第26話
「さっきも言ったがテクニックは簡単にどうにかなるもんじゃねえ。それよりペース判断を身に付けろ。おあつらえ向きにここの競龍場には時計がある。三分でいい。どんな状況でもコンマ一秒もずれずに計れるようになれ」
俺は返事も忘れて走り出した。
これだけでユノに勝てるとは思っていない。それどころかユノは多分、アンガスの理論を頭か感覚で理解している。競龍学校時代の成績が振るわなかったのも、結果ド返しでそれらを試していたからだろう。
しかしこれで、俺はユノへの挑戦権を得た。
夏の空は良い。
分厚い雲は高く漂い、だからこそ天が高く感じる。世界が広がったような気がしてくる。
普通の人間は世界が広がってもなんという変化はない。相対的に自分が小さく感じるだけだ。
でも、俺たち競龍騎手は違う。その広がった世界に手を伸ばせる。その広がった空を我が物顔で自由に飛べる。
快晴の下で飛ぶあの気持ちよさは全能感にも似ている。普通に生きていれば感じることのできない感覚を、競龍騎手なら当たり前のように全身で感じ取れる。
夏は良い。時たま雨は降っても快晴ばかりの季節だ。今日の空も良い色をしている。
ノアはジェレミーが泊まっていた高級宿の階段に座り、じっと考え込んでいた。
諜報部隊に盗み出されたアイテムの行方はようとして知れない。
逃走していた時間からしてこの街にあるのは間違いなく、幸いにも諜報部隊の手に渡っていない。
その根拠の一つ目は諜報部隊が仕掛けた罠だ。グラハムファミリー全体がまんまと嵌り、恐らくアイテムが装飾品の類だと悟られてしまった。
そして、今回のループホールとミヨシ会の戦争が二つ目の根拠だ。
ここにもアイテムの影はあった。
ミヨシ会の金庫番が持っていた装飾品の一つがアイテムらしきものだった。しかしまた諜報部隊の罠の可能性があった為、直接の介入は避けた。
誤算もあった。ミヨシ会の金庫番をループホールが攫ったのだろうと介入したが、攫ったのはループホールではなかった。それもあってループホールから手を引くことも考えていた。
ところが諜報部隊の介入が積極的だった。ループホールの金庫番が愛人と住んでいた家も調べていたという。それならば、この代理戦争は諜報部隊の罠ではないのかもしれない。
ノアの担当は競龍の八百長だ。ノアまで代理戦争に参加すれば八百長は止まり、この街に侵攻した大目的の達成が遠のいてしてまう。
しかしアイテムはファミリーにとって重要なものだ。それも、ノアが知らされてない何かが隠されているような雰囲気もある。
八百長かアイテムか。
決断に迷っていた。忠実にボスの命令に従うなら八百長だ。しかしアイテムを諜報部隊に奪われるのだけは絶対に避けなければならない。
どちらが正しい。どちらがよりボスに貢献できる。
殺された幹部の報復の件もある。犯人は諜報部隊なのは分かり切っている。それならばアイテムを奪取する過程で報復は叶う。
選ぶべきはアイテムなのか。しかしボスに任された仕事を放り投げていいのか。
答えが出ないまま何時間も経っていた。ジェレミーがこの街を離れてからファミリー全体がずっとこの調子だ。選ぶ手立ても全て消極的で、グラハムファミリーという組織がいかにジェレミーに頼っていたのかを痛感させられる。
「何かあったか?」
その声は、ノアには幻聴のように感じられた。しかし高級宿という名の邸宅の入り口に立っている男は、間違いなくボスのジェレミーだった。
左目に眼帯を付け、ベストの上にジャケットを着てつばの広い帽子を被っている姿は、出かけた時と何ら変わりない。味方のいない敵ばかりのランズダウン帝国から単身で帰ってきたのに、ちょっとした用を済ませてきたような気軽さがある。
「我々が介入している代理戦争の件で少し」
「報告は聞いている」
ジェレミーが帽子を脱ぐ。ノアはそれを急いで受け取り、階段を上って自室に戻ろうとするジェレミーを追いかけた。
「明日から全面戦争だ。諜報部隊ごとミヨシ会を叩く」
ノアが期待していたことを、ジェレミーはさらりと口にした。故にノアはジェレミーに心酔する。この人に着いていけば何も心配はない。どんな時でもこの人が前を歩いてくれる。
