第3話「安眠・さざなみ 400円」
放課後の風は、冬の匂いをほんの少し混ぜ始めていた。
白い息が屋台の上をかすめ、瓶たちの中の粒が小さく震える。
「安眠・さざなみ 400円」
新しく作った札をかけると、鈍色の雲の隙間から夕陽がのぞいた。
今日は、午前中からずっと頭の中で「眠り」の波形を調整していた。
それは海辺の音や毛布の手ざわりをほんの少しだけ瓶に詰めたような、柔らかな感情だ。
「……あの、これ試してみたいんですけど」
現れたのは、会社帰りのOL風の女性だった。
目の下には薄い隈。スーツの袖口は少しほつれている。
「最近、ぜんぜん眠れなくて……。仕事のこと考えると、息苦しくなるんです」
琴音は彼女の声色に、疲れの奥でかすれる諦めを感じ取った。
それでも立ち止まってくれたことが、なによりの救いかもしれない。
「使い方は――寝る直前、照明を落として、この瓶をゆっくり開けてください。
耳に波の音が届いたら、そこからは何も考えずにいて」
「……波が、聞こえるんですか?」
「あなたに必要な音だけ、届きます」
瓶を差し出すと、春先の海のような、少し甘く塩の香りがした。
女性は鼻先で息を吸い込み、わずかに目を和らげた。
「これ……効きそう。買わせてください」
400円玉が小さく触れ合い、琴音の手にぬくもりを残していった。
瓶を抱えた彼女は、少しだけ背筋を伸ばして去っていった。
「安眠、か。俺には一生縁がなさそう」
いつの間にか屋台脇に立っていた佐伯陽斗が、瓶を覗き込みながら呟く。
「眠れないのって、辛いですよ。
……でも、眠らなくても平気な心って、案外もろいんです」
陽斗は笑い、真面目な顔に戻った。
「琴音はさ、自分の分は作らないの? 自分の感情用のやつ」
「……作れません。自分の波形は、客観的に測れないから」
それは事実であり、同時に少しの恐れでもあった。
屋台の向こうから、またあの黒いフードが現れた。
足取りは静かで、瓶の影を踏んでいく。
「“絶望”は……今日もないのですね」
「ええ。お売りする予定は、ありません」
黒い影は瓶を一つ手に取った。「安眠」のラベルを見つめる。
「眠りは甘い。だが、夢の中に潜ませるもの次第では、簡単に奈落へ落とせる」
琴音の胸に冷たい氷片が落ちたようだった。
「……あなたは、何のために集めているんですか」
「必要だからです。それだけ」
それだけ告げると、影は瓶を置き、風に紛れて去った。
後に残るのは、海の匂いと、答えのない疑念。
閉店の頃、空から細かい粉雪が舞ってきた。
ふと琴音はポケットから小瓶を取り出す。
中では、淡い水色の粒が、波打つように揺れていた。
今夜、遠いビルの窓辺で、誰かのまぶたが静かに重くなるだろう。
その夢の中で、同じ波音を聞く人が、もう一人――いるかもしれない。