2-5:
茜差す坂道、といえば性犯罪に及んだ後である。顔を真っ赤にさせて悲鳴を上げた彼女に平謝りし、紆余曲折を経て、なぜかトオルは家まで付き添うことになっていた。
「その、良かったの? 地下鉄使わなくて」
「あ、ごめんなさい。疲れたよね。どこかで休む?」
「いや、僕的には助かるんだけど」
「ならよかった。あはは、実はわたしダイエット中なのでした」
鼻歌を奏でていた少女は、気恥ずかしげに頬を掻いた。表情、態度一つとっても、事件の影響は伺えない。いつもの優等生然とした雰囲気ではなく、楽しげに学生鞄を揺らしていた。
古賀遥菜。人呼んで、城附の七英傑と評される生徒の一人であり、城西大附属高校の有名人であった。
ここで、トオルの通う城西大附属の有名人を紹介しておこう。
一年E組、“社長令嬢”古賀遥菜。
一年A組、“城附の虎”長尾景雪。
二年B組、”人間無骨“森貴史。
二年壱組、“登校拒否”雲林院秋葉。
三年C組、”筋肉猛狒“柴田克人。
校庭外れ、“獰猛番犬”ツナヨシ公。
仮眠室、“熱血教師”一ノ瀬馨。
教師だけでなく犬がカウントされていたり、色々と問題児扱いが透けて見える人選だ。なお蛇足として、トオルは”留年候補“として、一時七英傑に名乗りを挙げた時期があった。
とまあ、名誉なのか定かでない称号だが、非公式ミスコンの優勝者である彼女に関しては、まあ真っ当な異名と呼べるだろう。
折り目正しく、清く正しい、かは知らない。ただ、遠巻きにもわかる洗練された挙措と定期考査で度々頂上に名を記すことから、他人を寄せ付けないオーラがあると思っていた。
全校応援が義務な夏冬の大会でもどこか他人事で、いつも静かに読書している。そんな印象だ。
しかし、今目の前であれやこれやと笑い声をあげる少女は、別人かと思うほど天真爛漫だった。
『このアマ、良ぃパイオツしてやがる。おい、最初に突っ込むときはオレ様に代われよ』
相変わらずなアークに、トオルは深いため息をついた。
「どうしたの、夏目くん?」
「あ、いや、なんでもないよ」
夕暮れの犯罪現場。トオルが慌てて謝罪すると、古賀は両手で胸元を隠しながら「事故だよね……うん、そうだよ」と頷くと、しだいに態度を軟化させ「助けてもらってごめんなさい」と頭を下げはじめた。
終いには昏倒した男子生徒Aの側で屈み――実は総体予選のチアリーダーを引き受けてほしいと勧誘を受けていただけで、只の早合点だった――保健室に連れていこうと言い出したときには、さすがのトオルも開いた口が塞がらなかった。
(一周回って莫迦なんじゃ)
もしくは穢れを知らぬ天使か。さっきから、艶やかな髪に天使の輪が輝いて見える。
高貴な翼すら幻視して、ついついトオルは跪かないよう堪えるので精一杯だった。
「それであのぉ、言ってたバイト先の心当たりって――」
「その前に一つ、わたしは罪を告白しなければいけません」
トオルの言葉を遮って、古賀が突然切り出した。
閑静な住宅街は、買い物袋を持った主婦が通り抜けていく。茜色に染まる坂道で、少女はスカートをひるがえした。
「わたし古賀陽菜は、嘘をついていたのです」
少女はにこりと笑うと、今どき古い立て看板が眩しい、白と緑系統の色調で彩られた質素な建物へ案内した。
「ここは?」
「ささ入って入って。お父さん呼んでくるから」
古賀は二人分の鞄を持つと、しゅたたとスキップで農作物が陳列された棚を横切ってゆく。
頭上の看板には、「古賀青果店」と書かれている。
ゴシゴシと目元を擦って、網膜に焼き付く光信号を何度も疑う。けれど何度やったところで、目の前に広がる光景は変わりそうになかった。
『あぁ? お嬢だか言ってなかったか?』
「その、はずだけど」
