弍 様相
朝は水色、清流の様。
静かに心を包む揺り籠、海の底にいる様でもある程。
雨の日の夕暮れの、薄青い景色にも似ている色彩と、情動。
暮れの碧、都会のマンションで電気を消して得られる静かな喧騒とも。
何と例えても表しきれないと思うこの豊かで細やかな情緒。
赤い朝焼けを失った世界でもそれは変わらず心に響く。
このゆっくりと徐々に徐々に齎される深く長い感動は、この世界のことや、自分の置かれている状況を、ひととき忘れさせてくれる。
窓を開け、外に出て、誰も居ない街の朝を眺める。
独り占め出来ると考えれば贅沢なことだ。
これ以上何を望むというのか。
そんな気持ちさえも湧き出でる。
もし天国があるとすれば、実はここがそうなのかもしれない。
私にはどうもそう思えたから。
それだけのことだ。
さて。
と、切り上げる。
朝食の準備だ。
キッチンの棚にはパンのようなものがまた補充されている。
いつも通り。
それをトースターで焼きながら、お茶の様なものを淹れる。
静謐。
車の音も、虫の声も、何もなく、風のないこんな日には、本当に聞こえる音は限られてくる。
例えば冷蔵庫の稼働音。
エアコンの稼働音。
キッチンの蛍光灯のハム音。
ケトルが水をお湯にしていく音。
トースターがパン━━━のようなもの━━━をカリカリに焼き上げていく音。
誰も居ない世界では、ただただ人工物の音だけが残存しており、自然の音は殆ど聞こえない。
だって、人だけでなく、生物というものがもう、誰も居ない。
猫が鳴くこともない。
犬が吠えることもない。
鳥が鳴くこともない。
日常にきっと当たり前にあったであろう━━━よく覚えてないが━━━喧騒は、失われたんだ。
それは別に私にとっては、それほど寂しいことではなかったのだけれど。
それでもこう、一人で何かを待っている時などには、まざまざとこの現状を突きつけられるから、ちょっとそれについて述べておきたかったまでのこと。
それだけのこと。
「ポッ」
と。
ケトルのスイッチが戻る音がして、我に帰る。
程なくしてパン擬きもトースターの穴から「たしゃんっ」と鳴いて跳ねる。
お皿に移して、バター的なものを塗って、齧り付く。
咀嚼。
もぐもぐ。
もぐもぐもぐもぐ。
もぐもぐもぐもぐもぐ。
もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ。
もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ。
ごっくん。
うん、ちゃんと小麦みたいな香りがする。
気がする。
小麦そのものではなく、小麦の味をつけている様な味と香り。
わざとらしい小麦味、という感じ。
お口を拭いて、お茶を啜る。
華やかな香りに包まれる。
『ほうっ』
と、あたたかなものに包まれて、落ち着く。
けれどもこいつも、紅茶の味や香りをつけているという感じだ。
メロンソーダを飲んでメロンだと思う人間が居ないで有ろうように。
お口を拭いて、またパンを齧った。
また━━━面倒にも思える━━━咀嚼をしながら考える。
さて、今日はどうしようか。
また新たな一日が始まった。