第61話
皮肉なことに、菫を愛おしいと思えば思うほど、穏やかで確かな愛情を覚えれば覚える程、あの頃の西田が自分に向けていた気持ちが、今の自分と同じだったのだとわかってきた。
人を好きになることを知っていたあいつは、それがわからない俺に、伝わっていないと知りながらも、気持ちを募らせていたんだと、今更気付いてしまう。
けれどそれでも、菫を好きになった時のように、眩しくて手に入れたいと思うような気持ちは湧かなかったんだ。
正直今でも、菫が自分の恋人になってくれたことを、心の奥底で疑っている妙な自分がいる。
たぶん付き合ってからひと月は経っているけど、彼女は前々から一緒だったように、気兼ねなく俺に甘えて、時に気遣って、いつも楽しそうに隣に座っていた。
21年生きてきて味わったことない感覚や感情に動かされたり、満たされたり、衝動的になったり、理性が効かなかったり、それらは恐らく皆が恋愛をしてきて覚えて来たことなんだろう。
そうして振り回された後、縁が切れて別れることもあるのかもしれない。
けれどそれは友人であろうと、家族であろうと、恋人であろうと、誰とでも起こること。
元々温かい家庭があって、友人に恵まれた俺は、人間関係が破綻したり、誰かを失ったことがなかった。
だから菫がもし、目の前からいなくなってしまったらと考えたとしても、その感覚がどういうものなのか知らない。
想像しようにも、それはあまりに現実味がないことだった。
両目の視界を手に入れた祝いにと、酒を飲みながら色んな話をして、ぼんやりとした視力しか持たない俺のために、菫はくっついて座って、ニコニコしながら何度も俺の顔を覗き込んでいた。
「なんだ?」
「んふふ♡ん~ん。・・・何でもないの。」
「・・・目は口程に物を言うってよく言ったもんだな。」
「ふふ、私が何考えてるかわかっちゃった?」
「いや・・・具体的にはわかんねぇ。・・・でも少し、不安を募らせてるような目に見えた。」
菫は黙って目を伏せると、側にある俺の手を握って指を絡めた。
「・・・・だってそんなこと話したら・・・・」
「・・・なんだよ」
「・・・いいの、言わない。」
「・・・この場合言わないってのは悪手じゃね?」
「そう?」
「うん・・・」
静かなリビングで、彼女はゆっくり深呼吸した。
「こういう気持ちになったの、初めてだなぁっていう時・・・人間戸惑うもんでしょ?」
「そうだな。」
「戸惑ってるの私・・・。でも自分の意志とか気持ちはハッキリしてるから、答えが出ないわけじゃないの。自分のことは自分で解決出来るの。でも・・・人がどう思ってどうとらえるかっていうのは、自分じゃどうにも出来ないじゃない?だから臆病になって話せなかったり、遠慮したりするのよ。」
「・・・つまり俺がどう思うかわからないから、怖くて話せないと。」
「そうね・・・」
「・・・そう思わせてんの、俺にも責任あるかもなぁ・・・。」
菫は悲しそうな目を向けて、握った手に視線を落とした。
「責任なんて・・・」
「さっきの生け花見て、どう思った?」
彼女は思い出すように口つぐんで、じっと考え込むように黙った。
静かにその答えを待っていると、そのうち鼻水をすする音がして、俯いたままポロポロ涙をこぼしていた。
「嬉しかった・・・・。貴方をもっと好きになった・・・・こんな作品を作れる人が、私を好きでいてくれることに恐縮する程・・・。でもそれと同時に・・・苦しかった。春が・・・私ね?・・・・きっと誰も本気で好きになってこなかったの・・・。いい加減な恋愛しかしてなかった。深入りするのが怖くて・・・でも・・・春が何か話してくれる度に、微笑んでくれる度に・・・涙が出そうになる程嬉しくて・・・・好きだとか愛してるって言われなくても、貴方からはちゃんと伝わるの。私を抱いて名前を呼んでくれてる時も、会いたいって連絡してくれるだけでも・・・。それがずっとすごく幸せで・・・。」
涙を何度も拭う彼女に、ティッシュを手渡してそっと頭を撫でた。
