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1-1:

「えっと……クビ、ですか?」


 窓の向こうには光の輪がうすい雲に描かれている。二月の風がびょうと吹き、立てつけの悪い事務所の窓を叩いていた。


 そんな季節にもかかわらず、空調の効いていない部屋で一人の少年が恐縮そうにたたずんでいる。


 ノリの利いた、それでいて糸のほつれた中古の制服、履き慣らされた学校指定のローファーは前がぱかりと開きそうだ。肌寒い季節だというのにコート一つさえ持たず、先ほどまで冷気を切らせていたのか鼻の頭を赤くしている。


 声を発したその彼――夏目透の声に反応する者はいない。いつもは猥雑としている事務所の喧騒は、今日にかぎって静かだった。


 そんな彼に、冷たい視線が注がれていた。安っぽい鋼鈑性の机を挟んだ向こうでふんぞりかえる人相の悪い男が鼻を鳴らす。


 ビール腹が苦しいのか、スラックスの第二ボタンまでを開けている。粘着質そうな眉の剛毛が、ぴくぴくと蠕動を繰りかえす。そんな、典型的な中年である。


 そんな禿頭の男は、オフィスチェアを軋ませながら、「社長」とかかれたネームプレートを投げつけてきた。


「ヘラヘラすんじゃねえ、殺すぞ」


 トオルは慌ててその貼りつけた笑顔を引っこませた。


「俺はよぉ、テメェを育てるために色々融通してやったよなぁ。知ってるか? そいつはなあ会社の金なんだよぉ!

 それなのにお前ときたら、中三のとき拾ってやってから来る日も来る日も予選落ちしやがって。ああ、この穀潰しよぉ、聞こえてますかぁぁぁ!」


 トオルが「す、すみません」と小さくなっていると、後ろから金髪のうさん臭そうな男がタイを締めながらやってきた。


「係長ー、安永にもなってパワハラはやばいっすよー」

「うるせぇ! 社長と呼べ、社長と」

「いや、っすけど……」

「せっかく回してやった実況配信で意味わかんねぇセリフばっか吐きやがって。しかも、黄昏の即撃トワイライト・エクスプレスだぁ? 電車かっつーの。

 だあくそ、あんだけ宣伝して回ったのに総視聴者数三人って。機材だけで大赤字だぜ。おら、なにボサっとみてやがる。てめえも怒鳴られてぇのか!」


 激しい怒りを浴び、古参の事務所職員が営業に逃げだした。


 社長はその背中にノルマを言いつけると、ぐるんと首を回してから机を勢いよく叩いた。


「テメェはさっさと消えろ」

「えっ! あの、それは……」

「非ナンバーズの分際でガタガタ吐かすんじゃねえぇっっ!」


 社員証と国民証を剥ぎ取られ、トオルは事務所の入る五階建てのビルから追い出された。


 チン、と音を立ててエレベーターが一階につく。通りはいつもと変わりなく、背広姿の会社員が闊歩していた。


 終わった……。


 地下鉄を通り過ぎ、片道十五キロはある外区への道のりを進む。手を組むカップル、年老いた老婆が国民証片手に地下へと消えてゆく。もちろん、トオルには自動運転のタクシーを呼ぶ金もない。諦めてその足を酷使していた。


 明日のこと、来週のこと、来月のこと。想像することさえ億劫になってくる。慢性化しつつある睡眠不足が思考に靄をかけつづけていた。


「……はぁ」


 帰途についたはずだったが、気づけば河川敷の土手に立っていた。


 積まれたブロックのうえにずるずると座りこむ。一緒に暮らす幼馴染たちへ何といえばいいのだろう。一家の大黒柱である自分は今日からただの無職だ。反対側の土手で銀色の何かが横切る。アイロンの掛かった一丁羅にも構わず、呆然と摩天楼のようなビル街を仰いでいた。


