。


 もどかしいほどに、息苦しいほどに、その差は僅かに縮まっていく。ユノの龍は限界だ。あとはどれだけ失速しないかの段階に入っている。


 そして、ケアフリーボーイも限界だった。失速しているのが向かい風の強さで手に取るように分かる。体内時計でも百メートル手前の方が速かったと示している。


 俺にできるのは鞭を振るうことだけだ。龍鱗のような分厚い羽毛の前では合図以上の価値はない。それでもケアフリーボーイは俺の指示に応えて失速を堪えるように、懸命に翼を動かし飛んでいた。


「頑張ったな」


 ゴールした瞬間に出たのは、感情よりもその言葉だった。


 タイムは二分二十五秒三。時間差なしのアタマ差の勝利。全てがシミュレート通りに完璧に進み、ケアフリーボーイは限界以上に飛んでくれた。


「ありがとう」


 夏の空は高い。しかし今は、そこに手が届きそうな気がした。

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