内装は至って平凡な直売店だった。向かって右手側に鮮度命の農作物、肉が並べられ、左手側に自動精算機がある。入り口前の棚には、今どき珍しい直産野菜が箱詰めになって晒されていた。
地元の居酒屋のような雰囲気だ。よく観察すれば併設されたレストランがある。弁当詰めにした惣菜などを振る舞うのだろうか。
ショッピングカートの並ぶ入り口でボサっとしていると、三十半ばくらいの夫婦が代車を押してきた。
「いらっしゃい。けど御免なさいねぇ、レストランのほうはもう閉店で……あら、あなたどこかで」
店の服装だろうか。シャツの上から青いエプロンを着た婦人は、たおやかな仕草で顎に手を当てた。
「知り合いか由里子?」
「ああいえ、えっとなんだったかしら。ごめんなさいねぇ、近頃物忘れがひどくて。もしかして有名な方だったりするのかしら? 俳優やアイドル? それとも火星の大統領?」
「ああいえ、自分は」
過大評価? され、トオルは慌てて手を振った。
「最近の競技速報か何かで見たんだと思います」
「それはないな」「ないわねぇ」
むっすりとガタイの良い夫と、おっとりと線の細い妻二人は、うんうんとやけに揃って首を縦に振った。
「気にしないで。これは私たちの家のルールみたいなものだから。あら、そういえばその制服……」
「あ、こんなところに。お母さーん!」
「あら、ハル。お帰りなさい。でもだめよ、店に出るなら着替えて来なさいといつも言っているでしょう」
「今は仕事中だ。邪魔にならないようあっちへいってなさい」
「お父さんも。ってそうじゃなくて、ああもう話を聞いてよ!」
結局荷物を持ったまま戻ってきた古賀遥菜が、ぷくぅと頬を膨らませて怒鳴った。三者が顔を突き合わせる。目の位置や角度、表情の作り方など、どことなく似ていた。
古賀家の一族はトオルのことを忘れてやいのやいのと言い合っている。天然の入った母親がかき乱し、遥菜が小さく唸る。たしなめる父親が印象的だった。
『……こいつは。
って、おいうしろうしろ』
立ち尽くすトオルの後方で耳障りな摩擦音がした。振り返った瞬間、ドン、と子供一人分の体重が押し寄せた。
白いフローリングの上でたたらを踏む。ローラースケート靴が見えた矢先、ヘルメットを外した少年は遥菜と同系統の色合いをした頭をさげた。
「ご、ごめんなさい、メットがずれて……!」
「一樹。お客さんになんてことを」
「げっ、母ちゃんと父ちゃん。それにハル婆まで」
「なーにーがー、ハル婆だ!」
「ぎゃー、ハル婆が怒ったぁ!」
遥菜は牛蒡をかかげると、肉用冷凍庫を盾にする一樹少年を追いかけはじめた。訪れていた往年の夫婦は、別段気にする風でもなく微笑ましく見守っている。商魂を売り払ったのか、ごめんなさいねえと古賀母は無料で野菜を配っていた。
消去法で、無骨な初対面の親父と向かい合う。なぜかアークが口をつぐみ、甚だ気まずかった。
「本当に息子が申し訳ないことをした。私は店主の古賀将典だ。お詫びというわけではないが、今日採れたばかりの新鮮な野菜を包んでおこう。他に欲しいものがあったら」
「あっといえ、僕はその――」
トオルはことの経緯を一から順に説明した。落ち着いた物腰の古賀父は、極めて愛想がなかったものの、愚直に一々相槌をうった。
「なら調理経験はあるか? 先日厨房係が退職して困っているんだが」
「えっと、いいんですか? 面接とか必要書類とか、まだなにも」
「娘がはじめて高校の友達を連れてきたんだ。無下にはできない。そもそも君は若いんだ。不得手だとしても、すぐ覚えられる。だからと言って遅刻や無断欠席をされると困るが、不誠実な男ではないのだろう?」
トオルが曖昧に頷くと、古賀父は満足そうに頷いた。
