第22話 急転
「お化粧が……サラ様! お願いです、目を開けて下さい……」
イベントがある日は決まって、侍女のラーレのぼやきから一日が始まる。ただでさえ寝起きがいいとは言えない私を寝台から引き剥がしては湯に浸からせ、鏡台の前に座らせる。ゆらゆらと前後左右に傾く私を慣れた手つきで【美しき王女】と変貌させる優秀な侍女は王国、いやこの大陸でラーレ1人だけだと断言する。
「なぜこんなにもお肌の状態が悪いのですか? お休みになれませんでしたか?」
深いため息と共に次から次へとラーレの声が飛んでくる。陽が昇り始めてから眠りについた私にとって、鏡台の椅子に座っているこの現状が軽い嫌がらせのように思えて仕方がない。今日は1時間前に起こされて湯に浸かる所から始まり、肌の髪の手入れなどラーレだけが忙しく動いている。彼女に反抗する気力も今の私にはない。
「昨日は……寝付けなくて、全然眠れなかったの」
「それにしても今日のお肌は酷すぎます。サラ様と同じお年頃の方々は一日寝不足だったとしてもここまでではありません」
ーー同じお年頃って、私まだ18歳なのに。朝からブツブツと言われ続けていい加減頭にくる。
「ちょっと……そこは苦労されてるんですね、とか言うべきじゃない?」
「苦労されているのは重々承知しております。それでもサラ様は王族の身分でいらっしゃいます。ちょっとした隙を狙われ攻撃をされるお立場でございます。この王宮にいる間は完璧でなければなりません」
「……今日はやけに熱弁するのね」
「王族の方々は少しの苦労さえ周りに見せることはあってはならないと母から聞いております。それが弱みとなり己の首を締める原因になりうるのです。そしてその可能性を……私が生む訳にはいかないのです」
「……」
「……未来のために、ここにいる間は私も最善を尽くしたいのです」
ラーレの顔を見ようとして顔を上げた訳ではなかった。常に明るく気丈で笑顔を絶やさない彼女が、鏡越しで今にも泣き出しそうな顔をしていた。彼女の心の中を見てしまったことで正直私もつられて泣きそうになったが、視線を外して耐えた。何か言わなければと思い、声を絞り出して答えた。
「……分かってる」
朝の挨拶をする鳥たちの声、そしてふたりの人間が鼻をすする音だけがこの部屋に流れていた。
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「サラ様、そろそろお時間です」
部屋の外からサイラスの声が聞こえた。
私は準備を終え椅子から立ち上がり、部屋の扉を開けて待つサイラスの元へと向かう。彼は早朝に一度自室に戻り、身なりを整えて宮に戻ってきた。
「行ってらっしゃいませ」
いつもと変わらない見送りの声が背後から聞こえる。私は扉の前で立ち止まり、斜め後ろに視線を向けて言った。
「……アスランも連れて行くから、今日は休んで」
「……はい。ありがとうございます」
私の部屋の扉がパタンと閉まった。その音がいつもより静かに感じたのは私だけだったかもしれない。
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庭へと続く長い渡り廊下を進んでいく。
渡り廊下の両脇に立つ白く高い柱の間から太陽の光がいくつも差し込んでおり、私のつま先が光の道を歩いているかのような錯覚を起こすほどだ。
今日は父と腹違いの弟との昼食会。会場にはまだ距離があるが、私の前を歩くアスランにはすでに料理の匂いが分かっているらしく、その足取りはとても軽やかだ。
当の私は、ラーレの言葉を思い出していた。
【未来のために、ここにいる間は私も最善を尽くしたいのです】
ラーレとその母親のネリだけが、私の本当の望みを知っている。王宮を出ること、彼女たちはそれを知った上で協力をしてくれている。この王宮はもちろん、その後の彼女たちを守るためにも私は完璧でなければならない。ここにいる間は一国の王女として生き抜かなければ、私と彼女たちの未来は簡単に消えてしまう。
ーー強く、完璧でいなければ……。
「……ラ様……、サラ様!!」
突如耳に入ってきた大きな声と同時に、自身の身体がぐらりと後ろに傾いた。
ーー倒れる……!!