 ここ最近、いつもこうやっている気がする。


 努力する気もなく、かといって家に帰ることもない。何もしないことを繰り返している。ぶらぶら、ぶらぶらと。リストラされたことをごまかす中年サラリーマンのように。


 いや、今日からはそれも間違ってはいないのだ。トオルは無理に笑おうとして、それで頬が引きつるのを感じていた。


 そのとき、内ポケットの社用端末がピロンピロンと音を立てた。


 ファンが開設してくれた応援サイト「インビジブルズ」、その掲示板の通知案内だった。


(これも最後、か)


 表面の油脂を拭ってから、画面をタップする。最新の脳波感応型ではない格安端末は、主人の望むままにコメントをポップさせた。


ハヤシ:『いやぁー、今日のは強烈だったねぇ。まさかまさか、そっちの方向に舵を切ってくるとは。魔法ですら科学と定義した人類にとって心理学こそ最高最大の謎であるというけれど、彼の中身はまさにそれだな』


スプリング:『透くんってこういうのが好きなんだ』


ハヤシ:『おや、おやおやおや? 今日はいつもより歯切れが悪いじゃないか。もしかして君、解釈が一致しなかったのかい? まさか、最古参といつも威張っている君が』


スプリング:『そんなことありません』


ハヤシ:『おいおい、正直になりなよ。本当は幻滅したんだろう? 本当は嫌いになったんだろう? 素顔が実に子供っぽい。いや、まさに子供そのものなことに』


スプリング:『どんな素顔でも私は気にしません。勝手に決めつけないでください』


ハヤシ:『あぁ、こわいこわい。返信の速さを見ていると、君が端末の前で齧り付いている光景が目に浮かぶよ。こんなのが同担だなんて、私の人生はガロア以下だな』


ユー:『私も?』


ハヤシ:『ああ、ごめんよユー。君はインビジブルズの良心だ』


ユー:『よかった』


スプリング:『よくありません。勝手に話を進めないでください』


ハヤシ:『相変わらず君は負けず嫌いだなぁ。頑固というかなんというか。よし、それじゃいつもの勝負といこうじゃないか』


スプリング:『望むところです』


ハヤシ:『……誘っておいてなんだけれど、君は懲りることもないんだなあ。いままでを思い出してみなよ、見事に全敗だろう? まあいいよ、その自信をブラックホール並の超重力で圧し潰してあげようじゃないか。ほら、一つ目は武蔵野オープン限定クリアファイルだ――添付”21890115OneUp.PNG“――』


スプリング:『あるに決まってます――添付”写真.JPG“――』


ユー:『これ? ――添付”トオル52.PNG“――』


ハヤシ:『ふーん。ま、これぐらいは――』


 と、延々つづいているやり取りにトオルは今日最初の微笑みを浮かべていた。


 画面の向こうにいてくれる彼女たち。いや、男か女、それとも第三性かわからないのだが、つまりは契約選手としての活動を支えてくれたファンたちだ。そんな彼らが今日も欠かさず応援してくれていたことに心が暖かくなる。こんな取り柄もない自分を。


 画面を眺めていると、何かが内から込み上げてくる。すっと冷たいものが頬を濡らした。


 ――逃げちゃだめだ。他の何から逃げたとしても、ここにいるみんなにだけは。


 そう自分に言い聞かせる。トオルはごしごし目を擦ってかじかむ指をスライドさせた。


夏目透:『今日の配信を見ていただきありがとうございました。そしてもう一つ、皆さんにお知らせがあります。後日事務所の方から正式な発表があると思うのですが、私、夏目透は個人的事情から事務所を退所することになりました。今後の予定は未定ですが……』


