第22話
俺の最古の記憶で覚えているのは、3歳頃祖父母に言われた言葉だ。
「一番になりなさい。まず話はそれからです。」
「自分の感性と才能だけを信じなさい。」
到底3歳児に言う言葉じゃない。
今ならそう言える。だけど当時は生け花をやることが、当たり前であると思っていた。
周りのいとこたちも、時に退屈そうにしたり、駄々をこねたりしながらも懸命に生けていた。
祖父母は孫たちを篩にかけるように、大きな屋敷の和室で、まるで塾を開くような形で生け花を教えていた。
片目での生活に慣れて、周りと同じ生活に支障がなくなった頃、生け花を生けるスピードも健常者と変わらなくなった。
そして中学1年生の頃、日本一を決めるジュニア華道家の大会で1位になった。
学校で目立ちたくないという理由もあって、メディアの取材は一切を断った。
心の中で、1位になったことでやっとスタート地点なんだろうかと・・・祖父母の言葉を思い出していた。
もうその頃には縁も切れていたのに、刷り込みってのは怖いもんだ。
中学2年生になった頃、右目を失明していることと、その青い色をからかわれいじめを受けた。
靴を隠されたり、机の中にゴミを入れられたり、私物を捨てられたりした。
学校教材を傷つけられることはさすがに困るので、その都度教師に相談していた。
新しい物を買わないといけないね、と言われたので「何故俺が失くしたわけでも、ダメにしたわけでもないのに、俺の親が買わないといけないんですか?」と問いかけた。
担任は困った様子だったので、その時既にスマホを持っていたし、上手いこと自分の席の近くに置いて、嫌がらせをしている様子を撮影した。
俺の親と教師、そしていじめをしている子供の親が呼び出された席で、案の定向こうの親は言った。
「うちの子がやった証拠でもあるんですか?」と。
だから言ってやった。
「逆に証拠もないのに、呼び出されたとお思いですか?」
俺は目の前に撮影した一切を出した。
母も驚愕していたけど、何より相手の親は弁明のしようがなく、教材の弁償を要求すると、一緒にいたいじめっ子を酷く怒鳴りつけた上で、何とか最少額の賠償金にしようと必死だった。
俺はその様を見て、心底人間という生き物に落胆した。
その出来事が、一つ人生を変える転機だったと思う。
やり続けていた生け花に変化が出た。
かつて仕上げるのに何年もかけたという画家たちのように、煌びやかな色合いの中に、人間の泥臭さを表現するようになった。
その年も、出場した全ての大会で優勝した。
審査員として同席していた時田桜花は、俺にこう言った。
「悠々と独創的に駆け回るような作品ばかりだったのに、随分人間らしい色合いを出すようになったね。子供は生まれた時、天使のようだというけど・・・君は天使から、人間になろうとしているんだね。」
その言葉は良くも悪くも捉えられる。
曖昧さと皮肉を含んだ言い方が、尚も俺の美学に火をつけた。
この人は俺を燃やそうとしている・・・
芽を摘むどころか、俺を燃え尽きさせようとしている。
文字通り開花した才能を、駆け抜ける速さで大輪の輝きを経て、一気に枯れさせようとしている。
自分を太陽にして、いつか俺の手を離す気だ。
そんなことはわかっていた。
「俺のこと・・・覚えてたんですね・・・。」
高3の秋、彼の花展に行った時、控室でのことだった。
「うん・・・そりゃね。コンテストでいつも一番ギラギラしていたから。」
心臓が全身を震えさせるように高鳴っていた。
彼は俺が今年受験生だと知ると、華道に固執するよりは、堅実に大学に進学するべきだと助言した。
案外まともなことを言うもんだなと思いながらも、どこか私情を感じたが、控室のテーブルに申し訳程度に置かれていた花を、愛でている姿に見惚れていた。
「君・・・私のこと好きなのかい?」
不意に脈絡のないそんな言葉が飛んできたので、俺はさっきまで爆音のように聞こえていた自分の鼓動が、停まった気がした。
凝視していたけど、何も返す言葉は思いつかなかった。
そんなことを知られるつもりもなければ、言うつもりも一生ないことだからだ。
凍り付いた空気の中、彼は静かに立ち上がって俺をじっと見降ろした。
「私は・・・桐谷くんの作品が好きだ。君に触れてしまったら、きっとその作品は色も形も変えてしまうだろうね・・・。」
目の前に立って話している時田桜花を改めて見据えて、その穏やかな顔つきと、サラリと流れる黒髪と、今にも消えそうな声を発する唇と、一ミリも自分を受け入れそうにない心が仕舞われた胸板を見ていると、実在していることに、そこにいることが怖くなった。
彼を想って、渇望して作品を手掛けて、彼の人間らしさを調べては、触れたいと夢想していた。
いつしかそれは、色欲にまみれて・・・
その時彼は、あろうことかそっと白い右手を、俺に触れようと出した。
俺はやっと取り戻したドクンと脈打つ鼓動に引き戻されて、脱兎のごとく控室を飛び出した。
走って走って走り倒して、喉から血の味がするまで駆けて、ヒューヒューと息を上げて、肺がちぎれそうになる痛みを押し殺すように、ゴクリと生唾を飲んで道端にへたり込んだ。
18年間生きていて感じたことの無いものに、身震いして自分自身に気持ちの悪さを覚えた。
頭の中にある時田桜花の顔を消し去ると、今まで作ってきた自分の生け花が、ドロドロと欲にまみれるかのように溶けていった。
それからはがむしゃらに受験勉強に励んだ。
あまりの急な切り替えに両親も困惑していたけど、確実に学力を上げて、東京の国立大学を受けることも了承してくれた。
俺は普通の生活をしてこなかったんだなと、その時ようやく我に返って気付いたもんだ。
あの控室で、生まれて初めて覚えた感覚。あれは快楽に溺れるための欲情だった。
彼があの時差し出した手から逃げ出さなければ、今頃俺は、一回り以上も年上の男の妾になっていただろう。
あれはさしずめ、りんごを差し出す蛇だった。
走らせていたペンを止めて、冷たい勉強机に突っ伏す。
時田桜花は俺を突き落としたかったんだろうか。
それとも、違う色を見せてほしいとでも思ったのだろうか。
何にせよ言えるのは・・・18歳の少年に手を出そうとしていたなら、間違いなくクソ野郎だということだ。
はたまた、そう思える現実的な思考を望んでいたんだろうか。
「色欲・・・強欲、怠惰、暴食、憤怒、嫉妬、傲慢・・・ふん・・・俺にはどれもないと思ってた・・・。」
恐らくは、そんな人間存在しないのだろう。