身体に力が入り、ギュッと目を閉じたまま衝撃を待ち構えた。
ーー痛く……ない。
その代わり背中に誰かの感触を感じ、恐る恐る目を開けてみると地面から浮いている自身の両脚が見え、その先には庭へと降りるための階段があった。
私の頭のすぐ後ろで安堵したようにフゥ、とため息をつく人がいた。
私は何が起きたのか分からず勢いよく顔を後ろに向けると、青い瞳とぶつかった。
何もかもを見透かすような美しく青い宝石の瞳と、私の瞳が交差した。不純物などどこにも存在しないように透き通ったその瞳をどこか懐かしく感じた。
ーー……誰? 私はこの瞳を、知ってるのに。誰なんだろう。
「サラ様」
私を現実へと引き戻す声がする。目の前の誰かを認識しようとして、私は改めてその瞳を見つめた。
「あ……」
それが護衛騎士であるサイラスの瞳だと分かった。
「サイラス……」
彼は真顔のままで私を見つめた。
「失礼致します」
「え?」
彼がそう言った瞬間私の腹部に何らかの力が入り、身体がふわりと浮いた。状況を判断する間もなく、彼は私を抱き抱えたまま階段を下りていった。それは10秒にも満たない、ほんの一瞬のこと。
突然の出来事への驚きと恥ずかしさのあまり、私は手で顔を覆った。頭は混乱し心臓はバクバクと跳ね上がり、身体中の内臓が口から飛び出してしまうんじゃないかと思った。
ーー何?! 今何が起きてるの……?!
「サラ様、下ろしますね」
サイラスの落ち着いた声とともに自分の両脚が地面に着いたのが感じられ、身体全体が現実を受け入れようとしていた。
「ご自身でお歩きになれますか?」
「……うん、大丈夫」
私の返事を受け、サイラスの腕がゆっくりと私から離れていくのを感じた。そして私は咄嗟に騎士服の袖を掴んでいたことに気づいた。その腕が止まったものの彼が言葉を発する様子もなく、私は自分のしていることの理由を必死で探していた。とにかく恥ずかしくて、顔を上げられない。おそらく顔は真っ赤になっているはずで、何と声をかけていいのかも、分からない。袖を掴んでいる私の右手も固まってしまっているかのように動かすことが出来ない。
ーーどうしよう。これじゃまるで私……。
「姉様?」
純粋な子どもの声が聞こえ、緊張で身体が強張った。
声のする方へ顔を向けると、今日昼食を共にするカヒルがこちらを見ていた。その後ろには護衛が2名付いている。
カヒルが視界に入ったことで私は瞬時にサイラスから身を引いた。これも無意識だった。直前まで離すことの出来ずにいた騎士服の袖を私はいとも簡単に手放せた。彼から離れてしまった直後に後悔はしたものの、正直どうしていいのか分からなかった。
自分勝手な行動が申し訳なくて、ふと彼を見上げた。私に気づいた彼は何も言わずに少しだけ微笑み、宙に浮いたままの自身の腕を静かに降ろした。
その微笑みはまるで私のこれからすることすべてを許してくれるような感覚がした。
「姉様、早く行きましょう。父上がお待ちです。アスランもこっちにおいで!」
私とサイラスの間に無邪気なカヒルが割って入り、私の腕をぐいぐいと引きながら庭へ向かって歩き出す。私は苦笑いしながらもカヒルのおかげで周りの空気が変わったことに安堵する。アスランも豪華な料理目当てに走り出す。そして私たちの後ろをサイラスが歩いてくる。
庭に建つ豪華な建物内を覗くと、すでに父が奥の席に腰掛けていた。建物内外含め、辺りには何人もの護衛が取り囲んでいる。
「お父様、ご招待いただきありがとうございます」
カヒルとともに中に入り、私たちは父に挨拶をした。
父は機嫌がいいようで、笑顔で私たちを招き入れた。
「ふたりともよく来てくれた。さぁ、一緒に食べよう」
私とカヒルが椅子に腰掛けると、父は手で護衛に指示を出した。この建物内から下がれという意味だった。あくまで今日は親子水入らずの昼食会ということなんだろうと理解した。建物内の護衛たちがゾロゾロと出口に向かい始めた時、後ろに待機するサイラスが声を掛けてきた。
「私も下がっております」
私はまだ彼を直視出来ずにいたため、頷きだけで返した。すると、
「サイラス……と言ったか」
