第47話
恋愛がしたいとか、恋人がほしいとか、そもそも思ったことも無ければ、考えたこともなかった。
出来たことがないのだから、未体験のことを渇望することもなかった。
人間は心動かされるものを、日常に求めて生きている。
無意識に琴線に触れるものを刺激として、楽しいと思うことや、高揚感、優越感を得るために行動するのが自然だ。
何故なら人は、それを得ると自身が生きていると強く感じられるから。
誰かを好きになることも、セックスすることも、タバコや薬物を吸って落ち着きを得ることも、好きなものをお金で買うことも、全てが自分への刺激であり、生きていると確かに感じることだ。
その中でお手軽なものの一つとして、恋愛をすることなんだろう。
法に触れることもなく、度が過ぎなければリスクも害もない。
だがそれでも、俺は恋愛や性欲に目を向けることはなかった。
何かトラウマがあるわけじゃない。無縁だと思い込み、断ち切ってきた。
ある意味、時田桜花に対して憧れと情欲を抱いていたのは事実でも、それが叶わず終わるのは当たり前のことで、その後心残りだったことはなかった。
けれど藤川さんに対して好きだと思った自分は、彼女の感性や人間性に触れたからにしろ、大して多くの情報を持っていないのに好意を持った。
それは自分が否定していた、見た目や雰囲気だけで相手に惹かれるのと、さして変わりはない。
「俺は案外単純な人間なのかもしれん・・・」
あの日から数日が経って、自宅のリビングでボーっと動画を見ながら呟いた。
生まれて初めて恋人が出来た。だからと言ってどうということもない。
日常が変わるわけじゃない。いつも通り今日も昼過ぎからバイトに向かう。
8月も下旬に差し掛かって、実家に帰るタイミングも逃してしまったけど、母は自分のことが忙しくて充実しているなら、特に帰ろうとしなくていいと連絡してくれた。
時間になって身支度を済ませ花屋に向かい、尚もモヤモヤと考えながらバイトをしていた。
閉店の時間になって、いつも通り表を片付けていると、彼女の足音がした。
俺が顔を上げてそちらを見ると、藤川さんは小走りになって目の前にやってきた。
「お疲れ様。」
「・・・・ああ、お疲れ。」
俺の気のない返事に、彼女は不思議そうにする。
「元気ない・・・?具合でも悪いの?」
「いや、大丈夫。」
特に彼女に対して話したい事も思いつかず、俺は淡々と作業に移った。
フツフツと何か自分の中でこみあげてくるものを感じながら。
「ねぇ、桐谷さん」
植木鉢を持ち上げようとした俺に、彼女は同じくしゃがみ込んだ。
「こないだ・・・飲みに行こうって話したけど叶わなかったでしょ?良かったら行かない?」
「・・・・ああ、わかった。」
断る理由もなかったので了承すると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を前にすると、何やら息が詰まる。
というかなんかソワソワ落ち着かない気分が否めない。
「お待たせ。」
店仕舞いを終えて藤川さんの元へ戻ると、彼女はまた嬉しそうに目を細めて俺の隣を歩いた。
「・・・何をそんなに嬉しそうにしてんの?」
「え?ふふ・・・桐谷さんがいつもより嬉しそうにしてくれてるから、私もつられてニヤニヤしちゃってるかも。」
「・・・え・・・俺ニヤついてる?」
「ニヤついてるってわけじゃないけど・・・ふふ・・・何となくわかるの。それとも全然嬉しくなかった?」
視線を逸らせて答えるのを渋ると、彼女はまた鈴を転がすように笑った。
一緒に電車に乗って最寄り駅に着き、以前予定していた近くの店に入った。
居酒屋というよりどこかお洒落な飲み屋で、騒がしくもなく落ち着いた雰囲気だ。
テーブルは個室しかないようで、彼女の希望で座敷テーブルについた。
「私ね、何となく畳が好きなの、落ち着くというか・・・。桐谷さんはどっちが好きとかある?」
メニューを手に取りながら、おしぼりで手を拭く彼女をチラリと見て小首を傾げる。
「ん~・・・特にこっちってのはないけど・・・まぁ子供の頃は和室にいることが多かったし、座敷の方が好きかもな。」
「そうなんだ。・・・・お客さんと店員さんっていう間柄じゃ、色々聞くの失礼かなって思ってたんだけど・・・いきなり質問攻めにされるのって嫌?」
「別に・・・。友人にこれでもかってくらい質問攻めにしてくる奴いるから。」
