第五章 再び立つ者
東京・上野裏町
春の風が、まだ煤の匂いを含んでいた。
焼け跡の路地を抜けると、仮設の小屋がいくつも立ち並んでいる。
子供の笑い声、金槌の音、どこかで煮炊きする味噌の匂い。
尾田治郎は、その一角に小さな看板を掲げた。
「尾田工作所」
といっても、工具と古ぼけた旋盤が一台あるだけの作業場だ。
しかし、彼の目にはそれが“城”の礎に見えていた。
「よし……これでいい」
そう呟き、治郎は額の汗をぬぐった。
指先には、かつて刀を握ったような感覚が蘇る。
戦の道具が刀から鉄へ変わっただけ――そう思えば、何も恐れることはなかった。
尾田工作所にて
木屑と油の匂いの中、若者たちの笑い声が響いていた。
元学徒兵、復員兵、浮浪児。
行き場を失った者たちが、治郎の元に集まっていた。
「親方、これ削りすぎました!」
「なら削り直せ。失敗したら学べ。失敗を怖がるな」
治郎は、厳しくもどこか温かい声で言った。
それは戦場で部下にかけた言葉と同じ響きだった。
昼食時、若い従業員の一人が訊ねた。
「親方は、昔どこで戦ってたんです?」
治郎は一瞬黙り、湯呑みを置いた。
「……いろんな場所でな。負け戦ばかりだ」
「負け戦、ですか?」
「負けるたびに、生き方を学んだ。勝つより難しいのは、生き続けることだ」
若者たちは、その言葉の意味がすぐには分からなかった。
だが、なぜか胸に響いた。
この男には、ただ者ではない風がある――そう感じていた。
上野・尾田工作所
街にはようやく電気が戻り、闇市が姿を消しつつあった。
工場の灯が夜通し光り、汽車が動き出す。
日本が、再び息を吹き返し始めていた。
その夜、治郎は古い木箱を開けた。
硫黄島から持ち帰った手帳が、そこにある。
黄ばんだ頁をめくると、砂混じりの文字が現れた。
「命を拾われしこの身、今度こそ民のために使うべし」
その一文を見つめながら、治郎は静かに笑った。
「……あのときの俺は、よくもまあ、こんなことを書いたものだ」
しかし、胸の奥では別の声が響いた。
――“小田氏治”という名のどこか遠い記憶が、呼び覚まされるように。
幾度敗れようとも立ち上がる、それが己の性だ。
上野駅前復興式典
桜の蕾が膨らみ始めていた。
駅前には新しいビルが建ち、復興記念の垂れ幕が翻っている。
その片隅に、尾田工作所の名前も小さく刻まれていた。
町工場として、橋の鉄骨修理を請け負ったのだ。
「親方、やりましたね!」
従業員たちが誇らしげに笑う。
治郎は、ただ静かに頷いた。
「城を守るのも、町を支えるのも同じことだ。
人が力を合わせれば、どんな焼け跡も甦る」
その言葉に、周囲の者たちは誰も異を唱えなかった。
なぜなら、その背中が“戦国の将”のように見えたからだ。
夜、工場の屋根にて
蝉の声が止まない夜。
治郎は屋根に腰を下ろし、遠くの灯を眺めていた。
東京の夜は、もう暗くない。
あの焦土は、いつしか光の街になっていた。
煙草をくわえ、火をつける。
風が吹き、炎が一瞬ゆらめいた。
「……これが、新しい世の戦か」
武器も、敵も、戦場も変わった。
だが、人が生き抜くために戦う本質は変わらない。
治郎は、胸の中で呟いた。
「何度敗れても、人は立ち上がる。――俺も、そうだ。」




