第四章 終戦と静寂
静寂が耳を痛めた。
あの硫黄の地獄で砲弾が降り注いでいた日々から、半年。
尾田治郎は、いつのまにかこの地下壕の簡素な病室にいた。
天井からは湿った水滴が落ち、壁には崩れた煉瓦が積まれている。
片足には包帯、左の脇腹には深い傷。
生きていること自体が奇跡のようだった。
軍医によれば、彼は硫黄島から奇跡的に救出された数名のうちの一人だったという。
意識を取り戻したのは、数か月後の七月。
だが、その間の記憶は曖昧だった。
断片的な光景だけが夢のように残っている――
炎の中、誰かが叫ぶ声。
「氏治様! お逃げを!」
――その声だけが、耳の奥にこびりついて離れなかった。
院内の拡声器から、雑音の混じった声が流れた。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び――」
治郎は目を開けた。
あの声の調子に、全てを悟った。
戦が、終わった。
隣の病床の兵が泣き崩れ、誰かが無言で帽子を握りしめた。
外では誰もが茫然としている。
けれど治郎は、ただ静かに天井を見つめていた。
「戦が終わる」とは、どういうことか。
戦国の世を知る己には、まだ理解できない響きだった。
「国が敗れる」とは、「人が滅ぶ」ことではない――
そう、彼の胸の奥に何かが告げていた。
退院の許可が出た。
包帯を巻いたまま、治郎は焦げた東京の街に立った。
瓦礫の山、焼けた鉄骨、無数の焦げ跡。
かつて「城」と呼ばれた建物も、今は黒い骨組みだけだ。
風が吹くたび、灰が舞い上がる。
彼は、ゆっくりと歩いた。
地図もない。行くあてもない。
だが、不思議と迷う気はしなかった。
胸の奥に、ひとつの感覚があった――
「また、ここから始めればよい」
戦国の敗将として幾度も落城を経験したような、そんな déjà vu。
死なぬ限り、敗北ではない。
その信念だけが、彼の足を動かした。
焦げた電柱に新しい看板がぶら下がっていた。
〈闇市〉。
人々が壊れた屋根の下に集まり、食糧や衣服を物々交換している。
子供が笑い、女が叱り、誰かが鍋を叩いて音を鳴らす。
――そこには、戦場にはなかった“生”の匂いがあった。
治郎は、懐の中から小さな手帳を取り出した。
硫黄島で拾った自分のものだ。
最後の頁には、こう書かれていた。
「戦に敗れても、生を捨てるな。生きてまた戦うこと、それが本懐。」
自分が書いたはずの文字。
けれど筆跡が、まるで誰かのもののように見えた。
「……誰だ、お前は」
呟いたその瞬間、通りを駆ける少年の声がした。
「兄ちゃん! 飯の炊き出しだって!」
その声に、治郎は微かに笑った。
戦は終わった――ならば、これからは生の戦いを始めよう。
そう思った。
春風が、まだ冷たい。
尾田治郎は、木片と鉄屑を拾い集め、小さな作業場を作っていた。
焼け跡の町で、彼は工具を磨き、古い機械を修理する。
それはまるで、かつての「城普請」のようだった。
「生きるために築く」――それが彼の信条となった。
夜、焚き火を見つめながら、ふと筆を取った。
硫黄島で書きかけのままだった手帳に、ひとこと書き加える。
「命を拾われしこの身、今度こそ民のために使うべし。」
――それは、知らず知らずのうちに
戦国の敗将・小田氏治が何度も夢見た「理想の国」の始まりであった。




