2話.不遇な伯爵令嬢
「フランちゃん。今日もお疲れ様。」
夕方。最後のお客さんをお見送りするフランに女将さんが朗らかな笑みを浮かべながら労りの言葉を送る。
「お疲れ様です!」
フランがパタパタと軽やかに女将さんの元へ向かうと、女将さんの旦那さんである店主も厨房から出て来た。
「フラン。お疲れ様。これは今日の分の給金だ。」
「ありがとうございます。」
「フランちゃんは、本当に働き者ね。夜の酒場営業もいて欲しいくらいだよ。」
「そう言っていただけて嬉しいです!」
この酒場は、お昼頃から夕方まではカフェとして、夜は酒場として営業している。
最初は酒場だけの営業だったが、お客さんのお昼も旦那と女将が作った料理が食べたいという要望から、お昼は子供も楽しめるカフェとして営業しているのだ。
そして、フランはまだ十六歳。
働ける年齢ではあるが、お酒を窘める歳ではないため、お昼から夕方まで、酒場がカフェとして営業している時間帯だけここで働いている。
「これ以上引き止めて暗くなったら大変ね。この辺は治安がいいとはいえ、夜の女の子の一人歩きは危ないよ。」
「お気遣いありがとうございます。私はこれで失礼しますね。」
「今日もありがとう。気をつけて帰るんだぞ。」
「はい!ありがとうございました!」
酒場を出て茜色に染まった街を歩く。
母親と一緒に手を繋いで帰る子供をぼんやりと眺めながら、フランは小さく息を吐いた。
「……。お母様のいない家に帰りたくないな……。」
フランの小さな呟きは誰の耳にも入ることはなく、街の喧騒に消えていった。
家の前まで辿り着く頃。先程の元気な笑顔が嘘のように、フランの表情は暗く硬い。
鉛のように重く苦しい心を偽りつつ、自分の身長の倍はある大きな門を全体重をかけて両手で押す。
ギィーと鈍い音を立てながら門をゆっくりと開き、人ひとり分くらい通れるくらい門が開いたところでするりと中へ入る。
美しい花々が咲き誇る手入れの行き届いた庭園を重い足取りで歩いていく。
水飛沫をあげる大きな噴水を横切り、十段ほどの階段を上がって重厚な扉を開ける。
「おかえりなさいませ。ブランシュ様。」
家を間違えた訳では決して無い。
フランというのは酒場で働いている時の偽名で、フランの正体は、ブランシュ・スワンという伯爵令嬢である。
そして、美しい所作でブランシュのことを迎えてくれたのは、ブランシュの唯一の侍女のメル。
「ただいま。メル。」
「本日もお疲れ様でございます。」
メルに帽子と上着を預かってもらい、自室に戻ろうとするブランシュの視界に豪華なドレスの裾が目に入る。
顔を上げると、これでもかと宝飾品を身につけ、目をキッと釣り上げた義母が立っていた。
「おかえりなさい。ブランシュ。今日の分もさっさと寄越しなさい。」
義母が催促するように右手を差し出す。
伯爵家には不釣り合いな、大きな宝石をあしらったブレスレットがジャラリと揺れた。
逆らうことのできないブランシュは、今日貰ったばかりのお給金の入った封筒を渡す。
封筒をパシリとひったくるように奪うと義母は封筒の中身を確認し始めた。
「アンタ、一銭も奪ってないでしょうね?」
「取ってないです。」
以前、欲しいものがあり少しだけ貰ったことがあった。
元はブランシュが稼いだお金だ。
浪費癖のある家族はどうせ湯水のように、ドレスや宝石にお金を使ってしまう。
少しくらいブランシュの物にしても良いだろうと思ったのだ。
しかし、貯めているのが義母の息のかかったメイドに見つかってしまい、納屋に閉じ込められたのは記憶に新しい。
それに、この家にブランシュの居場所はなくても、衣食住の保証は一応されている。だから、耐えるしかブランシュにはできない。
何より、母との大切な思い出が詰まった部屋だけはどんなに荒らされても手離したくなかった。
だから、どんなに辛くてもブランシュにはこの家から逃げるという選択肢はないのだ。
「ならいいわ。それにしても少ないわね。
