第2話「懐かしさ・一滴 300円」
放課後の空は、すっかり秋めいていた。
屋台の上に落ちる陽は、昨日よりも柔らかい。
結城琴音は、瓶を並べる手に微かな震えを感じていた――季節が変わるたび、取り扱う感情の色も少しずつ変わるからだ。
「懐かしさ・一滴 300円」
看板の札を付け替えた瞬間、ビルの陰から一人の男の子が現れた。
小学生くらいだろうか。ランドセルに大きな穴が空いている。
「お姉さん、これ、なんですか?」
琴音はしゃがみ、視線を合わせる。
商品の瓶をひとつ手に取ると、それはほんのり青く光った。
「これは、“懐かしい気持ち”の瓶ですよ。昔好きだったもの、遠い夏休み、誰かと走った校庭――そんな気持ちが少しだけ戻ってくるんです」
男の子は瓶をじっと見つめる。
中でゆらめく波形は、川の水みたいに澄んでいた。
「ぼく、転校するから……みんなと遊べなくなるかもしれない。
最後に、なんか、思い出を持ってたいんです」
琴音は静かに理解した。
動く季節、動く場所。子どもの心は、ときに大人より傷つきやすい。
「じゃあ、使い方を教えますね」
琴音は、エモグラフを軽く揺らして瓶に青い粒を落とした。
「家に帰ったら、窓を開けて。見慣れた街を眺めながら、この瓶を少しだけ開けてみて。
たぶん、昔好きだった誰かの笑い声が風にまぎれる瞬間があるはず」
男の子は目を見開き、そっと300円を差し出した。
瓶を受け取る手は、まるで宝物を抱えるみたいに慎重だった。
子どもが去った後、琴音はしばらく空を眺めていた。
校庭の土の匂い。夏の名残。遠い日曜日の温もり。
懐かしさという感情は、人を少しだけ優しく強くすることがある。
「今日は、ちょっとだけセンチな気分だな」
隣で声がして振り向けば、橘天音がスケッチブックを抱えて立っている。
琴音の親友で、屋台商品のパッケージデザインを手がけている少女だ。
「新作の瓶、色変えたいんだけどさ。
懐かしさって、どんな色が良いかな?」
「……青色がいい気がする。
でも、ほんの少しだけ黄色を混ぜる。思い出の中の光みたいに」
天音はくすっと笑い、「絵具探してくる」と去っていく。
屋台の列の最後に、また彼が来る――佐伯陽斗だ。
「なあ、琴音。人間って、懐かしさがあると強くなれるのかな」
「……わかりません。けど、誰かの思い出が残る場所には、優しさが熨斗みたいにつくんです」
陽斗は小さく頷く。
「じゃあ、俺が“今のこの瞬間”もちょっとだけ、誰かの思い出になれればいいなって思ってる」
琴音は言葉が詰まり、瓶の中の青い粒を見つめた。
「もし誰かの記憶に残るなら――きっと、その人は少し強くなれる」
夕暮れの屋台を片付ける時、琴音の背中に冷たい気配が差した。
再び、黒いフードの人物が現れる。
「“絶望”は、ありませんでしたか」
「取り扱いできません。――今日もお帰りください」
黒い影は瓶の山に視線を落とす。
「懐かしさ――ふむ、これも時には毒だ」と呟き、静かに去っていく。
夜。琴音は仕舞い残した青い瓶をポケットに忍ばせる。
自分の心にも、失われた何かがあったことを思い出しながら。
明日、転校生の少年の窓辺には、柔らかな追い風が吹くだろう。
それは、彼の思い出をほんの少しだけ優しく塗り替える一滴。