「・・・私が作ったスミレのワンピースを気に入ってくれた人がいて・・・うちの会社にこないかって言われた・・・。所謂ヘッドハンディングっていうやつ・・・。でも私今の会社でなんの成果も出せていないし二の足を踏んでて、挑戦したいと思うなら遠慮することないって上司にも言われたんだけど、結構大きな会社でね・・・経験を積むって言う意味ではいいのかもしれない・・・。でも札幌が本社だから、そっちに来てほしいって言われたの・・・。」
「へぇ・・・。それは・・・転機というか、チャンスなのか?」
以前彼女は、いつか自分のブランドを立ち上げて、会社を持つのが夢だと語っていた。
「チャンス・・・ではあると思う。有名なファッションデザイナーの方も勤めてらっしゃるところだし・・・。でも・・・私・・・・ねぇ春、幻滅しないって約束してくれる?」
「・・・俺が他人に期待したり、イメージを押し付けて幻滅する人間だと思うんか?」
「・・・わかんない・・・だってまだ春と知り合って数か月だもん・・・。自分の中で・・・あまりにも貴方が大きくなり過ぎたの・・・離れたくないの・・・。別に遠距離になったからって貴方が別れるって言い出すとか、気持ちが冷める人だなんて思ってない。私ももちろんそんなことはないけど・・・自分の夢へのチャンスより・・・春と一緒に居たいっていう気持ちが・・・・」
黙って聞く俺の顔をそっと窺う菫は、泣き腫らした目が痛々しかった。
「・・・・馬鹿な女だと思う?」
「思わない。」
「貴方が好きになってくれた私は・・・作品を形に出来る感性を持つ、表現を追求することを目指している私でしょ?」
「そうであってそうじゃない。それだけじゃない。どんなことを思ってもそれは菫だろ。デザイナーとしての菫も、人間らしい菫も俺は好きだ。一部に固執して、こうあってほしいなんて思ったことない。」
菫はまたじんわり瞳いっぱいに涙をためたので、そっとキスして抱きしめた。
「あの生け花を見て・・・・私・・・・春にプロポーズされたような気持ちになったの・・・」
「ふ・・・そうか・・・。深く考えて作ったわけじゃないけど・・・。」
「そうなのね・・・よかった。」
「何が?」
「プロポーズだったらいよいよ気持ちが先走って、幸せ過ぎて怖くなるもん。考え過ぎちゃうのよ。」
「・・・ぶっちゃけ、勢いでするものだとは思ってないから・・・ちゃんと稼げる社会人になれないと、結婚してくれとは言えねぇなぁ。」
菫は俺の言葉にようやく安心したようにクスっと笑うと、涙を拭いて顔を見合わせた。
「ふふ・・・じゃあいつかしてくれるつもりでいるの?」
「・・・さぁ・・・知らね・・・」
俺がはぐらかすと、菫はくしゃっと笑顔を作ってまた抱き着いた。
その数日後、メガネとコンタクトレンズを作るために、改めて近くの眼科へと足を運んだ。
手術費程じゃないが、そこそこ値が張る買い物をして、コンタクトレンズ購入の際、眼科で初めて装着したレンズをそのままつけて帰ることになった。
メガネと違って、度のきついレンズでもさして負担はなく、生まれて初めて両目で見る、クリアな世界が眼前に広がった。
無事店を出て帰路に着いたが、目を向けるあらゆる場所が事細かに見えて、少し物怖じした。
片目でそこまで視力が良くなくとも、ちゃんと見てとらえていた風景だったが、何だかまるで別世界にでも転送された気分だった。
見慣れた街並みを通り過ぎて、ゆっくり歩いていると、新しく出来たのかいくつか店が立ち並ぶ合間にある、花屋に目が留まった。
表に置かれている鉢植えを、そっと屈んで見ると、葉脈や土が湿っている様子まで一目でわかる。
視力を取り戻しても、世界はさして変わらないと思ってた。
けど愛おしい菫を両目で見ることが出来て、晴れた空に浮かぶ雲がくっきりと見えて、足元の花が生きている様子が、こんなに細かく見える。
そして同時に気付いた。
自分にとってこんなに新鮮なことは、通り過ぎていくほとんどの人たちにとっては、日々目にしている当たり前なのだと。