「先陣はどうしますか?」
「私だ。ノア、お前が私の背中を守れ」
その言葉を待っていた。
この人に背中を任せられる。これ以上の名誉は、たった一代で成り上がったグラハムファミリーには存在しない。どんな黄金や宝石よりも価値あるものだ。
ジェレミーから預かった帽子を受け取ろうと使用人が近づいてくる。当然のように伸びてきた手が鬱陶しかった。
自分がこれを預かるまでどれだけ危ない橋を渡ってきたと思っている。それなのに、雇われた使用人風情が何の苦労もなく平然とした顔で帽子を触ろうとしている。
怒りが沸いてきた。
しかしことさら笑みを浮かべて怒りを溜める。この怒りは諜報部隊とミヨシ会にぶつければいい。久しぶりの全力だ。ボスと共に戦える日が目前に迫っているかと思うと、ノアの気持ちは昂ぶってしょうがなかった。
この街で最も高い頂には東屋があった。競龍場のコースが一望できる特等席には一人の老人が座り、眼下のレースを眺めながら湯呑で茶を啜っている。
その前には大勢の人間が列を成していた。一様に固唾を飲み、呼吸さえも抑えるように静まり返って直立不動を保っている。
しかしクウスケだけは列から離れ、道から外れた岩に胡坐をかいてぼんやりレースを眺めていた。
やがてレースが終わり、老人が列の人間に対応する。そうして最後の人間がクウスケの背後を通って帰っていくと、老人の方からクウスケに声が掛かった。
「早くこっちに来なさい」
クウスケは岩から立ち上がり、老人が一人待つ東屋にのんびり歩み寄る。
「いいのか親父。マフィアと諜報部隊が自分の街みたいに馬鹿騒ぎしてるけど」
老人──競龍運営員会会長のホウゲンは、自分でやかんから茶を注ぎ足し、冷ますために何度も息を吹きかける。
その小柄な躰は縮んだ牛皮を纏ったように厚ぼったく皺くちゃで、露出した肌には無数のシミと細かな傷跡が刻み込まれていた。
「ぼくにとっての街は競龍場までだよ」
「その割にグラハムファミリーが仕掛けてくる八百長には寛容だな。縄張りを荒らす外敵なんて一網打尽にすればいいじゃねえか」
ホウゲンは息を吹きかけてから茶を啜り、ほっと息を洩らした。
「せっかく諜報部隊がいるんだ。彼らに潰し合って貰うのが得策だ。それよりわざわざこんな話をするんだ。ぼくの為に調べてくれたのかな?」
クウスケは小さく笑ってホウゲンの向かいに座る。
「調べなくていいって言ったのは親父だろうが。言いつけ守って八百長だけ調べてるよ。俺、忠実なんで。でも本当にいいのか? マフィアどもが盗まれたっていう例の物を探さなくて」
「過ぎたるはなお及ばざるがごとしだ。グラハムファミリーのボス──ジェレミーは下積みらしい下積みもなく、ランズダウン帝国を代表するマフィアへと成り上がった。普通に考えればあり得ない。だからある噂があってね」
「噂?」
「与太話だ。そして、例の物はその与太話と関係があるかもしれない。もしそれが真実なら、例の物は手に入れない方がいい」
クウスケは首を捻り、頬杖をついてホウゲンを上目遣いで見やった。
「噂なら俺も聞いたことがある。遊びにくる貴族や大商人たちが減っているのはまあ、街の状況を考えれば当然なんだが、ランズダウン方面に限ってはもっと前から減っていた。そういう噂を小耳に挟んで」
ホウゲンは表情を変えず、残った茶を飲み干した。
「担当者が違う。クウスケ、君が気にすることじゃない。それよりいい加減本題に入ったらどうだ。まさか世間話をしにきたんじゃないだろう」
勢いよく、クウスケは立ち上がった。
「親父が好きなお茶っ葉が手に入ったんだよ!」
「おお、あれが手に入ったのか。よくやったクウスケ」
ホウゲンは相貌を崩してくしゃりと笑い、クウスケも子供のようにあどけなくはにかんだ。
「親父の家に届けてる。じゃ、俺は一仕事してたんでしばらくゆっくりさせてもらいますよ」
クウスケは山を下りた。尾根の向こうに東屋が隠れた辺りで整髪料の付いた前髪を撫でつけた。
「駄目で元々、やるしかねえよな」




