第35話
7月も半ばに差し掛かる。けたたましくセミが鳴き、急な雷雨に見舞われることもしばしば。
集中を削がれる程じゃなけりゃ、虫の声は嫌いじゃないが・・・。
雨が連日続くこともある。
けど日本に生きている以上しょうがないもので、特に不快だと思うほどでもなかった。
湿気が強いと花の扱いにも気を遣う。
家の中では花材が傷まないように、常時エアコンで室温と湿度を管理して花を生けた。
もうすぐ夏休みに入る。
イメージが固まって、ほとんど完成品に近いものを、最後に小鳥遊にチェックとして見せる予定だ。
「ふぅ・・・。」
集中して生けるようになっても、適度に休憩を取る。
家の中ではそうでもないが、暑い外に出かけると最近疲労を強く感じる。
だがしかし食べ物を買わなくてはならない・・・。
「人間ってのは何でこう・・・・・・食べなきゃならない・・・・。」
ペットボトルの水を飲んで、ソファの背もたれに頭を逸らす。
うだるような暑さの中、仕方なくスーパーへ行くことにした。
気持ち的には近所のコンビニに行って、適当なものを買いたいんだが・・・それじゃその場しのぎにしかならないことをわかってる。
そこそこの食材を買い込み、自炊する方が経済的だし、俺の場合自分のバイト先から花材を仕入れて練習しているにしても、それなりに金がかかっている。
節約するに越したことはない。
身支度を済ましていざ外出。玄関のドアを開けるともう、鉄板の熱気のような空気を顔に浴びた。
「・・・日本なんて嫌いだ・・・」
将来はそこそこ気候が安定していて、天災も少ない国に永住することにしよう。
暑い外にいると改めて思うが、だいぶ髪の毛も伸びてきてしまった。
首回りを覆う程になってきているので、暑くて仕方ない。バイトの前にまた予約入れるか・・・。
近所のスーパーに着いて、適当に食材を見繕ってカゴに入れる。
そういや・・・何であの時、咲夜のお兄さん夫婦はここのスーパーにいたんだろうか。
以前雑談をしていた時咲夜は、そこまで離れていない高級住宅街に住んでいると言っていた。
ここまでは電車で何駅か離れてる。どこかに出かけたついでだったのかもしれないな。
そんなことを思い耽りながら、ひょいひょいと次々買う物を入れて、早々にレジへと向かう。
会計を終えて店を出ると、次第に空が曇りだしてきていた。
何とも重苦しい嫌な空気だ。湿気と濡れたアスファルトの匂いが風に運ばれてくる。
袋を肩に担いで、足早に帰路に就いた。
やがて太陽は完全に雲に隠されて、灰色の住宅街を皆一様に急いで歩いているように見えた。
すると、ふといつも通り過ぎている洋菓子店の横で足が止まった。
小さな店のカウンターで、ニコやかに店員と話しながら注文する女性が、ガラス越しに見えた。
店先のブラックボードには、夏限定メニューが手書きのイラストで宣伝されている。
シューアイスか・・・いいな・・・
思わず目がくらんでいると、ポツ・・・と頬に雨が落ちた。
「あ・・・?」
その一粒を皮切りに、1つ2つと一気に雨脚が強まって、さっと店のオーニングの下に入る。
地面に叩きつけるバケツをひっくり返したような豪雨が、瞬く間に目の前に広がった。
大音量で降り注ぐ雨音に唖然とするしかなかった。
まぁ・・・しょうがない・・・。たまたま雨宿り出来る店先に居てよかった・・・。
するとカラン♪とドアベルが背後からして、先ほど見かけた客が表へ出てきた。
女性は軽くため息をついて、小さな声で言った。
「あれ・・・?もしかして・・・桐谷さん?」
俺がパッと見返すと、スーツに身を包んだ見覚えある女性だった。
思い出そうと思案していると、彼女は「ふふ」と口元に手を当てて笑った。
「今度は一緒に雨宿りする羽目になったね。」
「・・・・・・・ああ、チョコブラウニーの・・・」
「チョコブラウニー・・・?ああ、お礼にお渡しした焼き菓子ね。ふふ・・・今度はそういう覚えられ方してるのね。」
「・・・すみません・・。美味しかったです。ご丁寧にどうもありがとうございました。」