父の言葉に私は身体を固くした。それはサイラスも同じだった。
「……お父様が任命された護衛騎士です」
父は青緑色の瞳で護衛のサイラスを見つめていた。
それがどういった意味を持つのかは私には分からないが、決して良い気分ではなかった。
「お前はここにいろ」
ーー他の護衛は下がらせているのに? なぜ……。
「お父ーー」
「さぁ、料理を運んでくれ」
私の声を遮り、父は昼食会の始まりを告げた。
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先程のサイラスのことは置いておくとして、今私は当たり障りのない表面的な話をしながら昼食を堪能している。弟のカヒルの勉学の話や日常的な出来事など、純粋で無邪気な弟がこの昼食会を盛り上げてくれていることが救いだ。
美味しい料理と飲み物で気分が良くなってしまうことに罪悪感を感じながらも、この穏やかな時間に浸ってしまっている私がいた。
「姉様! アスランと遊んできていい?」
久しぶりにアスランに会えたカヒルは彼と遊びたくて仕方ないらしい。
「暑いから気をつけて。護衛もつけてね」
「はい! アスラン、行こう!」
カヒルとアスランが庭を駆けていく姿を見て、私と父も思わず顔が綻ぶ。
「あれはカヒルに懐いているのか?」
あれとはアスランのことだ。
「ええ。私と侍女以外で唯一懐いています」
嫌味に聞こえるかもしれないが、それが事実だ。
「あの時、あの子を私にくださってありがとうございます」
5年前の母の死後、引きこもっていた私に父が与えたのが生まれたばかりのアスランだ。
「……お前があのライオンをここまで手懐けるとは思っていなかった」
こんなやり取りをしたのはいつ以来だろうか。少なくとも母が亡くなった後にこうした穏やかな時間を過ごした記憶はない。
「あの子は家族ですから」
「お前が……孤独ではないと思えるならそれでいい」
初めて聞く父の言葉に驚く。
ーーこんな時間があっても、いいのかもしれない。
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何杯目かも分からない紅茶を口元に運ぶ時、父が私の名を呼んだ。
「サラ、お前の結婚が決まった」
紅茶のカップを持つ手が唇の直前で止まる。
私は父の顔を見たが、その視線は庭で遊ぶカヒルとアスランに向いたままだ。
「……私が承諾するとお考えで仰っているのですか?」
ーー予想していたより状況は悪くなっているようだ。準備を早めなければいけない。
父の視線はまだ私には向いていない。
「近隣諸国との情勢が悪化しているのはお前も知っているだろう。まぁそれだけではないが……いくらお前が外に自由を求めたとしても、一国の王女であることに変わりはない。我々はその身を捧げるためにこの国に生まれたことを忘れるな」
淡々と話は続いていく。
「婿を迎えるからお前はこのままこの王宮で暮らせる。ここでなら自由に好きなように生きられる。欲しい物も好きなだけ手に入れればいい」
私と同じ青緑色の瞳がようやくこちらを向いた。向けられたその瞳はこの国の頂点に君臨する者の瞳であり、私の知る父親の瞳ではなかった。
ーー思ったより早くここを出て行くことになりそうね。でもその前に確かめることがある。
「……あなたにとって私とお母様は何だったのでしょうか」
お互いの青緑色の瞳が交差する。その瞳はかなり驚いているようだった。私が思ってもみない発言をしたからなのか。寵愛する娘からの言葉を理解出来ないのか。私の問いかけに答えたくないのか、それとも答えられないのか。いや、答えさせるしかない。一度私の思いを吐き出してしまったら、もう止めることは出来ない。
「……答えられないのなら、私が答えましょうか? このように縛り付けることがあなたの示す愛だとしたら、私たちにはそんなもの初めから必要なかった……母も私も、あなたの所有物ではない!」
思いもよらない娘の言葉に王の瞳が揺れ、必死に考え言葉を発しようとしている。
「……サ、サラ、違うんだ。私はお前たちを……セマもお前のことも愛している。愛しているんだ。私の望みは……ただそばにいて欲しいだけで」
