前夜
昔々、相模国の街道から川を北に三里程遡ったところに、
川上の村と呼ばれる村があった。
ある夏、村のいくつかの家で夜毎に騒ぎが起こる事が続き、
庄屋が伝手を頼ってさる道場の門下生を呼び寄せた。
取り敢えず庄屋の旧家屋に泊まった三人は、
夜更けに廊下から物音がする事に気づいた。
年長の堂上が年下の原田、最も若い征四郎を起こし、
そっと襖を開けて隙間から覗くと、
蛍の如く朧げな、
それでいて手鞠より大きな何かが佇んでいるのが見えた。
そっと抜き足で廊下に出た三人は、
抜刀し、その朧げな物に忍び足で近づいて行った。
三人に気がついたらしきそれは、
細かく震え、威嚇するかの様な物音を立てていた。
いきなり飛び跳ねたそれに、
先頭の堂上は下段から斬り上げ、
堂上の頭上を飛び越えたそれに対して、
原田は大上段から斬り下ろし、
原田の横を抜けたそれに対して、
征四郎は横薙ぎに斬った。
「魂魄の類いか!」
「斬れぬ!」
「手応えが…」
朧げなそれは、外に出ていった。
刀で斬れぬものに刀で立ち向かうのは愚かな事である。
村の者達は神仏に頼ることにした。
元から妖怪变化のおそれがあるのに神仏に頼らなかったのは、
村人達が信心浅かった訳ではない。
神仏に関わる者に頼れなかったのだ。
村の法事にやってくるのは生臭で知られる、
宿場町の南の寺の坊主である。
宿場町の北の村に南の寺の坊主がやってくるのは、
北の寺の和尚は宿場町でも有名な説法涼やかな和尚であり、
檀家も多く、とても離れた村の住民までを対応することができなかった。
よって、生臭で有名な坊主が来るのである。
この生臭坊主、村の法事は午後一に行い、
帰りが遅くなると称して庄屋の家に泊まっていくのだが、
その際に命の水を欲しがる生臭であった。
念仏こそ唱えられるが、法力などあるとは思えなかった。
仏がそれなら、神ならどうか。
村の鎮守の神様ときたら、
三百年前の洪水の際に溢れた水を飲み干してくれたという、
裏の沼の主である大鯰である。
百年も歴史がない村で三百年を騙る段階で当てにならないし、
神主がいる訳でもなかった。
斯くして、見事に頼るものがなかったが、
庄屋の娘が城下町の大店の若旦那の下に嫁いでおり、
そちらから法力のある僧に声をかけてもらうことになった。