3-4:
カチ、カチ、カチ、カチ。
小刻みに何かがぶつかり合う音が響いている。
寝ているときも、食事をしているときも。訓練を終え、シャワーを浴びてリラックスしているときもだ。
それが、己の奥歯の音だと気付いたのはごく最近だ。
アキラは、チームメイトに苛立ちを悟られぬよう、ひっそりとシャワールームから出た。
「よぉお坊ちゃん。最近調子はどうだい」
洗面台の前で髪を乾かしていると、背の高い細身の男が肩を叩いてくる。ヘアドライヤーを置いたアキラは、
「別に変わりありません」
と、櫛で髪を梳きはじめた。
心の澱が攪拌してゆく。正面切って「お坊ちゃん」などと呼ぶ人物が、一人しか思い当たらなかったからだ。
彼は三つ上、現在都立の大学に通う同じユース所属の選手だ。名を清水健太といい、父、祖父の代から選手として名を馳せたスポーツ一家の長男であった。
爬虫類にも似たのっぺり顔にわざとらしい笑みを浮かべ、なれなれしくも隣の椅子にて脚をくんだ。
「そうつれないことを言うなよ。おれのプレイスタイルが人に好かれないことは重々承知しているがね」
アキラは内心舌打ちした。昔から「お嬢」だの腹立たしい男だったが、清水よりも早くツアー参戦が決まって以来、ことあるごとに絡んでくる。
周囲はいさかいを恐れてか、さっさと逃げ出していった。
「アンダー十八に何の御用ですか」
清水はいやらしげな笑みで応じた。
「このおれもようやくトップチーム昇格が決まってね。随分世話になったから、その挨拶だよ」
「それはおめでとうございます」
「おいおい、社交辞令はやめてくれよ。怪我人の補充要員でしかないんだ。どうせすぐに出戻りさ」
清水は肩に腕をまわしてきた。
「おれたちはクラブ期待の星だ。そう角を突っ立てず仲良くやろうぜ、お坊ちゃん」
アキラの耳元で二股の舌が音を立てる。おぞましさと苛立ちで、思わず舌打ちしていた。
そもそもこの男は、「お坊ちゃん」がどれだけアキラを苛立たせるか知って口にしているのだ。人材秘匿や育成が重要視される現代、名門出のアキラが本家の道場ではなく、ユース所属な時点で確執は疑われて然るべしだ。父との不仲は、週刊誌にも書き立てられるほど有名だった。
「そういや聞いたか。最近、裏闘技場で“最強”を呼号する馬鹿が出たらしい」
よっこいせと立ちあがった清水は、爬虫類のような感情のない笑みをうかべた。
何の関係があると視線を送っても、まるで気にした様子がない。
プレイスタイルが蛇のように執念深いと評されるだけあって、プライベートもまた粘着質だった。
「捕まりますよ」
「おいおい、チンケな遊びはとうに脚を洗ったさ。おれはあくまで、世にあまねく強者を知りたいという純粋な好奇心で言ってるんだ。お坊ちゃんも気になるだろう。この世界じゃ、最強って言葉は軽くない」
アキラは腕を組んで苛立ちをあらわにする。
喉の奥まで、失せろという言葉が出かかっていた。
「夏目何某とやらの試合映像を探してるんだって?」
悔しいことに、ピクリと反応してしまう。清水は醜く頬をゆがめた。
「まあ、そいつは面倒だよな。なにせ相手にはロクな戦績がない。せめて県大会クラスまで出てくりゃアーカイブが残ってるもんだが、地方のオープン戦じゃなかなかそうはいかねえ」
「なんの話かわかりません」
「けど、おれの門下に右近っていうカスが居てな。ちょうど、その何某とやらと同じ城附なうえ、どうもおもしろいことを言ってやがる」
武術よりも話術に長ける男、そう評価していたのをアキラは思い出した。切り出し方、情報の並べ方、腹立たしくなるほど引き込まれる。
彼の頭脳戦というより心理戦的な闘い方は、アキラも苦手とするところだった。
「なんでも一月見ない間に驚くほど強くなったとか。カスとはいえ、腐っても清水門下。地区大会の予選で消えるような雑魚に一蹴されるほど落ちぶれちゃいない。何かあるなと思ったそいつは、一つ手がかりを見つけたらしいのよ」
「……」
「そいつの兄貴は、血を見なきゃ始まらないような底なしのカスでね。紅指のビータスなんざ名乗って違法試合に出たがる禁治産者さ。とはいえ、腕はそこそこ。間違っても、外区のゴミが束になっても勝てやしない」
この世界から切って離せない、いわゆる戦闘狂というやつだ。
家紋のプレッシャー、競技への恐怖心、あるいは先天的な異常者。それが、人間としての基部を狂わせる。そういった話は枚挙にいとまがない。
いや、選手として身を粉にする連中は、大抵どこかおかしいのかもしれなかった。
「だから、どうしたんです」
「そいつをいとも簡単に屠ったのが“最強”を名乗る馬鹿さ。そのうえ、興味深いことに技がよく似てるんだとよ。その夏目何某に」
