第5話「自信・ひとすじ 500円」
夕暮れの路地に、雨が上がったばかりの匂いが残っていた。
屋台を組み立てながら、琴音は水滴を拭い、今日の目玉商品を棚に置く。
「自信・ひとすじ 500円」
瓶の中では、細い銀糸のような波形がゆらゆらと漂っている。
それは胸の奥で迷いを押し返す、小さな背筋の伸びる感覚。
「……今日のは、なんか派手だな」
声に振り向くと、佐伯陽斗が制服のまま立っていた。
けれど、いつもの軽口がない。目の下のくま、少し乱れた呼吸。
「陽斗……何かあったんですか?」
「……明日、部活の県大会なんだ。俺、スタメン外されそうでさ」
苦笑しながらも、拳を握っている。
「監督に“お前には決める気迫が足りん”って……。わかってんだよ、俺、昔から本番弱くて」
琴音は一瞬だけ迷い、棚から銀糸の瓶を取り出す。
「これ、“自信・ひとすじ”です。一歩踏み出す時に、背中を押します」
「魔法じゃないんだろ?」
「ええ。でも、きっと必要な瞬間が来ます」
陽斗は瓶を見つめ、懐から500円玉を取り出した。
コインの冷たさが、そのまま彼の迷いの温度みたいに感じられた。
陽斗が去ってから数分、琴音は胸のざわつきを拭えずにいた。
その時、橘天音が駆け込んでくる。
「琴音、聞いた? この近くで“試合に負けたい人向け”とか、“失敗の記憶”みたいなのを安く売ってる連中が出てるらしい。しかも……」
天音の声がほんの少し震える。
「……その瓶、見たことあるって人が言ってた。例の黒いフードのやつ」
琴音は息を詰めた。
勝つための“自信”と、負けるための“絶望”。
二つは正反対のようでいて、試合という一点で重なる。
閉店間際、通りの反対側にあの影が立った。
薄暗がりに濡れたフードの縁、見知った冷たい視線。
「今日は……いい獲物を見つけましたよ」
低い声が、湿った風のように届く。
「陽斗に何をしたんですか」
琴音は一歩前に出た。
影は口元だけを僅かに歪める。
「少し、“負ける覚悟”を渡しただけです。楽になりますよ、勝たなくていい分ね。……あなたの商品と、何が違うんですか?」
「私は……前に進むきっかけしか渡さない。後ろに引っ張るものは——」
「美しい理屈だ。だが、人は弱さも求める。そこに価値を見出す者もいる」
影は背を向け、闇に溶けた。残されたのは、冷たい雨粒だけ。
その夜、琴音は眠れなかった。
机の上には、自分用に作った覚えのない“自信”の瓶――
銘札には、陽斗の名前が手書きで記されている。
彼に渡し忘れた“本当の一筋の糸”を、どうにかして明日渡さなければ。
黒い影が投げ込んだものよりも、少しでも強く、温かく。
明日、コートの上で陽斗が見上げる瞬間があるなら――
その視線が向かうのは、きっとボールの向こうにある未来だと思う。
お読みいただきありがとうございました。