豊臣秀吉の民話① 【伊和志津神社の虎】
この民話は、複数の出典元から【戦国乱世検定協会】がまとめた話です。
子供でも読める様に、一部の漢字には“ふりがな”を振ってあります。
理解し易い様に補足として注釈を設けました。
安土桃山時代に、加藤清正という戦国武将がいた。
清正が朝鮮出兵をした際に、主君である太閤・豊臣秀吉への献上品に、虎を生け捕りにして連れ帰った。
しかし、秀吉の居城である大坂城内で、獰猛な虎を飼うことは危険だったので許されなかった。
そこで、広大な敷地を持つ伊和志津神社が選ばれ、境内の隅にある藪の中で飼うことにした。
虎の世話をするのは、神社がある伊孑志村の猟師と村人となった。
ところが虎は肉食だが、その頃の日本では肉食の習慣が無く、餌となる肉を簡単には手に入れることが出来なかった。
村人達は、毎日の様に犬を捕まえては虎に与えていたが、暫くすると伊孑志村には一匹の犬も居なくなってしまった。
腹を空かした虎が暴れ出しては大変なので、虎の世話をしていた猟師は、しかたなく自分の飼っていた猟犬を餌にすることにした。
「すまんな…虎の餌になっておくれ。」
と言い聞かせて、愛する猟犬を藪の中にある虎の檻に入れた。
すると、その猟犬は一気に虎へ駆け寄り、虎の喉笛に噛み付いて離そうとはしなかった。
これに驚いた猟師と村人達は、太閤様への献上品の虎に、もしものことがあっては大変だと思い、何とか犬を虎から離そうとしたが、如何することも出来なかった。
慌てた村人が大坂の奉行所へ駆け込んで、事の次第を恐る恐る役人に説明をすると、
「なに、虎が犬にかぶりつかれておるだと?
そんなものは虎ではない!
猫にでもなったのであろう。
捨て置け!」
と言われてしまい、止むを得ず神社へ帰ってみると、虎は既に死んでいた。
何のお咎めも受けずに済んだ村人達は、もう虎の餌で心配をすることも無くなり喜んだ。
そして、伊孑志村には再び犬が駆け回り、鳴き声が聴こえる様になった。
この後、伊孑志村は虎との縁で“イトラシ村”とも呼ばれたと伝わる。
【注釈】
①加藤清正(1562~1611年)
安土桃山時代の戦国大名。
遠縁に当たる近江国長浜の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に170石で仕え、賤ヶ岳の合戦で戦功を上げる。
九州征伐の功績により、肥後半国19万5千石を与えられ熊本城を築いた。
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦し、第二軍主将や右軍先鋒を務めて活躍をする。
この朝鮮出兵の活躍により、江戸時代に浮世絵(武者絵)で“加藤清正の虎退治”が描かれ人気を博す。
関ヶ原の合戦では東軍の徳川家康へ味方をし、戦後の論功行賞で肥後国熊本52万石を与えられた。
②豊臣秀吉(1536~1598年)
安土桃山時代の戦国大名で天下人。
尾張国那古野の織田信長に仕えて頭角を現し、出世をする度に木下藤吉郎・羽柴秀吉と名乗りを変えた。
信長に従い近江国小谷城の浅井長政を破り、戦功として近江国の長浜城主となる。
本能寺の変で信長が重臣の明智光秀に殺害されると、秀吉は中国大返しをして山崎の合戦で光秀を破り畿内を平定する。
清須会議の後、織田家中で最大勢力となった秀吉は、賤ヶ岳の合戦で織田家筆頭家老の柴田勝家を破り北陸・伊勢を平定する。
摂津国に大坂城を築き織田家を凌ぐ力を持った秀吉は、信長の次男・織田信雄と徳川家康と対立する。
羽柴軍と織田・徳川軍は小牧・長久手の合戦で衝突するが、膠着状態から織田・徳川軍の奇襲を受けた羽柴軍が敗退した。