もっと稼げないのかしら?」
義母は封筒をバサリと揺らして鼻を鳴らした。
ブランシュは何も言い返さない。
拳の中で飾り気のない、地味なスカートの布を強く握りしめる。
お金を受け取った義母はもう用がないと、プリプリと怒りながら玄関ホールから立ち去って行く。
そんなに怒るのなら、父と義母と義妹の浪費癖を何とかしろ!と怒りたくもなるが、あの部屋を守るために噛み付く訳にはいかない。
「ブランシュ様。こちらにいてはお身体が冷えてしまいます。お部屋に戻りましょう?」
「ええ。そうね。」
自室に戻ると部屋はとても暖かかった。
薪がパチパチと音を立てながら燃えている。
メルがブランシュの帰りに合わせて、暖炉に火をくべて温めてくれたおかげだろう。
自室の簡素なソファに腰掛けて、メルが入れてくれた温かい紅茶を一口飲む。
ブランシュが現在使っている部屋は元々はブランシュの母の部屋だった。
ブランシュにもちゃんと部屋があったが、母が病で亡くなり、義母と義妹が来てから、ブランシュの部屋か母の部屋を寄越せと言われ、ブランシュは自分の部屋を渋々手放した。
本当はどちらの部屋も奪われ、薄暗い小さな物置き小屋へ移動となるはずだった。
しかし、それでは体裁が悪いと部屋を譲り受けることになったのが唯一の幸運だ。
母の部屋を譲り受けたのは、母に絵本を読んで貰った思い出も、一緒に絵を描いた思い出も、全てこの部屋に詰まっているから。
窓から外を見る。母と一緒にお散歩した庭園が目に入るのもこの部屋だけだ。
だからこそ、ブランシュは母との思い出を手放したくなくて、この家がどんなに居心地悪くても、生きている方が辛くなったとしても、ここから逃れたいとは思わなかった。
……この部屋を離れることは、母との記憶に蓋をするようなもの。
だから、逃げられなかった。
たとえ、痛みと孤独が伴おうとも。
それに、豪華な家具は全て持っていかれ今は簡素で荒れ果てた部屋になっているが、母との思い出の品や母の形見のドレスは、絶対に目のつかない母とブランシュだけの秘密の部屋に隠してある。
ブランシュにとってこの部屋こそ生きる希望であり、守るべき場所なのだ。
母が亡くなり父が義母と二つ年下の義妹を連れてきてからブランシュの世界は一変した。
ぶっきらぼうだが優しかった父はブランシュに対して冷たくあたるようになった。父は義母と義妹のことしか考えなくなり、義母と義妹に裕福で贅沢な暮らしをさせたいと、流行のドレスや他国の希少な宝石、観劇のボックス席や義母が頻繁に開く豪華なお茶会などに、せっせと貢ぐようになり伯爵家は今や火の車だ。
義母と義妹に至っては、前妻の娘であるブランシュが許せないのか、ブランシュの物を奪っただけでは飽き足らず、事あるごとに冷たく当たる。
ブランシュが伯爵家の娘らしく、貴族の世界のことを教えた際も義妹には気に食わなかったのだろう。
あること、ないこと、父と義母に吹き込み、その度にブランシュは罰として納屋に閉じ込められたり、ご飯を与えられないということがあった。
そこから、ブランシュは家の中でもひっそりと暮らすようになり、母と仲の良かったメイドは追い出され、体裁的に専属の侍女がいないのは良くないため、メルだけ傍に置かせてくれている。
ブランシュは義母と義妹のことを恨んではいなかった。
二つ年下の義妹を前に、母が生きていた頃から父が不貞を働いていたのだと、悲しい気持ちになったが悪いのは父であり、義母も義妹も悪くない。
義母と義妹に罪は無い。
しかし、毎日のように憎悪の瞳を向けられて、虐げられれば心はすり減る。
今やブランシュにとって心が落ち着けるのは、誰にも邪魔されずメルと一緒に居られるこの時間と女将や主人、常連客のノワールの傍だけだ。
ブランシュは簡素なソファに寄りかかり、靴を脱いで足をソファの上に乗せて膝をぎゅっと抱える。
ブランシュの右の足首で黄金のアンクレットが星を纏ったようにキラリと輝いていた。