「ふふ、そうなの?じゃあ・・・あのね・・・私誕生日が4月で25歳なの。桐谷さんは・・・3年生だから・・・今21歳?」
「うん。」
「誕生日は?」
「ふ・・・この名前で春生まれじゃなかったら違和感だろ。・・・4月29日。」
「うふふ、そうなのね。」
彼女はテーブルにあるタブレットを取って、適当なものを注文し俺も適当な酒を頼んだ。
「お酒は好き?」
「まぁ・・・普通かな。飲めないこともないし、それほど大酒のみって程でもない。」
頬杖をついて楽しそうにお冷に口をつける彼女を眺めると、少し恥ずかしそうにした後、同じように頬杖をついてじーっと見つめ返してきた。
「・・・藤川さん」
「ん?」
「・・・ハッキリ言って・・・俺はそなへんの普通の大学生より癖ありだし、思い描いてるまともな付き合いは出来ないと思うけど・・・それでもいい?」
「・・・ふふ・・・」
彼女はニマニマしながら口元に手を当てた。
「うん。だって・・・愛おしいなぁって思っちゃったんだもん。側にいて良いなら居させてほしいな・・。」
この人は心が広いタイプの人か・・・
「そう・・・」
口下手で恋愛下手で何もかも未経験であるのに、何をどういいと判断したのか謎だけど、きっとそれは感覚的なことで、俺もそうであるなら余計な問答は不要だろう。
「桐谷さんの考えてること当ててもいい?」
「・・・無理。」
「ふふ、可愛い♡」
『可愛い』という言葉に睨み返しても、彼女の笑顔に毒気を抜かれた気分で、何ともやりづらい。
その後酒と料理がいくつか到着して、二人で雑談しながらつまみつつ何杯か飲み進めた。
意外と彼女はケロっとしているもので、酔った様子は一ミリも見えない。
「・・・酒強いの?」
「ん?ん~・・・そうねぇ、最近は強くなったかも。付き合いで飲みに行くことも多いし・・・。かといってテキーラとか、度数が強いようなものは飲めないかもしれないけどね。」
「ふぅん・・・」
「ふふ・・・酔わせたかったの?」
「いや・・・別に。・・・はぁ・・・もう、調子狂うな・・・」
「うふふ、私は楽しいなぁ色んな話出来て。」
終始ご機嫌につまみを口に運ぶ彼女に、気遣いも企みも特に無くして、友人に接するように質問することにした。
「・・・聞かないの?俺の右目のこと。」
藤川さんはポカンとしてグラスを置いた。
「ん~・・・聞くべきだった?」
「いや、どっちでもいい。」
「そうよね、貴方は特に気にしてる様子じゃないから。自分のことを話してくれるのはどんなことでも嬉しいから、話してくれるならもちろん聞きたいけど。貴方にとって重要なことじゃないなら、私も気にしないかな。」
「・・・・・まぁそれはそうなんだけど・・・。恋人が出来たことがないから、話しておくべきことなのかどうか、判断がつかない。」
「・・・あぁ・・・なるほど・・・。じゃあ昨日の夕飯の話をする程度に聞かせてくれていいと思うよ。」
飲み終わったグラスを見て、気を利かせて自分と俺の分の酒を注文する彼女は、当たり前だが社会人で年上なだけあって、俺よりも余裕を感じる。
「・・・子供の頃、母親の実家で生け花をしていた時、親戚が鋏を振り回して遊んでいたのに巻き込まれて怪我をした。・・・それで失明した。」
「・・・そうなの・・・。今も痛む?」
同調するように暗い表情をする彼女を見て、思わず西田を思い出した。
あいつもそんな風に聞いてきた気がする。
「いや・・・痛みはまったくない。明暗が分かる程度で、単純に視界は半分しかない。・・・生活する上でほぼ不便なことはないけど、最近不注意で怪我をしそうになったこともあるから、迷惑かけないように心がける。」
「そう・・・わかった、ありがとう。」
尚もモヤモヤと何かがつっかえて、視線を落とすと彼女は重ねて言った。
「桐谷さん、何か言葉にしづらいこととか、何て言ったらいいのかわかんないようなことは、誰でもあると思うの。私もあるし・・・。だからいいのよ、全部話せなくて。貴方が生きてきた時間を全部愛してみせるなんて、ロマンチックに豪語しないし、理想のお付き合いを求めてるわけでもないの。これから少しずつ慣れればいいから。」
「・・・ん、わかった。」
またニッコリ穏やかな笑みを見せる彼女は、きっと自分がそうされたくないから、期待を押し付けない人なんだろうと思った。