第30話
振り返ると厩舎の入り口にノアが立っていた。なぜか躰全体が土埃でうっすら汚れている。
「レストルームに来い。アンガス、レースは三日後だ」
「聞いてねえぞ」
「いつも通り調教替わりでいい。とにかくレースには出す」
アンガスは舌打ちしてあからさまに不平を表情に表したけど、ノアは気にした風もなく顎をしゃくって休憩室に俺を誘った。
「久しぶりの八百長だ」
忘れていたわけじゃない。それにしても予想よりかなり早かった。
ケアフリーボーイの状態は上がってはいるけど万全にはまだ遠い。だから八百長をするにしてもしばらく先だろうと思っていた。
「……勝てませんよ」
「勝たなくていい」
ノアの言っていることの意味が分からなかった。
ケアフリーボーイが調教替わりにレースに出ているのは競龍ファンなら周知の事実だ。競龍運営員会が発表している調教データを見れば、そのレースが本番なのか調教なのかはすぐ分かる。
今のケアフリーボーイが人気するわけもなく、状態的に勝てるわけもない。それでは八百長自体が成立しないだろう。
「運営委員会がリントウから連れてきたジョッキーがいるだろ?」
「ユノですね」
「あいつは良い騎手だ。さすがリントウで若手ナンバーワンのスタージョッキーなんて言われてるだけはあるよ。お前の同期なんだってな。この短い期間でこの街のドラゴンレースの顔だ。あいつが乗るだけでどんなドラゴンでも人気する」
何が言いたい。無意識に躰に力が入る。
「このレースにはその女も出る。でな、エイシロウ。そいつにぶつかれ。墜落させるんだ」
理解は一瞬だった。しかし飲み込もうとしても喉を通らない。
龍の水平飛行速度は百二十キロを超える。下りになればもっと速い。しかも空中を飛んでいる。墜落すれば待っているのは死。大怪我で済むことすら滅多にない。
つまりノアは、ユノを殺せと言っている。
「心配するなって。ぶつかるのが分かってればどうにでも対処できるだろ。結構なダメージはあるだろうけど、代わりに借金はチャラにしてやるからさ」
そんな心配はしていなかった。俺はただ、一度でいいからユノと真剣勝負がしたかった。
それなのに、ユノを墜落させる。
逆らえば殺されるのは俺だ。残った借金はシイナに移り、シイナが俺に代わってグラハムファミリーの奴隷にされる。
「……なんで落とすんですか? 八百長には関係ないですよね?」
ノアの表情がぴくりと反応する。余計な質問なのは分かっている。それでも簡単にうなずけるわけがなかった。
「まあ、お前も命がけだ。今までの功績もあるし教えてやるよ」
ノアは息を吐き、机に肘を乗せた。
「この街のドラゴンレーシングは八百長でボロボロだ。信頼にしてもそう、関係者も制裁でかなり死んだ。
それをなんとか繋ぎ止めてるのが、ユノって女だ。委員会もその為に呼んだんだろうな。スタージョッキーのカリスマ性が全ての不満を押さえてる。
逆に言えばユノが死んだ時、この街のドラゴンレーシングは崩壊する」
「同期の俺ならユノも警戒しないってことですか?」
「そういうことだ。ド派手に殺すならレース中が一番だろ?」
思わず天を仰いでも、空は見えず無機質な天井があるだけだ。狭い部屋にデカいノアと二人きり、自覚すると水に沈められたように息苦しくなった。
「もし仮に、お前が死んだら見舞金として追加で一千万ルーブル出そう。受取人は妹でいいよな?」
俺はノアを見やった。含みのある微笑を浮かべている。
妹を盾にした脅しか。
そんなことしなくても、俺にほかの道を選べる力なんてない。
「……大丈夫ですよ。ユノはちゃんとレース中に殺します」
妹のシイナの目から見ても、最近のエイシロウは生き生きとしていた。
三千万ルーブルという借金が返済できたはずがない。あれはただ単に、競龍に熱中しているだけだ。借金のことなど完全に頭から消えている顔だ。
昔からそういう人だった。
リントウ帝国の王都から遠く離れたこの街の人間が、競龍学校に入学するのは並大抵の努力では叶わない。王都からの情報はまともに届かず、真偽さえもあやふやだ。
カイチの助けがあったとはいえ、この街の人間が入学できたのは前代未聞の快挙だった。
ずっと隣にいたシイナだからこそ、競龍に対するエイシロウの熱意は誰よりも知っている。
競龍に向けられたあの輝く瞳を、二度と死人のような瞳にはさせない。両親が死んだ今、これ以上家族から死者は出さない。シイナはそれを固く誓い、必死に思考を働かせた。
エイシロウを救えるのはアイテムだけだ。
だが、一向に見つかる気配はない。どれだけシイナが両親との思い出を漁っても、アイテムの隠し場所の手がかり一つ浮かばない。
そもそもアイテムはグラハムファミリーと諜報部隊が探し、ブレンドン質店の高価買取によって街中で盗みが横行しているにも拘わらず、未だに見つかっていない代物だ。
こうなるとアイテムの存在すら疑わしくなってくる。
街中が虚像に踊らされているのではないか、そんな想像すらも頭を過る。それでもエイシロウを救うには、その虚像に頼るしかない。
シイナは自室の窓から夜の街に眼を向けて、一旦思考を整理する。
この街に侵攻してきたグラハムファミリーの隠れ家に潜入した両親は、アイテムを盗み出したが逃げ切れず、死体の偽装をしてアイテムをどこかに隠して追手に捕まった。
状況からしてアイテムを隠したのはこの街だ。
それ以上の手掛かりは一切ない。グラハムファミリーにアイテムを取り返されるわけにはいかず、かといって誰も見つけられない場所だと盗んできた意味がない。誰も気づいていないだけで、必ずどこかに手がかりがあるはずだ。
当時の両親を想像する。
判明している行動の合間にアイテムを隠したはずだ。一体どこで隠した。
マフィアの拠点から逃げ、死体を偽装し、マフィアに捕まった。そしてそこは跋扈する窃盗犯の手も届かない特殊な場所だ。
「……そうか!」