「……道場息子としてのプライドですか」
「馬鹿言えよ。気になるのさ。スーパーラッキーボーイの正体がね」
ふん、と鼻を鳴らした清水は不機嫌そうに近寄ってきた。
「師匠筋か、はたまた本人か。仮面の下、暴きたくなるのがサガだろう?」
「……」
「礼はいい。たった一度、決闘を受けてくれりゃあな」
アキラはぎろりとした眼で男をみやった。
「ひえっ、やばいやばい。綺麗な顔してキレると炎みたいな野郎だぜ」
清水は戯けながら、ひょうきんに飛び退いてみせた。
「ポイントを賭けて、ということですか?」
「おいおい、おれはもう高校生じゃないんだぜ。ポイントなんざ意味ねえのは先刻承知のことだろ」
ただのデモンストレーション。そう言って憚らないが、恐らくスカウトか何かを引き連れてくるのだろう。
そして、手の内を完全に研究し尽くしたアキラで、己の実力を見せつけたいのだ。
わかりやすくていい。清水とてプロ候補だ。どれだけ卑怯な手を使おうとも、不正まではできない。
単純な実力勝負。
なら、話は簡単だ。アキラはすらりと立ち上がった。
「ボクはいつでも構いませんよ」
チリ、チリと頭で爆ける音がする。けれど清水ごときで燃え上がりはしないのだ。
アキラの眼は、その先に向けられていた。
§ § §
屈強な男に挟まれながら、トオルは五階でエレベーターから降りる。フローリングの廊下を伝って導かれるまま扉を開くと、本革の応接ソファがガラステーブルを囲む、ヤニ臭い事務所に脚を踏み入れた。
「よう、兄ちゃん。待ってたぜ」
深く腰掛けながら出迎えたのは、藤沢組の若頭であった。咥えた煙草を更かしながら、部下を人差し指で使う。
執務机の横にある黒金庫のダイヤルをひねり、書類やら札束が積まれた中から一つの封筒を持ってきた。それを若頭が机に投げる。トオルは生唾を飲み込みながら、封をあけた。
「約束どおり五十万だ。ま、山川組代理の闘士相手にゃ、少々物足りんかもしれんが」
「い、いえ、十分です」
中には、一万円札が五十枚も入っていた。
手が緊張で震え、いそいそと懐に仕舞うのもおぼつかなかった。
「それにしてもいいのか? アンタが金を取りに来て」
席を立とうとしたトオルを見て、若頭はソファの背もたれに両肘を預けながら、どこか探るよう言った。
「雑務は僕の仕事だと言われていますので」
「ま、話がついてるなら構わんがね」
飲みへ誘われるが、それとなく断って足早に立ち去ろうとする。
切り札があろうと、白昼堂々、大立ち回りするつもりはない。金さえもらえれば用はなかった。
「やっぱ違うか」
ん? と振り返るも、若頭は手でヒラヒラ追い払うだけ。一階で屈強な男たちから解放されたトオルは、フロント企業らしい貴重品売買店を通り過ぎ、ついでにパンフを一枚拝借していった。
往来は二月の木枯らしが吹き荒んでいた。コートを着込む学生や社会人がそそくさと風を切っている。人波に飲まれながら、さきほどのパンフを広げた。
貴重品を取り扱うだけあって、ジュエリーやネックレス、宝飾品などの買取価格がずらりと並んでいる。むろん、用があるのは買取ではない。彼に貴重品など持ち合わせはない。
『なんだ、これ。マジックリングか?』
「腕時計だよ、腕時計」
シルバーが光り輝く腕時計に、機能美よりもヴィジュアル面を追求した近未来的な時計。トオルが現在付けるワンコインのものと比べれば、中古でも眼が飛び出るような値段だ。けれど、決して買えないということはない。手が届く現実的なラインだ。
最近トオルは装身具全般に興味があった。いや、あったのは昔からだろう。ただ、自由にできるお金がなくて買えなかっただけだ。
だから、エルという仮面の魔王が金になり、欲望のタガが外れつつあった。
お金がないから買えない。
つまり、お金があれば買える。
懐には五十万ある。それも、たった一試合のことだ。一試合目は十万だったが、ニ、三試合目が十五万ときての、この額である。
たしかに、貯蓄は大事だ。家族の自立資金や教育費も積立をしなければならない。
けど、十万ぐらいならいいのではないだろうか。だって、次もその次も、いくらだって稼げる。
アークを見れば一目瞭然だ。三分間とはいえ、負ける気はしない。すべてをたった一太刀で葬り去る技量の前には、いかなる敵さえ路傍の石でしかない。
もうまともに学校へ通い、汗水垂らして働くよりも、このまま裏街道の覇王となったほうが楽なのではないか。
トオルはときおり、そういったことを考えるようになっていた。
『なあ、それにしてもなんであのなおみとかいう女の誘いを断ったんだ。いい感じに緩そうだったぜ?』
「なんか、いきなりすぎて」
