第5話 サエルという人
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第5話、長いですが最後までお付き合いいただければ幸いです。
【彼】の名前はサエル。私はエルと呼んでいる。20歳の男性。
純粋な魂を持ち、穏やかな笑顔を私に向けてくれる人。
その純粋さからか、彼のそばには森の妖精や精霊、それに似た存在たちがいつも一緒にいた。その存在たちは彼を護るように、また彼の純粋なエネルギーに触れたくて仕方ないようだった。
私たちにとって妖精などの存在は当たり前で、生まれた時から一緒に過ごしてきた存在だった。彼らは私たちにたくさんの知恵を与えてくれ、私たちも森の手入れや自然を守りながら暮らしている。私たちはお互いの生活を尊重しており、必要以上に干渉しないことが普通だった。
妖精たちは基本的に人に対して一定の距離を保っていたが、例外もあった。妖精や精霊たちにに好まれる人も少なからず存在した。元気でいたずら好き、気まぐれな彼らが好む人間には共通点があり、特に魂の純粋な人間を好んでいた。妖精たちの生命維持にも効果的な純度の高いエネルギーを持つ人間の傍にいることによって、彼らは常に生命の蓄えと妖精としての能力を向上させることが可能になる。それによって人のエネルギーが減らされることはなく、彼らが私たちに害を及ぼすということは今までもこれからもないということだ。
そんな彼らにとって、エルは最高の存在だったに違いない。
彼が生まれる前から、母親のお腹の周りにその存在たちが現れたという。
その誕生を待ち侘びているかのように、聖なる存在たちは母親のお腹に光を送っていた。
エルが誕生した時、部屋全体が眩しい光に包まれたという。それは祝福された誕生であり、純粋な魂を持つ子どもだったんだろうと私の祖母が話していた。
その話を聞いて、それは本当だったんだと私は思った。光に包まれた赤ちゃんのエルを想像してみた。絶対に可愛かったんだろうと思えるほどに、エルは誰からも愛された子だった。聖なる妖精さんたちも傍にいたくて仕方ないだろうと私は納得する。なぜなら彼の存在自体があたたかく、そこにいるだけで周りが穏やかな空気になるからだ。彼の近くにいるととても心地良く感じるし、家族同然で育った私は誰より彼のことが大好きだった。
希望を象徴する太陽の光を浴びる度に、赤みがかった茶色い髪の毛が鮮やかさを増してゆく。少しだけ癖のあるその柔らかい髪の毛が、穏やかな風に吹かれてふわふわと揺れている。エルは綺麗な赤茶色の後ろ髪を少し伸ばして、ひとつに結んでいる。
深い海のような青に少し紫がかった瞳の奥、鮮やかなエメラルドグリーンが混ざったようなその色をどう表現していいのかを私は知らない。ただ私たちの住むこの世界には存在しない色のような気がしていた。この世界ではまだ他に見たことのない、不思議な色をした瞳。
エルは穏やかな人だった。子どもの頃から、それはずっと変わらない。
治癒者として覚醒した私より達観していたかもしれない。
私は彼が怒ったところを見たことがない。もしかしたら私が見ていないだけでどこかで怒ったりしていたかもしれないけれど、私が生まれて子どもの頃から一緒だった彼が怒りを表したことは一度もなかった。
私や周囲に向けられる表情はいつも優しく愛に溢れたものだった。
当時のエルに関しては【私】の記憶が曖昧で、彼がどんな仕事をしていたかが思い出せない。ただ、剣を持って戦うような剣士などではないと断言できる。そもそも私たちが暮らす森には生き物を傷つけるための刃物自体が存在せず、何かを争うという観念すらない世界だったからだ。何かを奪われるという恐怖も、何かを傷つけるという感情も持たない世界。それほどに私たちの世界は平和そのものだった。
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私たちの住む森のもっと奥深くに「ガルジュナの森」と呼ばれる神聖な森が存在していた。その森は大人たちでも滅多に近づかない場所だった。
私たちが暮らす森とガルジュナの森には境界線が存在していると聞いており、その場所へ行くと空気が変わるからすぐ分かる、と大人たちは言っていた。森からも人を寄せ付けない雰囲気を漂わせていたため、森に住む人々はそれを理解していた。妖精たちと同様に干渉せず、静かに共存していくことが森と私たちの最善の方法だった。
そんなことを知らない子どもの頃の私たちは、遊び場を探して森を駆け回って遊んで過ごしていた。
私とエルも、知らず知らずにガルジュナの森の深い方へと進んでいった。大人たちが感じる森との境界線を、元気な子どもたちが同じように感じて森に踏み込むことを躊躇することはない。むしろその逆で、私たちは好奇心いっぱいでその深い森に入っていった。森の奥へと進んでいくと、いつの間にか開けた場所に出ていた。そこは高地にある小さな丘のようだった。私たちが山道を登った記憶はなかったけれど、そこから見える景色からしてこの丘がかなり高い場所にあることに気づいた。