「ならなにも問題はない。無論、雇用契約だから手続きは必要だが、精々がそのくらいだ。なにより、娘は頑固が過ぎてね。子供の頃など、捨て猫や捨て犬を拾ってきては一緒に寝るんだと言って聞かなかったものだ。まさか人間を連れ帰るとは思わなかったが、最近の様子を考えるとかえって安心したぐらいだ」
「は、はぁ」
「まあ、だからといって気安く近づくのは遠慮してもらうがね」
文明の発達した現代において、ほとんどの工程はオートメーション化され、極限まで簡素化されている。
首都区と違い、街区にはまだ下町の人情味残る街並みが広がっているというが、疑いもせずに受容してくれる人柄に胸が熱くなった。
「ちょっとお父さんっ。夏目くん怖がってるじゃない。もぅ何言ったの」
「と、父さんは別にだな……」
プロレス技を掛けていた古賀が駆けてきて、手を腰にやりながらトオルを庇った。父の威厳はどこへやら、薄くなった頭皮をしきりにさすっている。
とほほ、と足腰を労わりながら戻ってきた弟の一樹が、ふとこちらを指差して叫んだ。
「あー! どっかで見た顔だと思ったら」
「ああぁぁぁ!!」
古賀遥菜は顔を真っ赤にして押さえ込みにかかると、閻魔様も退くような禍々しい声で耳打ちした。
ぞわぞわと髪の毛までが怯えるのを見た。全身を小刻みに震わせた一樹は、音速で首を縦に振った。
「さあいこいこ。厨房はあっちだから。あ、調理免許持ってても、この店ではわたしが先輩だからね」
「あ、うん。わかったけど。……あれ、僕ってそのこと言ったっけ?」
「あ、あははは。細かいことは気にしない。さ、一名様ごあんなーい」
背を押されるままに、店の奥へ奥へと連れて行かれる。
従業員と雇用者の娘。同級生とは違う力関係が成立した瞬間だった。
§ § §
世の建造物には、下部に基礎なるものがあるのを知っているだろうか。
地盤というのは意外に軟弱で、何の対策も講じなければ、たとえばピサの斜塔のように自重で傾くことも珍しくない。それを防ぐため、杭を岩盤まで降ろし、その上に建物を造るのが一般的だ。
つまり何が言いたいのかというと、何事も基礎こそが重要なのだ、という真理である。
とくに、なんとなーくで甘く考えている付け焼き刃の素人には。
「えへへ、さすがのわたしも料理の“さしすせそ”ぐらい知ってるよ。
さ、が砂糖でしょ。
し、が醤油で、
す、がお酢。
せ、がえーと、たぶん背脂で、
そ、がソースでしょ。
どう? ぜんぶ正解かな?」
「…………“そ”は味噌だよ」
固まったハルナは、だらだらと額から汗を流した。
「あ、あれ? あはは、ちょっと勘違いしちゃっていたのでした」
「……」
「そ、そんなに睨まないでよ。あ、お屋台さんだ。ちょっと待っててね」
お前クビ、と死んでも言えない従業員トオルは、古賀家の浴場で汚れを落としたあと、火照った身体を夜風に浸しながら、チョロロとたこ焼きを買いに走った古賀遥菜を眺めていた。
帰宅が夜更けてからになったのは、先輩風吹かそうとして張り切る彼女が原因だった。エネルギー全開で、レンジに金属ボウルを入れ、水と油を混ぜ始めたときにはもう収拾がつかなくなっていた。
トドメにフライパンの中身を仲良く被り、好意に甘える形で古賀父のコートを貸してもらっていた。
「あちち、うーんでも焼き立てはおいしいね。ほら、夏目くんも一つ」
「えーとでも、ダイエットは良かったの?」
「あ、あはは。そういえば、そうなのでした……えっとじゃあ、今日で終わり!」
彼女もまた、外行きの服装に変わっていた。白ニットに淡いカーディガンを羽織り、胸には銀のネックレスをつけている。漂うシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐった。