モテない男は、急にモテだすと混乱してしまう。あまりにも悲しいサガだった。
『手頃だったのによぉ』
「わかったわかった。あとで好きなだけキャバクラでも連れていってあげるから」
『なんだそれ?』
「あー、あんまり知らないんだけど、女の子とお話できるところ、かな?」
『なんの需要があんだよ。突っ込めるとこはねえのか、突っ込めるとこは。ってやべっ!』
「風俗はちょっと……あっ」
気まずげに固まったアークの視線を追い、トオルもまたぽっかりと大口を開けていた。
想像してみてほしい。未成年の高校生が、ひとりぶつくさキャバクラだの風俗だのと言っているところを。
たぶん、誰しもが眉間に皺をよせるだろう。たとえば、必死の思いで街に繰り出した幼馴染の夏目光なども。
「ト、オ、ルーー!」
心細そうにモニュメント前で立っていたひかりは、一転顔をぷんぷんに怒らせて両足で地団駄を踏んだ。
「ふけつ、ふけつ、ふけつ! トールのふけつ!」
「ああいや、これは違うんだよ。さっき通りがけにあった店が変わった名前でさ。どっちなのかなぁっていう、興味本位で」
あまりにも拙い言い訳、それもそれも極めて水売りを嫌うひかり相手に、そんな甘ちょっろいお為ごかしが通用するはずもなかった。
ポコポコと胸を叩かれる。周囲の目を気にして、トオルは必死になだめすかした。
「トール、ふけつ」
クリームを口の端につけながら、クレープを食むひかり。店員に小銭を手渡したトオルは、彼女と手を繋いだ。
餌でもやっとけ、とアークは女子高生の観察に余念がない。物で機嫌を取るって有効なんだなぁと苦笑する自分もいた。
「で、ふけつなトールは何がしたいの」
「たしかこのへんなんだけど。あった、ここだ」
歩調を合わせていた二人は、美容室が入るビルの前で立ち止まった。
二階ビルの外装には、髪をかきあげた美しいモデルが描かれている。茶髪、パーマと艶やかで、枝毛などないように見える。いつも家族同士で散髪し合う人間からしてみれば、遠い存在だ。
「言ってたでしょ。ストレートあてたいって。今日は、お外に出る練習のついでってことで」
無理矢理背中を押す。踏み出さなければ未来は開かれない。ぐずるひかりを諭しながら、そんな真理を思い浮かべていた。
非ナンバーズは悪であり、社会から冷遇される存在である。それはいつの世も厳然と横たわる現実であり、逃れることはできない。
しかし、ただ手をこまねいているだけでは、無意に時が流れるだけだ。
差別はある。侮蔑はある。それを認めたうえで、なお踏み込まなければ、価値のあるものは掴めない。
航海の先には、新大陸が開けるかもしれない。そう願い、ひかりを連れてきたのだ。
「クラスの女の子がね、この系列のお店がオススメだって」
吉永奈緒美という女子生徒のことを思い出していると、ひかりはボソボソとつぶやいた。
「……あんな女なんかに負けないもん」
「何か言った、ひかり?」
「ふん、だ。ふけつなトールはあっちいってて」
ひかりは頬を膨らませ、美容師を押し退けながらシートへ飛び乗った。二、三時間必要といわれ、あてもなく街中をさまようことにする。
しばらく歩いて、公園のベンチに腰を下ろす。風に揺られるブランコが虚しくギィ、ギィと音を立てていた。
社用端末を立ち上げ、ファンサイト「インビジブルズ」を閲覧する。この前の大会で活躍したからか大盛況だった。ファン同士が喧嘩腰なのはご愛嬌だが。
(そういえば最近、開催されてる試合を調べなくなったな)
交通費と参加費は事務所持ちなので、昔は端末に齧り付いてエントリーしたものだった。名残でけたたましく通知を出すそれを、スワイプして消した。
暇つぶしにニュースサイトを巡っていると、一つの見出しが目に入る。「闇に舞い降りた最強の正体とは」と名打たれ、閲覧数やコメント数はまずまずだった。
『お、オレ様のことか、これ』
なんだかんだ満更でもなさそうなアークと二人ネットサーフィンをしていると、ふと、とんでもない記事に出くわした。
裏闘技場の関係者控え室に入ってゆく、制服姿のトオルである。
どうやらこの記事は、出入り口を待ち伏せして正体を推測しようとしているらしい。
トオルは顔を青ざめさせた。正体がバレたからではない。記事内では他にも五、六人候補が挙げられており、重要度が高くない扱いだ。
しかし学生、それも事務所契約選手であるトオルが出入りしているのは、非常に好ましくなかった。
「ひゃっ!」
ぷるぷると携帯のバイブレーションが作動する。
画面上には、社長、という文字が。
タイミングの悪さに、恐る恐る端末を耳にあてる。開始早々、凄まじい剣幕で社長が怒鳴り立ててきた。
『テメェ、どういうことか説明しろ!』