1-4:
午後六時。もうすでに夕陽は落ち、空は暗くなっている。
医務室のベットで目を覚ました少年は、今日の試合のことを思い出すとスリッパも履かずに駆けだしていた。
「あっ、ダメですよまだ寝てないと」
着の身着のまま飛び出すと、癖のない艶やかな黒髪を揺らしながら手当たりしだいに声をかけた。
「すいません、Bブロックの予選はどうなりましたか?」
青い検診衣姿に一瞬眉を顰めるも、組織委らしい中年の男は、こちらの顔を見てああと得心した。
「朝来野晶くんか。もし決勝トーナメントに興味があるんなら、今ちょうど組み合わせ抽選が」
すべてを聞き終える前、アキラは駆けだしていた。立て看板に沿って、抽選が行われている特別シートスペースに向かう。
走っている最中、考えていることはたった一つ。あの、真っ黒なフードを被った剣士のことだった。
衝撃的だった。
能力は使わず、ただその肉体だけで突っ込んでくる技量、こちらの思考さえ見切っているのではと思わせるような、淀みない滑らかな動き。
この自分が、まるで赤子のように遊ばれた。
それも――おそらく同年代と思われる人間に。
筋肉の薄い若年層特有の肉体と、少年の名残りがある甲高い声、そして子供のような煽りは見られることを意識するプロではない。
若手。それも自分と変わりない年頃。そう思ったとき、アキラの身体は走っていた。
「あ、あの! 抽選って終わりましたか」
膝に手をついて息を整えると、会場設営係であろう女性職員はすでに片付けを始めていた。
選手や撮影班の姿もなく、赤い絨毯の敷かれた特別シートルームは普段と変わりない雰囲気を取り戻している。
ポッと頬を染めた彼女に無理を言って、決勝トーナメントの組み合わせを見せてもらう。
(たしかアークって)
Hブロックまである予選は、上位二名が決勝に進むことができる。
アキラが所属していたBブロックの勝者は、吉田工業所属の鴨志田疾風と――負傷棄権だった。
バトルロワイヤル形式の予選会では棄権ということも珍しくない。だが、アキラを圧倒した彼が負傷しているとは到底思われなかった。
「あのー、もしよかったらお茶でも……」
「すいません。予選のアーカイブってどこで見られるんでしょうか」
「へっ? あ、はい。それがBブロックの予選ですごい衝撃波が起こって、カメラが壊れてしまって。だから、それ以前の試合しか配信しないそうです。あっ、もちろん決勝トーナメントでそんなヘマはしませんよ!」
アキラは眼鏡の職員から残っている選手の居場所を聞き出すと、再び走り出した。女性職員の悲哀まじる名残惜しげな声が流れた。
アキラは一段飛ばしで一階の選手関係者待合室へと向かった。しかし、すでに大半の選手が帰途に着いたのか、係員が闊歩するだけでもぬけの空だ。結局医務室の前に戻ると、壁に手をついて荒い息を吐いていた。
「あー、そうですか。ではやはり棄権ということに……はい、はい。それではお大事に。はいそれでは。
ってアキラじゃないか。また勝手に抜け出したな。本当、怒られるのは自分なんだけど」
電話を切りながら医務室から出てきたのは、アキラの所属するユースチームのアシスタントマネジャーであった。
アキラは名前を思い出そうとして、やめた。元々人名を記憶するのは不得手であり、そもそも知ろうという興味もない。最初から覚える労力を省くのが彼なりの処世術であり、リソースの管理術であった。
「ああ、これね。ほら、一応自分も協会所属だから、押し付けられちゃって」
困ったように笑う彼は、三十路ながらも日本MMA協会に属するエリートだ。聞けば、予選突破者が負傷棄権するかもしれないということで、病院にいる相手と折衝交渉に当たっていたそうだ。
冴えない三角ベースのような顔だが、高校一年生という歳でツアーに挑戦できたのは彼の尽力が大きかった。
「それより残念だったね。せっかくのツアー初挑戦だったのに」
「……いえ、あれが自分の実力ですから。話が変わるんですが、アークという名前に聞き覚えはありますか? Bブロック予選の出場者なんですが」
「アーク? 日本人じゃないよね」
彼は無精髭を撫でてから、端末の出場者名簿を検索した。
「あだ名、かな。他に特徴はある?」
「背はボクよりも少し上で、より細い感じです。歳はたぶん、ほぼ変わらないかと」
「なるほどね。で、アキラはその彼がどうしてそんなに気になるんだい?」
「負けた、からです」
不意を突かれたのか、三角ベースは端末から顔をあげた。
「は、ははは。それはなんの冗談だい? 同年代で君に勝てる相手なんて……」
「ボクは真剣に言っています!」
アキラが壁を叩きながら叫ぶと、茶化したように笑っていた男はビクっと肩を震わせた。
「はは、ははは。ご、ごめんね。えっとそれじゃあ、もう少し探してみるから」
「……いえ、ボクこそ感情的になってしまって」
「ああ、うんいいんだよ。自分こそ試合後なのにデリカシーが足りなくてごめんね。
ああもう、こんなだから肩書きからアシスタントが取れないんだって言われちゃうんだよねぇ」
強面のトップチーム・マネジャーを思い出したのか、男はとほほと頭を掻いた。それからあっと手を叩くと、内ポケットから小包を取り出した。
「そういえば部屋にお見舞いの品が届いていたよ。ほら」
MMAでは、予選において珠玉の活躍を示したものの、武運なく敗退した選手に贈物をすることがある。
彼は大会特製ボールペンの入った箱を手渡すと、付属のメッセージカードを見て笑った。
「朝来野ショウさんへ? はは、彼漢字が苦手なのかな」
「送り主は誰なんです」
「Bブロックのスーパーラッキーボーイだよ。主催側もひっくり返ってたし、自分もこのレベルでイモりが勝つなんてびっくりさ。ああ、そういえば彼もアキラと同じ年頃じゃないかな?」
「はあ、そうですか」
同年代といわれ、一つ思い当たったのが待機場で遭遇した少年のことだった。
その印象は、端的にいって奇妙だった。頼りのないヘラヘラした笑顔を義務のように貼り付け、何事にも怯えたように身体を小さくしている。そのうえ、まるで幽霊でも見えているかのように、目をぎょろりと動かしつづけているのだ。
女性には――アキラは男だが――好まれないタイプだろう。自信漲る黒づくめとは大違い。そう言い切れるはずなのに。
(まさか、そんなわけ)
なぜだろうか。あの黒尽くめに、どこかその印象が重なるのだ。体格や背格好、声の調子、すべてが符合してしまっていた。
アキラはメッセージカードをひっくり返し、名前を確認する。知らず、声を弾ませる自分がいた。
「夏目、トオル」