 文字を入力していると、ふと画面上部から通話の通知がやってきた。


 相手には夏目孤児院とある。嫌な予感がしつつも、透は通話のボタンを押した。


『と、トール! い、いま大丈夫!?』


 逼迫した叫びに慌てて端末を遠ざけた。


 キンキン甲高い音が脳みそを揺さぶる。電波の向こうから聞こえてくる声は、いつもよりもうわずっている。


 また胸の奥が重くなって、トオルは空いた手で目を覆った。


「ひかり? 急にどうしたの?」

『和が、和が怪我して、それで血がいっぱいでっ! それでそれでねっ、けーさつの人から電話がかかってきて、それで先生がっ!』

「落ち着いてひかり。一度深呼吸しようか」


 トオルは無理やり優しい声を出して、すーはーと見本を見せる。

 電話から流れてくる呼吸を耳にしながら、痛くなった首を摩った。


「それで、政和がどうなったの?」

『そ、その、紅龍(レッド・ドラゴン)との抗争で。そ、それでね、出すつもりがあるなら連絡しろってけーさつの人が……』

「わかった。留置所は同和地区担当のあそこだよね」


 それっきりトオルは通話を切る。そして大きく息を吐き、ブラウザを立ち上げた。


 政和、という名の義弟が捕まるのは、これが最初ではなかった。もう慣れたこと。担当の警官とも顔見知りの仲だった。


 向こう側としても、拘束を続けたい理由などないことは知っている。半グレの、それも外区の抗争など鎮圧したところで上司からお褒めの言葉を頂くぐらいだそうだ。トオルとしても、冷たい留置所に家族をとどめ置く理由などない。迎えにいくこと自体には問題がないのだが、ネックとなるのは保釈金――という名の罰則金――の額だった。


 明日の昼食さえ困るトオルにとって、たった数千円でさえ死活問題になる。経歴不問と書かれている当日支払いのアルバイト情報を必死で検索した。


「あの、もしもし。求人情報を見たんですけど……」

『ああ、アルバイトの人ね。面接希望日と国民番号からお願いね』

「あ、えっ、そ、それ……なんですけど」


 口籠もる意味を察したのか、眠そうな声が一変した。


『っち、非ナンバーズかよ』


 割れるような音がすると、ツーツーと電子音が繰り返される。落ち込まない。こんな対応は、事務所に属するまではよくある話だった。


 何度も諦めずに電話をかける。皆愛想良さげに応対し、こちらの事情を察すると即座に態度を切り替える。


 まるで人間ではないようだった。惨めな感情が心の中で熟成されてゆく。けれど、このまま帰っても待っているのは具のないスープだけ。そしていずれ器だけになるのだろう。幼馴染たちの泣き顔がありありと想像できた。稼ぎの多くは自分が占める。折れそうになる心を叱咤し、電話をかけ続けた。


「あ、あの、笹川通販さんでしょうか? えっとその、求人情報を見て電話したんですけど……」


 数十分後、ふとある会社が耳を傾けてくれた。


 非ナンバーズをまともに扱ってくれる人間は少ない。やった、就活成功だ。満面の笑みを浮かべながら、拳を振り上げてガッツポーズした。


 見透かしたように、相手は言った。


『あ、そうそう。時給は表記の半分だからね』


 何を言われたのか一瞬わからなかった。トオルが喉を詰まらせていると、男はとうとうと続けた。


『なにか文句でもあるかい? 君はむしろ幸せなんだよ。雇ってもらえるだけね』


 トオルは項垂れていた。すべての気力がうばわれたようだった。反論する気にもなれず芝生の上に膝をつき、気づけば機械のように、はい、はいと首を動かしていた。


 相手の男には一切の敵意がなかった。


 あるのはただ、こちらのことを害虫だと思うようななにかだった。


 青少年は禁止されている深夜業務と、表記時給の半分で話はまとまった。明日行けば、同じような立場の人に出会えるのだろう。そしてそれは、より非合法の労働につながっていく。よくある話、もう何度もあった話だった。


