肆 日常
洗面所の小窓から、薄青い日没後の世界を見る。
磨り硝子の先には当然の如く輪郭もなく、目立った陰影も見当たらない。
これを特定の言葉に括ってしまうのは雑で、「わかってない」所業のように思えた。
例えもし適当な言葉が既存であったとしても、私はその言葉を使わないし、忘れてしまうだろう。
薄明だとかブルーモーメントだとか、そういう大陸的な「ハッキリした」ものではないのだ。
この味わい深い、形容しがたい静謐な感動を、言葉で汚すのは野蛮な事に違いなかった。
手を洗いながら、明かりも未だ点けていない黒い空間の中で、そんな事を考える。いや、思う。
「まぁた電気も点けないでそうやってるのかい。君も好きだねぇ」
手洗いも佳境に入った頃、真鍮の鳥が小窓の窓台に降り立つやいなや、そんな言葉を発した。
「良いでしょう? 私に許された最後の愉しみってやつですよ」
「なぁにが最後なんだかぁ」
呆れている様な、どうでもいいような、そんな口調だった。と思った。
蛇口をしめる、きゅぅ、という音が言葉の合間に咲いた。
「そんなことより人間さん、今日はお祭りだよ? 行かないのかい?」
「心ときめく提案だね。行くかもしれないよ」
「そう。きっと楽しいよ? 行こう行こう」
「やけに勧めるじゃないか」
「寂しかろうと思ってぇ」
「お節介な鳥だなぁ」
「ダメ?」
「いいよ」
「へへへ」
そう言って照れくさそうな仕草をするところが変に人間臭い。
「人間ライズド」という言葉が何故だか浮かんだが、それこそ雑な所業で野蛮で、あたまのわるい感じがしたので、すぐに打ち消した。
この真鍮の鳥は、置物であったことなど忘れてしまったかのように、流暢に喋り、滑らかに動いた。
それは比較的には特別な方で、ぎこちない動きの子もまぁまぁ居るのだけれど、どういう違いでそうなっているのかは、もう考えないことにして久しい。
清潔な白いタオルで手を拭きながら、二の句を告げる。
「君はどうなんだい? 行きたいんだろうなぁ、って私は感じるけれど」
「勿論さ! みんなに会えるのは楽しい。それだけのことじゃぁないかな」
「そうかい。にしても人の口調を真似するなぁ」
「ここだけの話、君も僕に似てきたよ」
「えっ、うそ」
「ほんとほんと。間延びしてきたぁ」
「それ自分で言うのかい」
「真実はいつも一つぅ」
くだらない事を言い合いながら、こんな会話に和んでしまう自分がいることに内心静かに驚いていた。
私は寂しくなかったはずだ。筈だった。
洗面所からダイニングに戻る。
「で、いつ行くの?」
「ご飯食べてから行こうかな。あんまりお金を使いたくないし」
「こんな世界になっても、君は吝嗇なんだねぇ」
「うるさいなぁ」
恰も、私の事を昔から知ってるみたいに言うのもなんだか気に食わない。
「行く時はちゃんと言ってよね? もし置いて行ったら、怒る」
「アハハ、怒らせてみようかな」
「むう」
そんな話をしながら、冷蔵庫を開けた。