「それでね、なおみが言ってたんだけど――」
彼女は言葉を紡ぎ続ける。どうしてこんなにも平和なんだろう。移り変わる表情を見て、ふとトオルはそう思った。
あんな大惨事、もし普通の会社なら一発で出禁だ。経験上そうだし、トオルでもそうする。けれど古賀家は、一度窘めたっきり二度と蒸し返さなくなった。
(なんか、言い難いんだよなぁ)
事の元凶なのに、やたらと長風呂で身支度まで整えて。家路に着こうとすると、家族総出で引き止められるばかりか、バスタオルを巻いたまま涙目でドアの隙間から睨み出す。気付けばトオルは、あれよあれよという間に夕食まで御相伴に与っていた。
古賀家は皆、純朴で驚くほどに善良だった。中学三年生の弟一樹でさえ、満面の笑みで歓迎の意を示してくれる。和気藹々とした家庭内の雰囲気で、己が矮小な気分にさえなった。
違うのだ。
自分だけが輪の外にいる。
隣に座り、箸を突き合わせていても同じだとは思えない。自分の居場所はここではない。そんな惨めさだけがふつふつと湧き上がってくる。
トオルが知るのは食い詰めた顔ばかり。いつグレたって、いつ死んだっておかしくない。ギラギラとした光を宿し、虎視眈々と出し抜く機会を窺っている。そんな影も形もない家族の姿が、否応なしに対比となって心を蝕んだ。
拍車を掛けるのが、周囲を陶然とさせるような彼女の魅力だ。
栗色の長い髪を右サイドだけ編み、ぱっちり開いた瞳には、鳶色の優しい色が輝いている。
手足は細長く、一方女性らしい丸みを帯びた胴体と、理想的な体型をしている。ちょうど、トオルの胸に彼女の目元がくる形だ。
ぷっくりとした上唇が少女から女へと移り変わる間の、そんな危うい色気を醸し出し、トオルを躊躇させるのだ。
近寄るなと。
お前ごときが触っていい存在ではない、と。
流されるまま、気づけば一駅分以上歩調を合わせていた。街区は夜が更けても明るく、治安は良好だ。地元民たちがあらまぁと顔を綻ばせて挨拶してくる。
面映そうに応対した彼女は、車を避けるためと言ってピッタリと真横に陣取った。
「今日は、失望させちゃったよね」
「そんなことないけど」
「ウソだ。顔に書いてあるよ。ぜんぜんお嬢さまなんかじゃなかったって」
少女は語った。背伸びして入った進学校で、舐められまいと学業に励んだこと。深窓の令嬢などと言われてしまい、見栄を張った結果、遊びに誘われても新しい服が買えるまでは我慢したこと。長じて、高嶺の花として孤立してしまったこと。
はじまりこそくだらない。けれど、被っていた仮面が素顔となる。そんな襟の内を打ち明けた。
「ちやほやされるのが嫌じゃない自分も居てね。あはは、ぜーんぶ自業自得なんだけどさ。それでもやっぱり、自分らしくすれば良かったって思うから」
電灯並ぶ街並みを抜け、月明かりだけが少女を照らしている。
容姿だけではない。ころころ変わる表情に、やけに頑固な一面。しょぼくれたり、かと思えば弟を叱りつけたりする喜怒哀楽豊かな彼女を、今日一日でたくさん見た。
太陽のような微笑みを湛える彼女は、その土手の向こう、河岸の向こうとはまるで違う人種に思えたのだ。
「だからね、夏目くんとは本当の友達に――」
「トール!!」
突如として、甲高い叫びが閑静な街並みを切り裂いた。
振り向いた先には、錆の浮いたフェンスの向こうで夏目ひかりが肩で息をしている。気怠そうに番長歩きをする政和の姿もあった。
「ひ、ひかり。どうしてここに」
よほど動転していたのだろう。つっかけは泥だらけで、自慢の三つ編みもほつれかかっている。家事用のリス柄エプロンもそのままだ。
