第29話
順調に作品の準備と調整を繰り返していた或る日、使われていなかった和室でサーキュレーターを回しながら、一息つくために保冷庫から取り出した飲み物を開けた。
小型の冷蔵庫のようなそれは、小鳥遊が親戚の家電メーカーの知人からもらったもので、使っていないからと融通してくれたものだ。
急な無理難題を持ちかけてきただけあってか、だいぶ気を遣われているような気がするが、あの時田桜花が来るためだからと思えばそうなるかもしれん。
とりあえず2時間程試作したので、今日のところは帰路に就くことにした。
和室を後にして夕日も落ちた薄赤い廊下を歩くと、まだまだ近辺の教室からは、活動してると思われる生徒たちの声が漏れ聞こえてくる。
活動制作に追われる時期になると、大学に泊まり込んで作品に取り組むものもいるらしい。
まだそこまで遅い時間というわけではないし、皆各々が夏休みの先にある学祭に向けて奮闘してると思うと、何とも味わったことない空気感に思える。
当然だけどサークルや部活動を行っている者でなければ、学祭は不参加でも構わない行事だ。
何にも所属していないにも関わらず、こうして時間を割いていると思うと、これもまた一つの経験と言えるだろうか。
そうして少しぼんやり歩きながら廊下の先の階段が見えた時、見えない右目側、もう一つ上の階から降りてきた人影に気付かず、体がぶつかった。
普段ならそんなことは起こさない。以前西田が俺に注意を促していたけど、俺は外を歩くにしろ何にしろ、人一倍周りには気を付けているから。
それはしみついた癖であり、周りを巻き込まない最低限のマナーだからだ。
だけど何故かその時ばかりは、自分よりも小柄な人にぶつかってしまい、反射的に目を向けた時には、ぶつかった青年はよろけて階段を背にして、体が傾いて落ちてしまう瞬間だった。
同時に一緒に居たであろうもう一人の男子生徒が、叫ぶように名前を呼んだ。
「薫!!!」
その声よりも一足先に踏み込んで手を伸ばしてよかった。
落ちる瞬間に青年の手を取ることが出来て、力いっぱい引き寄せた。
彼を引き戻すことが出来た代わりに、反動で自分の体が投げ出されたけど、それはしょうがない。
ぶつかった俺が悪いのだから、真上から落ちて重傷を負うのは俺でいい。
引き上げた青年が苦悶の表情で俺を振り返ったのが見えた時、一緒に居たであろう男子生徒が、あろうことか素早く駆け降りるようにして俺の体を掴んだ。
スローモーションで起きていた一連の流れで、このままじゃ一緒に落ちる!と思ったが、彼は手すりを掴んで体勢を整え、勢いを殺すように片手で俺を抱えてしゃがんだ。
ドサッと音を立てて持っていた鞄が階段下に落ちる。
「はぁ・・・・はぁ・・・・」
なんつー身のこなし・・・
目の前の光景が通常の速度を取り戻して、心臓が爆速で動いて、目の前で起きた事が半ば信じられなかった。
「はぁ・・・・大丈夫っすか?」
階段の途中で支えられていた俺も、手すりを掴んで体を起こした。
「いや・・・何してる・・・・あんたこそ・・・」
「夕陽!!」
最初にぶつかってしまった青年が震えた声で名前を叫んだ。
「大丈夫!?二人とも・・・」
「薫・・・だいじょぶだよ。なんとかな。」
心配し合う彼らと、一先ず一緒に一階分降りて息をついた。
「ありがとう・・・。ぶつかって悪かった。怪我は?」
俺が頭を下げて改めてそう尋ねると、二人は顔を見合わせて安堵した表情を返した。
「大丈夫です。これでも鍛えてるんで。・・・薫も大丈夫だな?」
「うん・・・。俺もちょっとよそ見しててぶつかっちゃったので、本当にすみませんでした。俺も助けてもらっちゃったし・・・。」
「いや・・・ぶつかったのは俺の不注意だ・・・。怪我がなくてホントに良かった。」
ため息をつくと、黙って聞いていた高身長の方の青年が言った。
「・・・あの、もしかして片目見えてない・・・ですか?」
彼がそう指摘すると、隣にいた小柄な青年も俺をじっと見た。
「ああ・・・右目は失明して見えてない。だからこそ人一倍気をつけてたつもりなんだ。少し気が緩んでたのかもしれない・・・。次がないように気を付けるよ。・・・それじゃ・・・」
「はい、俺も十分気を付けます。」
礼儀正しく丁寧に腰を折った青年は、やはりどこか見覚えがあった。
はぁ・・・俺としたことが・・・マジで危なかった。不幸中の幸いってやつだ。
てか咄嗟に落ちそうになった俺を抱えて受け止められるのすごいな・・・。
無理してる様子もなかったから大丈夫だろうけど・・・礼をするために名前くらい聞いておくべきだったか?
目に続いて手や腕まで怪我していたら、俺はもう一生華道をしようとは思わなかっただろう。
好きだと思って続けていたことが、夢中になってやれることになって、いつの間にか目的を達成するための手段になって、目的自体が叶えるものでないと判断すれば、華道は必要のないものになってしまっていた。
そんなに長い年月が経ったわけでもないのに、冷めてしまえばもう俺の意のままにはならないと決めつけて、自己表現することから遠ざかった。
本当のところ、俺が生け花を辞めた理由は、それがなければ自分は何もないと気づいたからだ。
自己表現が特技というだけで、人としての中身がなかった。
結局のところ、芸術家として突き詰めることが出来なかったのは、人付き合いを避けて人の中で生きることが苦手になった自分が、恥ずかしいと思っていたからだ。
何か突出したものを一つ極めれば、犠牲になることはある。
けれどそれを知りながら、俺は結局犠牲にしてきたものたちを、完全に捨てることは出来なかった。
コンテストに優勝してきた、という経歴だけを得て、俺は中途半端に華道を手放したんだ。
堅実であるべきだと、大学受験を勧めてくれた時田桜花が、自分とは違う道を選んだ俺を、まだ覚えていることが不思議だった。
彼の考えを安易に推測出来るわけでないことくらい承知の上だが、まだその考えを知りたいと思って華道を再開した俺は、西田が言った通り、まだ生け花をやりたいという想いがあったんだろう。
捨てるに捨てきれないのは、かつて憧れてやまなかった時田桜花を知りたいから。
それと同時に、何を考え何を言い出すのか、予想しえない彼に期待しているとも言える。
けれど肝心なのは、作品がぶれないことだ。
思い巡らす考えや感情があっても、一転集中してまとめあげた表現を生け花に捧げなければ作品じゃない。
気になることが多々あれど、それは一旦脇に置いておかないと。
その時ポケットに入れていたスマホから通知音が鳴った。
駅に着いて電車に乗る前に確認すると、西田からだった。
そこには、『今日も学校で生け花してんの?頑張るのはいいけど、休む時はちゃんと休めよ!再三言うけど、寝食忘れて没頭することだけはしないようにな!』
「どこまでもおかんなのかあいつは・・・」
駅のホームで思わずそう独り言が漏れた。