零 青碧蒼
ドアを開ける。
部屋に帰る。
服を脱ぎ捨てて着替える。
お茶を淹れる。
椅子に座る。
深く腰掛けて息をつく。
リビングの窓から見える外は、青く染まって美しい。
その青が部屋に侵食しては心を蝕んで離さない。
きっとこの青に呪われている。
学徒の頃からそうだった。
溜息を一つ二つ吐いてから、天井を仰いでみたり、肩を落としたり。
感情の忙しない鬩ぎ合い次第に、素直に体もついてくる。
心は燦然青空も見れば、暗澹灰色混じりも有り得、どころか安閑碧も見るから、一々形容していたら……キリがない。
キリがないのに表したくなるのは何故だろう。
そんな事を考えながら、碧い部屋で青について考える。
きっと今は蒼い顔でもしているのだろうが、体調ほどどうでもいいものはない。
そう思うことにしたんだ。
したんだった。
そうだった。
夕暮れといえば人は暖色をイメージするだろう。
けれども私は寒色のイメージも色濃く持っている。
それは早朝についても同じこと。
早朝や夕暮れ時の青に、ずっとずっと魅せられている。
真鍮の鳥の置物や、重たい歯車にパイプに工具、全て金属で恭しい。
そう、恭しいという言葉が思い浮かぶ。
彼らは、いや、これらはとっても趣深い。
ともするとあなたはガラクタと思う、こんな数々の細工や小物が、これほど愛おしいのはどうしてか。
弱く遠い照明の中で、青に染められて、私は一人で沈んでいた。
気分が沈んでいるのではない、心が青の海に沈んでいるのだ。
そこに耽ることが最早習慣である。
私はずっと青を好いている。
慕っている。
こうして心を遊ばせておけば、なんとかこうして生きられるのだと、強く感じることもできる。
青には感謝している。
もちろん、夕方の暖色の方も、人並みかそれ以上には、愛しているけれど。
また溜息をつく。
これは悪い溜息ではない。
溜息は悪い事じゃない。
心を深く、落ち着かせる。
ここには最早、自然はない。
雨は降れども緑はなく、蒼くなるのは空気だけだ。
いつかあったという森を偲ぶ。
蛙の声を再生する。
それを聴きながら涙が出る。
どうして?
やっと心が完了し、漸く椅子から立ち上がる。
まだ青に浸っていたいのだけれど、おなかが空いたのだからしょうがない。
冷蔵庫の中身は酷く無機質。
たった今浴びた自然の残滓はどこへやら。
しかしそれを言えばこの部屋を埋める、溢れる小物はどうなのか。
無機質、ではないと思う。
むしろその反対。
アレらにはあたたかみがある。
皆が馬鹿にするあたたかみというものではない。
このあたたかみは私にしかわからない。わかれない。
他のあたたかみ論者もこの感覚には至れない。得られない。
これは私のクオリアだ。
私はこのクオリアを愛している。
生活に必要なものではない。ただただ好きで、集めているだけだ。
君からすればガラクタだろう。
そんな君こそ私からすればガラクタだ。
と、宛のない心の手紙はどこへやら、きっと数時間後か、早ければ数分後には忘却の彼方。
そういうもんだ。
全文そうやって受け入れてきた。
人類がもういないことも、自分の蒼い顔も、世界がもうずっと碧いままであることも、蛙も森ももうないことも。
仕方ないんだ。
そういうものだから。
こういうことだから。
世界はこうだから。
生まれた時からこうだった?
わからない。
よく覚えていない。
けれども、蛙の声に何かしらの情動を覚えるのであるから、あるからして、つまり、そう、きっと、いや、わからない。
わからないけれど、愛している。
そうでだっていいじゃないか。
何の問題があるって言うんだ、畜生め。
この世界がだい嫌いだ。
そしてこの世界がだい好きだ。
だからなんだというのだろう。
瑣末なことだ。そんなの些事だ。
くだらない、いらない、面倒くさい。
どうでもいい、しらない、興味ない。
そうやって掃き捨ててしまおうか。
形にならない心の欠片、断片を言葉で召喚しようとしては、歪な失敗作ばかり出来上がってしまう。
出来立ては自信作のように思えども、時間と共にその自信はくすんでいって、最後には取るに足らない、ゴミ箱に捨てたいようなものへと成り下がったり。ああ面倒くさい。
こんな心の動きを強いられているのだから、余計にやっぱり面倒くさい。
全て面倒くさいが生きている。
その資格があるし、権利があるし、義務もある。
筈だ。
知らんけど。
ああもう、そうやってこうやって、アレコレ思索擬きに勤しんでいる内に、料理はすっかり冷めてしまった。
私は考えながら料理していた。みんなすることだ。さして珍しいことでもない。
殆どルーティンワークのように、半自動的にこなせる日常の数々と、この部屋いっぱいの青と碧と蒼と、心のしめる、そしてしめもする、閉塞感が全部。
全部全部全部全部。
これが手垢だらけの具体とか、透明な抽象なのか、誰かの判断なんか知らないから、自分で決める、自分で抱く。
そうして註釈をしたり、野放しにしたりしながら、こうして今日も
「いただきます」
独りの部屋に青が満ちる。
今日も地球に一人です。
多分。
恐らく。
あっ、