秀吉は信雄と家康と和議を結んで撤退し、紀伊・四国・越中征伐をして勢力拡大を図った。
朝廷より左近衛権少将・権大納言・内大臣・関白・太政大臣の任官が続き、正親町天皇から豊臣姓を下賜され豊臣秀吉となる。
これにより主家の織田家より地位が上となり、織田政権は終焉を迎える。
豊臣政権を樹立した秀吉は、九州征伐を行い伴天連追放令を発令する。
京の北野天満宮で千利休らを茶頭に北野大茶湯を開催し、黄金の茶室を披露した。
京屋敷として聚楽第を築いた秀吉は、関東・奥羽の諸大名に対して惣無事令を発令する。
惣無事令に背いた北条氏への小田原征伐と奥羽仕置を行い、秀吉は天下統一を果たす。
豊臣政権として秀吉は数々(かずかず)の政策を打ち出し、太閤検地・刀狩令・海賊停止令・人身売買禁止令・百姓逃散禁止令などを発令した。
弟の豊臣秀長と次男の豊臣鶴松の病死後、秀吉は甥の豊臣秀次を養子にして家督と関白を譲り太閤となる。
太閤となった秀吉は唐入り(明国征服・朝鮮国服属)の為、肥前国に名護屋城を築いた。
朝鮮出兵は二回(文禄・慶長の役)に亘り行われたが、失敗に終わり明国まで至らなかった。
、その間に秀吉の三男・豊臣秀頼が誕生し、秀吉の隠居所として亰に伏見城を築き、秀頼と秀頼生母の淀殿と移り住んだ。
関白の秀次を謀反の疑いで、剃髪をさせ蟄居を命じて自害させた。
秀次が亡くなった後、聚楽第を破却して洛中に太閤御所を築いたが、参内時の滞在のみで移住することは無かった。
醍醐寺の再建を命じて庭園造営や境内に桜700本を植樹し、1300人を招待客として醍醐の花見を開催した。
③朝鮮出兵(文禄・慶長の役=朝鮮の役)
文禄の役(1592~1593年)と慶長の役(1597~1598年)の2回に亘って行われた日本と大明帝国・朝鮮国との戦役で、16世紀における世界最大規模の国際戦争となった。
日本の天下統一を果たした天下人の豊臣秀吉は、「唐入り」と称して大明帝国の征服を目指したが、秀吉の死により失敗に終わった。
④伊和志津神社(兵庫県宝塚市伊孑志1‐4‐3)
延長5年(927年)の【延喜式神名帳】(『延喜式』九・十巻)には、大社として記載がある古社として知られる。
延喜元年(901年)に成立した『日本三代実録』には、貞観元年(859年) 従五位下を授かると記載があり、創建年は不明だが古くから朝廷と関りがあったことが判る。
御祭神は須佐男命で、厄病災難除・学問・縁結び・開発生産の神とされる。
伊孑志・小林・蔵人・鹿塩の四村を領下の荘と呼び、古来より宝塚(たからづか)の総鎮守となっている。
昔は“伊和志豆”と記されていたが、明治時代の中頃以降 に“伊和志津”に変わったとされる。
本殿は宝塚市指定の文化財で、3千坪の境内は宝塚市指定の保存樹林となっている。
虎のデザインとなっている御朱印がある。
2022年に民話をまとめた物語で、念の為に二次創作のジャンルにしています。
【参考資料】
・「宝塚の民話」宝塚市役所HP
・「言い伝え」伊和志津神社HP
・「伊和志津神社」宝塚市国際観光協会HP
【画像参考】
・『朝鮮之役加藤清正猛虎ヲ撃』楊州周延
・『加藤清正朝鮮国ニテ猛獣ヲ退治スルノ図』珍齋呂雪
・『豊臣秀吉像』高台寺所蔵
・『豊臣秀吉像』名古屋市秀吉清正記念館所蔵
・『加藤清正像』勧持院所蔵
・『加藤清正像』名古屋市秀吉清正記念館所蔵
・『佐藤正清(加藤清正)軍配之図』歌川国綱
・『真柴大領(豊臣秀吉)三韓退治』月岡芳年
・「伊和志津神社の御朱印」ホトカミHP
・イラストボックスHP他
【調査・執筆・編集スタッフ】
①調査:高山大輔(戦乱検)
②資料:東號(百雲斎)
③執筆:髙山馬蘭
④編集:ヤポン・ヒロチ(EP)
⑤校正:上月ハリマ
⑥加工:GON