表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

第2話「懐かしさ・一滴 300円」

放課後の空は、すっかり秋めいていた。

屋台の上に落ちる陽は、昨日よりも柔らかい。

結城琴音は、瓶を並べる手に微かな震えを感じていた――季節が変わるたび、取り扱う感情の色も少しずつ変わるからだ。


「懐かしさ・一滴 300円」


看板の札を付け替えた瞬間、ビルの陰から一人の男の子が現れた。

小学生くらいだろうか。ランドセルに大きな穴が空いている。


「お姉さん、これ、なんですか?」


琴音はしゃがみ、視線を合わせる。

商品の瓶をひとつ手に取ると、それはほんのり青く光った。


「これは、“懐かしい気持ち”の瓶ですよ。昔好きだったもの、遠い夏休み、誰かと走った校庭――そんな気持ちが少しだけ戻ってくるんです」


男の子は瓶をじっと見つめる。

中でゆらめく波形は、川の水みたいに澄んでいた。


「ぼく、転校するから……みんなと遊べなくなるかもしれない。

 最後に、なんか、思い出を持ってたいんです」


琴音は静かに理解した。

動く季節、動く場所。子どもの心は、ときに大人より傷つきやすい。


「じゃあ、使い方を教えますね」

琴音は、エモグラフを軽く揺らして瓶に青い粒を落とした。


「家に帰ったら、窓を開けて。見慣れた街を眺めながら、この瓶を少しだけ開けてみて。

 たぶん、昔好きだった誰かの笑い声が風にまぎれる瞬間があるはず」


男の子は目を見開き、そっと300円を差し出した。

瓶を受け取る手は、まるで宝物を抱えるみたいに慎重だった。


子どもが去った後、琴音はしばらく空を眺めていた。

校庭の土の匂い。夏の名残。遠い日曜日の温もり。

懐かしさという感情は、人を少しだけ優しく強くすることがある。


「今日は、ちょっとだけセンチな気分だな」


隣で声がして振り向けば、橘天音がスケッチブックを抱えて立っている。

琴音の親友で、屋台商品のパッケージデザインを手がけている少女だ。


「新作の瓶、色変えたいんだけどさ。

 懐かしさって、どんな色が良いかな?」


「……青色がいい気がする。

 でも、ほんの少しだけ黄色を混ぜる。思い出の中の光みたいに」


天音はくすっと笑い、「絵具探してくる」と去っていく。


屋台の列の最後に、また彼が来る――佐伯陽斗だ。


「なあ、琴音。人間って、懐かしさがあると強くなれるのかな」


「……わかりません。けど、誰かの思い出が残る場所には、優しさが熨斗みたいにつくんです」


陽斗は小さく頷く。


「じゃあ、俺が“今のこの瞬間”もちょっとだけ、誰かの思い出になれればいいなって思ってる」


琴音は言葉が詰まり、瓶の中の青い粒を見つめた。


「もし誰かの記憶に残るなら――きっと、その人は少し強くなれる」


夕暮れの屋台を片付ける時、琴音の背中に冷たい気配が差した。

再び、黒いフードの人物が現れる。


「“絶望”は、ありませんでしたか」


「取り扱いできません。――今日もお帰りください」


黒い影は瓶の山に視線を落とす。

「懐かしさ――ふむ、これも時には毒だ」と呟き、静かに去っていく。


夜。琴音は仕舞い残した青い瓶をポケットに忍ばせる。

自分の心にも、失われた何かがあったことを思い出しながら。


明日、転校生の少年の窓辺には、柔らかな追い風が吹くだろう。

それは、彼の思い出をほんの少しだけ優しく塗り替える一滴。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