 自分だけが恵まれていないわけじゃない。それだけが慰めで、それこそが虚しくて。ただ呆然と空を見上げていた。


 日が沈み、世界は滴るような赤に染まっている。


 逢魔がとき。昼と夜が移り変わる時刻。古くから魔物に遭遇する。あるいは大きな災禍に遭うと信じられていたらしい。


 馬鹿馬鹿しい。トオルはそう思わずにいられなかった。彼にとって恐ろしいのは、魔物などよりも明日の飯の種だった。


 川面に向かって石を投げる。水面を石が跳ねた。やがて勢いを失い、ぽちゃりと水の中に落ちた。十メートルもない川幅さえ飛びこえられない。それが現実だ。高層ビルの立ち並ぶあちら側と、寂れた外区のこちら側。岸の向こうには、どうやったってたどり着けない。


 技量もなく、金もなく、まともな身分さえない。


 優れた容貌もない。


 学力も、友人も、師さえも、信じられるものは何一つとして持ち合わせていない。


 あるのは、傷を洞穴の中で舐め合う家族だけ。ある日突然、何かが自分を救うことなど起きようはずもない。勝手に激変するのは、法律か税、あるいは自分以外の才能あふれる者たちだろう。


 人は平等ではない。どのような偉人も、自由であれとはいっても平等という理想は唱えなかった。どんな人間にでも価値があるなど嘘だ。そんなことを素面でいえるのは、物を知らぬ乙女か、もしくは稀代のペテン師ぐらいだ。


 だから、MMAに賭けた。たった一度の成功、中学時代の栄光が見せた儚い楼閣にすべてを託した。一歩か二歩の渡川が、それだけがトオルに許された夢だった。


 こんな自分でも、まともな人間になれると信じたくて。


「あっ……!」


 手から零れた携帯が土手の斜面を転がってゆく。ぽちゃんという音を耳に、トオルは慌てて滑りおりた。


 誘われるよう水に入る。二月の川は冷たかった。肌を刺す痛みが下半身を襲っている。柔らかい砂に脚が埋まってゆく。


 それでも何かにもがくよう、ざぶり、ざぶりと無心で脚を動かそうとした。


『お前、んな情けねぇツラで寒中水泳か? 自殺志願者かなんかかおい』


 ふと、岸辺の方から声が降ってきた。濡れた顔をゆっくりとあげる。


 そこでトオルは、はっと息を呑んだ。


 彼岸には、本当にあの世へ迷い込んだかと思うような光景が広がっていた。


 腕を組んで見下ろしていたのは、百八十を超える白銀の甲冑であった。


 夕日に照らされ、煌々とその光を反射している。背負う大剣は深い闇ですら切り裂いてしまいそうなほど巨大で。


 そしてなにより、その何者かの背後が明々と映っていた。


 一眼でわかる。理解させられる。


 生きていないと。この世に存在していないのだ、と。粒子が集まったようなその存在は、まるで王のようにトオルを見定めていた。


『へえ。お前、このオレ様が見えるのか。こりゃ珍しいこともあるもんだ』

「キミは、だれ?」


 ふと湧いた言葉は、この場にふさわしい質問ではなかった。


 どうしてそんな時代錯誤な格好をしているのだとか。どうして透けているのだとか。聞くべきことはいくらでもある。


 いや、深瀬で脚を取られているトオルには、もっとやるべきことがあった。川から出るだとか。携帯を探すだとか。


 こんな正体不明の何かにかかずりあっている暇などない。しなければならないことだけは無数にあるのだ。けれど、トオルはそれに焦点を合わせていた。


『オレ様の名か? ふん、そういや最近名乗ることも減ったな。なんだか懐かしいぜ。いいかガキ、その耳かっぽじってよく聞きやがれ!』


 白銀の甲冑がその長大なる大剣を引きぬく。


 刀身二メートルを超える鋼は鈍色に輝き、キラキラと水面に反射していた。


『オレ様はアーク。世界に光をもたらす者、勇者アークだ!』




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