「いいえ。お気遣いいただいたのはこっちだもの。ふふ・・・奇遇ね、こんなところで。」
雨音が激しくて、声は切れ切れになって聞こえた。
少し困ったように眉を下げて、彼女はゲリラ豪雨を眺める。
小さなオーニングの元、二人して並んで雨が止むのを待つ羽目になった。
それからしばらく止む気配のない大粒の雨を、ただただボーっと眺めて待った。
すると隣に立っていた彼女は、くいっと俺の服を引っ張った。
俺が振り向くと、彼女はピンクの綺麗な唇を動かして何か言った。
雨音で聞こえなかったので、思わず腰を屈めて近づくと、彼女は耳元に顔を持って行った。
「おうちは近く?」
俺は頷いて見せると、彼女はニコリと微笑んでガサゴソと抱えていた鞄を探った。
スマホを取り出して、今度は俺に聞こえるように大き目の声で言った。
「私まだ仕事中で、会社に戻らないといけないの。アプリでタクシーを呼ぶから、良かったら一緒に乗って行って。」
「え・・・いや・・・」
俺が遠慮して躊躇っているのが伝わったのだろう、彼女はまたニコリと笑みを返して、構わずスマホに指を滑らせた。
それから10分程待ってタクシーが到着した。まだまだ雨脚は強いままで、彼女は鞄から折り畳み傘を出して開いた。
「桐谷さん、乗りましょう。」
「はい。」
彼女は俺が濡れないように促したので、咄嗟に持っていた傘とケーキの箱を奪うように取った。
ケーキと彼女が濡れないように気を付けながら、「どうぞ」と車のドアまで傘をさす。
「ありがとう。」
素早く乗り込んで後部座先に座る。
バタンとドアが閉まって、運転手が気の毒そうにしながら行先を聞いた。
彼女は俺の家を聞いて、先にそこまで送ってもらうよう頼んだ。
車内でやっといくらか静かになって、息をついた彼女は言った。
「濡れなかった?お財布とかスマホは大丈夫?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます。」
彼女は「いいのよ。」と言いつつハンドタオルで袖を拭くと、俺にも貸してくれた。
「・・・またお店に来ていただいた時何かサービスします。」
「ふふ、ホント?お返しがお花なんて粋ねぇ。お花屋さんと知り合いになったなんて初めてよ。」
彼女はおどけて言いながら、返すハンカチを受け取る。
「・・・あの・・・」
「なあに?」
「すみません、お名前を思い出せないので・・・名刺か何かいただいてもいいですか。」
さすがに何度か店に来てもらった上に、家まで送ってもらって礼を出来ないのは申し訳なかった。
彼女はふと考え込むように視線を落として、また口元を持ち上げた。
「名刺はあるんだけど・・・。そうねぇ・・・前は苗字を教えたから、今日は名前を教えることにするね。・・・菫と言うの。」
「菫・・・」
彼女は少し照れくさそうに笑う。
「ふふ、そうよ。お花屋さんと縁があるでしょ?・・・もし苗字を思い出してくれたら、今度はフルネームで覚えられるね。どっちも忘れちゃったらその時は・・・またお店に行った時名刺を渡すわ。」
「・・・そうですか。わかりました。」
車が雨を弾く走行音を耳にしながら、何か言い表せない不思議な感覚でいた。
思い出せないことを思い起こそうと必死に思考を巡らせていると、その後数分間彼女も俺も何も話さず、そのうちマンションの前に到着していた。
まだ結構な雨が降っていて、彼女は「風邪をひかないようにね。」と気遣って声をかけてくれた。
礼を言ってタクシーを見送り、買い込んだ袋をまた担いで、やっとドアを開けて部屋に入った。
食材を冷蔵庫に入れて、少し濡れたエコバックを拭く。
「菫・・・。」
言わずもがな、春に咲く花だ。
一般的に知られている紫のものから、ピンクや白、黄色もある。
その時連想ゲームのように思い出した。
「・・・藤川さんだ・・・。なんだ・・・苗字も名前も春に咲く花だな・・・。」
何とも優雅な名前だ。
きっと次からは忘れないでいられるだろう。
何となくそう思った。