その丘からは私たちの視界を遮るものは一切なく、すべてを見渡すことが出来た。
私たちが暮らす森からその丘までの距離はかなり遠いはずだったが、私たちはいつも容易に丘へたどり着くことができた。しかし、それはエルと私のふたりだけという条件付きのようだった。
私がエル以外の友達と森に遊びに行こうとすると、なぜかその丘にたどり着くことができなかった。丘への道も、森の入り口さえも見つからない。そんなことが何回もあり、私は早々にエル以外の友達と丘へ行くことを諦めたのだった。
ガルジュナの森を歩いていると、面白いことがたくさんあった。
まず私たちが森の入り口に足を踏み入れる度に、丘へと続く道が変わること。神聖な森と言われるだけあって、森を守る妖精や精霊たちが歌を歌いながら私たちを案内してくれた。その歌声につられて、動物たちも楽しそうに私たちの後ろをついてきたりした。
妖精たちは丘で一緒に遊ぶ時もあれば、私たちが帰る頃まで姿を現さないこともあった。彼らは帰り道も森の出口まで案内をしてくれて、彼らに守られているようで嬉しかったけれど、それは一緒にいるエルが妖精たちに好かれているからだと思っていた。
エルがいないと、そもそも私はこの森にさえ入れない……。
丘からの帰り道、妖精たちは今日も森の出口へと私たちを案内してくれていた。
エルのそばを楽しそうに飛んでいる彼らを見て、私の口からふと思いがこぼれた。
「みんながこうして優しくしてくれるのって、エルがいるからだよね?」
エルはキョトンとした顔をしていた。
でもすぐ理解をしたようでいつもの穏やかな笑顔でこう言った。
「みんな僕とリアの友達だって言ってるよ。 だから優しいんだよ」
そう言って彼はそばにいる妖精たちを見つめながら話を続けた。
「みんなの気持ちが大人の人に伝わる時と、そうでない時があるんだって。僕にはちゃんと伝わるから、僕のそばによくいるみたい」
エルの話を聞いて、私は衝撃を受けた。それは色んな意味で。
確かに私たちは妖精たちの気持ちや思いを受け取ることができる。
けれど人である存在が妖精たちとストレートに伝え合うことは難しいものだった。
さすが生まれる前から彼らに愛された子だ……。
エルだからそんなことができるんだと思うと、嬉しくなってしまった。私が持つ些細な嫉妬心なんていつの間にかどこか遠くへ飛んでいってしまっていた。
ーーやっぱり……エルってすごい!!
尊敬の眼差しで見つめる私を見て、エルが大人みたいにクスッと笑った。
そしていつもと変わらない優しい顔を私に向けて言った。
「リア、忘れないで。この子たちはリアと僕、森に住むみんなの友達だよ。いつもリアの側にいるんだよ。いい? 忘れちゃだめだよ」
エルはとても真剣な眼差しをしていた。
あろうことに私は、その真剣な瞳に見惚れていた。
するとエルの優しい瞳の奥に、何かが見えた。瞳の奥に、誰かがいる。
その人が私に何かを話しかけている。
瞳の奥にいるその人が、エルを通して私の脳に入り込んできた。
「○○○○○○」
何かが聞こえた、と思った。
私の心の、その奥にしまい込まれた瞬間にそれは消えてしまった。
私の本能が叫んだ。
ーー決して忘れてはいけない、と。
「リア? どうしたの?」
エルが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
私はハッとした。
ーーあれ……? なんだったんだろう?
エルの瞳にはもう、何も映っていない。
「……ううん、何でもないよ。帰ろう!」
森の出口まで見送ってくれた妖精たちにお礼を言って、私たちは森を出る。
少し歩いてふと気になって後ろを振り返ると、さっきまであったはずの森の入り口はすでに消えていた。その神聖な入り口を隠すかのように、妖精たちの鱗粉の光だけが辺り一面に光っていた。
「リア、家に帰ろう」
エルが私の手を引く。
「うん」
私はそのあたたかい手をギュッと握り返した。
私の手を引いて隣を歩くエルを見上げた。
いつもと変わらない、だけど今日は少しだけ違って見えたエル。
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私たちは穏やかに成長した。
子どもの頃と変わらず、平和に暮らしていた。
私たちは相変わらず秘密の丘で過ごすことが大好きだった。私とエルにしか辿り着けない生命の森の丘。森へ入ると、森の友達がいつも通り私たちを丘へと案内してくれた。エルと丘でふたり過ごす時間は、私にとって特別であり一緒にいるのが当たり前の日常だった。成長して大人になっても私たちは何も変わることなく幸せだった。
私は治癒者としての仕事をし、エルは妖精や聖なる存在の言葉を伝えるメッセンジャーのような役割もしていた。
時間を見つけてはエルと手を繋いで森を駆けた。
あたたかい陽の光の下で私はエルに膝枕をしてもらうことが大好きだった。幸せな気分の中でうとうとして過ごすことが一番のお気に入りだった。あまりに心地良くて私が眠ってしまっても、目覚めるとエルの優しい瞳が私に向いていた。