彼女はフェンスを避け大回りしてくると、ほっとしたように顔を緩めた。
「もう、もう。なんで帰ってこないのよトール!」
ポコポコと胸を叩く彼女の目尻には涙が浮かんでいる。
トオルが「ごめん」と頭を撫でると、やがてしゃっくりに変わる。
そこでようやく寄り添うぐらい近い女の影に気づいた。
「あ、あははは。その、えーと。夏目くんのクラスメイトで、今は同じ店で働いています。古賀遥菜です、よろしくお願いします。って、えっ? えっ? 帰ってこないって、もしかして同棲っ!?」
手を揃えてお辞儀しようとした遥菜は、トオルとひかりの顔を見比べて、途端に戸惑った表情を浮かべた。
「ああえっと、なんて説明すればいいんだろ。とりあえずその、ひかりは幼馴染で、君が思ってるような関係じゃないから」
しどろもどろになっていると、遥菜の声がワンオクターブ下がった。
「……へー幼馴染。夏目くんは幼馴染と同棲してるんだー」
「いやその、同棲って言葉がそもそも不適切で」
「へー不適切。そういうこと言っちゃうんだー」
遥菜は胸を片手で隠しながら、半目で言った。
「いやその、古賀さんは大きな誤解を」
「へー誤解なんだー」
「こ、古賀さんにはこの度大変なご迷惑を」
「つーん」
「あのー古賀さん?」
「つーん、つーん」
トオルの額から冷や汗が流れる。何とかとりなそうとするも、彼女は小器用にこちらから顔を背け続けるばかりだ。
そんなときである。回り込もうとするトオルと遥菜を、暗く沈み込むような声が遮った。
「なれなれしく、しないでよ……」
ひかりである。
彼女は耳がキンキンする甲高い声で、ヒステリックに髪を振り乱しながら絶叫した。
「トールになれなれしくしないでっ!!
なんなの! こんな夜おそくまでトールをじぶんかってに連れまわして!
トールは奴隷じゃないんだよ! なんでそんなこともわかんないの!」
「え、あ、ご、ごめんな――」
「うるさい、うるさい、うるさいっ!
そんな思ってもないようなこと聞きたくない! そんな取ってつけたような態度でごまかされない!
ねえ、なんでいつもそうなの。なんで、なんでなの。私から、ぜんぶ、ぜんぶ奪って。今度はトールまで奪っていくの。それの何がたのしいの!!」
ひかりが大粒の涙を零しながら想いの丈をぶち撒ける。
高い感受性をもつ遥菜は、怒りというよりもはや怨念に近い感情をぶつけられ、肩を抱えて一歩退いた。
「“ナンバーズ”だからってバカにしないでよ!」
ひかりはそれっきり地面に尻餅をつくと、周囲も憚らず大声で泣き喚いた。
遅れてやってきた政和がジャンパーを掛けると泣きじゃくる彼女を連れていく。彼もまた、遥菜に対して刺々しい態度を隠そうともしなかった。
静まり返った街路灯の下で、トオルは彼女を見た。
怯えていた。
頬はこわばり、今にでも走って逃げそうだった。
すとんと肩の荷が下りる。いや、背中の肉ごと小削ぎ落とされた気分だった。
手を伸ばそうとして、諦める。身動ぎひとつで肩を震わせる彼女が、今は直視できないほどに痛かった。
虚しくないと言ったら嘘だ。
でも、いつかこうなると知っていた自分こそが憐れで、惨めで。
いつも生きている価値がないって、考えてしまう。
「ごめん。お父さんにやっぱり止めますって伝えておいてくれないかな」
トオルは社用端末を取り出し、自走タクシーを召集する。決済を済ませると、意を決して語り出した。
「僕も君に一つ、嘘をついていたんだ。
僕たちは“非ナンバーズ”。
なにもできない、社会のクズ。
きっと僕は、迷惑になるから」
車がくると、それっきり振り返らず疾風のように逃げ去った。
彼の孤影はスラムに飲まれ、暗い路地を突き進んでゆく。
闇へ、闇へ。