私の頭を優しく撫でながらいつも私を見つめてくれていて、その瞳から愛が溢れていたことを知っていた。
私が世界で一番大好きなエルの瞳。喜びで涙が出そうなほどに、その瞳だけで私への愛を感じられた。私もエルに対して同じ眼差しを向けられていたなら、そして私からの愛を感じてもらえていたなら、これ以上の幸せはない。
私たちが愛の言葉を交わすことは決してないけれど……。
いつも私が膝枕をさせてもらっていたけれど、私も時々、エルに膝枕をしてあげていた。そんな時は私はいつも歌を歌っていた。この歌は私が自ら作った歌、というより心に降りてきた言葉とメロディーを組み合わせて作るものだった。
歌の歌詞は治癒者のみが理解する言語であり、聴く人たちはそのメロディーに合わせて知らない言葉を聴いていることになる。それでも癒しの歌としての効力は抜群であり、人や動物、生命の傷を癒す歌。そして大地の回復を促す歌でもある。
治癒者ではないエルにも、もちろん私の歌を理解することは出来ない。
聴かされている側としては何を歌っているのかが気になるんだろう。初めてエルに歌を歌った時に歌詞の内容を聞かれたけれど、森の子守歌だよと私は笑って誤魔化した。
私がエルといる時に歌うものは愛の歌。自然の祝福と愛の喜びを組み合わせた、光の歌。直接伝えることの出来ない、愛の歌。
どうかエルが幸せでありますように。
この幸せが少しでも長く続きますように。
この喜びに感謝します。
エルがいてくれて、私は幸せです。
彼がこの世界に、今私のそばにいてくれることに感謝します。
愛を教えてくれたすべてに、エルに感謝します。
愛しています。
この先もずっと、エルをお護りください。
すべての光と祝福を彼に。
いつかエルが話していたことを思い出す。
珍しく私の膝の上でエルが過ごしていた午後に、私の歌う森の子守歌が好きだと。
子守歌が愛の歌だなんて私が言えるはずもなく私はただ、ありがとうとしか言えなかった。その言葉が嬉しくて、堪らなかった。
すると膝の上に頭を乗せているエルが顔をこちらに向けようとしたのを察知して、私は両手でエルの頭で押さえた。
ーー今、顔を見られたくない。
私の手に反抗しようとしたエルだったけど、すんなり諦めてくれたようで彼の視線は目の前に広がる景色へと移ってくれた。
私はエルの頭を押さえていた手を離した。
「リアは子守歌を歌うように話すよね」
「……?」
「リアと話してると、心地いいんだ。本当に、子守歌を聴いてるみたいで」
「そう……? そんなこと初めて言われた」
「うん、すごく心地いい。リアの声も、子守歌も。ずっと聴いていたい」
「そう……。ありがとう」
涙が溢れそうで、私は空を見上げた。
感情のコントロールは出来ているから、大丈夫。
大丈夫、泣かない。
感情を落ち着かせて目線を下へ戻すと、いつの間にかエルが私を見上げていた。
その優しい瞳を細めながら私を見つめていた。
本当は、伝えたい言葉がたくさんある。
でも伝えてどうなるのか。そう遠くないエルの未来に、私はいない。
私はこの時すでに、自分の寿命があと数年だということを感じ取っていたから。
絶対に、この想いは伝えられない。
お互いの想いは分かっている。
こうしてお互いに踏みとどまっているのは、私たちに未来を受け止めるだけの勇気がないから。近い未来に最愛の人を失うと分かっている現実を受け入れられるほど、私たちは強くなかった。それだけは、受け入れられなかった。
これからもこの場所で、膝枕をしながら歌ってあげよう。
彼が望むなら、ずっと歌っていよう。
いつか訪れるその日まで、このままの私たちでいればいい。
最後の最後に傷つかないように、少しでも傷が深くならないように、今までと変わらないふたりでいよう。
私たちの心と心で交わした、誰も知ることのない約束。
大丈夫、コントロールは出来ている。
私を見つめる瞳に手をかざし、癒しの歌を口ずさむ。
私の歌で眠るエルの髪を、優しく梳かしてみる。柔らかい、緩いカールのついた赤茶色の髪を、夕暮れ時の太陽がその髪色をより鮮やかに輝かせる。閉じた瞼の先の長く柔らかい睫毛を見つめながら私は願った。
繋いだ手の感触と安らぎを与えるあたたかい体温。私を褒める少し低いその声を、ずっと憶えていたい。
エルの柔らかい髪にそっとキスをする。
私は深く息を吸い込み、今日も愛の歌を歌う。
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治癒者である私の寿命が短いことは、誰もが知っていることだ。
私たちの家族も、友人も森に暮らす人たち、そしてエルも。
幸いなことに誰も私たちのことを咎めたり引き離そうとせず、ただ優しく見守ってくれていた。
誰もが傷つくのを恐れた。
限りある未来に絶望し、愛に向き合わずに「今」を生きることを忘れた。
受け入れることのできた【私】の人生と
受け入れることのできなかった【私たち】の未来。
それでもこの時の【私たち】が選択した世界を生きたことに、きっと間違いも正解もない。
私は、そう思いたい。