その言葉を聞いて身体中が怒りで熱くなるのを感じ、持っていた紅茶のカップを思い切りテーブルに叩きつけてしまった。その反動でカップは甲高い音を立てて割れ、私の手が熱い液体を浴びた。割れた破片が手に食い込んできても、怒りのせいか何も感じない。
「サラ様!!」
カップが割れたと同時に駆け寄るサイラスを制すると、外からは騒ぎを聞きつけた他の護衛が近寄ってくるのが見えた。
「サラ……」
許しを乞うような表情で私を見上げている王がいた。私は視線の端に入ろうとする護衛たちに向けて言い放った。
「呼んでないわ。下がりなさい」
尋常ではないこの様子に護衛たちは主君である王の答えを待ってはいるが彼がそれに応える気配はなく、うなだれているようにしか見えなかった。
「聞こえなかったの? 下がれと言ったの」
王女の命令を彼らが受け入れないという選択はなく、この建物内には王と王女、王女の護衛騎士だけが存在している。
私は父に向き直り、吐き足らない思いをぶつけた。
「私たちを愛している? 愛だというなら、なぜあの時お母様を自由にしてくれなかったの?! あんなに望んでいたのに、そのせいでお母様はーー」
ーー死んでしまったのに。
言葉に詰まった。その後に続くであろう私の言葉を知っているかのように、父は青緑色の瞳からいくつもの涙を流していた。そこには数分前の王の威厳などどこにも見当たらない。
「わ、私は……、ただ……」
自分の意志が揺るがないよう、私は強く手を握りしめた。握った手には生ぬるい感触が伝わって上手く力が入らないが、すべてを吐き出すために気をしっかり保たなければならない。そうでなければ、簡単に悲しみの渦に飲まれてしまいそうで。
「……私たちの求める愛は、あなたの愛とは違う。だから私たちは……」
私は頭を抱えもがいている目の前の人間に答えを求める。
「……愛していたんだ、誰よりも愛していたんだ……。離れたくなかった……」
遠い昔、子どもの頃に見た強く逞しい父の姿はもうどこにもいない。娘である私のたった一言で王からただの人へと変わり果ててしまった。それが悪だとしても、この人が母にしたことはーー
「離れたくないから……だからお母様の羽根を奪ったの?」
ーー本当のことを言って。
「ーー!!」
限界まで見開かれた青緑色の瞳から涙が溢れ出たのを見た。そして驚愕を超え、恐れの眼差しを私に向けた。その顔を見て私は確信した。そして私自身からも涙が溢れ出すのを止められなくなっていた。
「……あなたがお母様を心から愛していたのは知ってる。……でもそれはあなたがお母様を殺ーー」
すべてを言ってしまおうとする私を、サイラスが止めた。大きな両腕が私を身体を抱き込み、彼の胸に顔を押し当てられせいで私の言葉は止められた。
「もう……十分です」
私たちのことを何も知らない彼に癒されるはずないのに、その言葉が慈悲を与えられたように感じて、また涙が溢れ出す。
ーーあなたがお母様を殺したようなものでしょう。
そう、言ってしまいたかった。
私の最愛の母を傷つけ、死に追いやった人。
母を心から愛し、愛された人。
歪んだ愛し方をしても母が許した人。
母が許したこの人を、私は許すことが出来るの……?
「すまない、すまない……。許してくれ……」
最愛の娘に罵倒され涙を流し、大きな身体を震わせてうずくまる姿を見たい訳ではなかった。こうするしかなかった。こうすることでしか私は父を追い込めなかった。何より真実を知りたかった。
かつて私たち母娘が味わった痛みと苦しみを、今別の形となって父が経験しているのだろうか。そしてそれはまた、私に戻ってくるのだろうか……。
「サラ様」
私を抱きしめていたサイラスの腕が緩んだ。
「大丈夫よ」
私は身体を引いて彼から離れ、手で涙を拭った。
「姉様!」
庭の方から騒ぎを聞きつけたカヒルの姿が見えた。待機する護衛たちに止められおり、アスランはこちらに走ってくる。
「サイラス」
「はい」
「カヒルを彼の宮に戻すように護衛に伝えて。あと侍従長をここに呼ぶように」
「かしこまりました」
サイラスが出て行くと同時に、アスランが私の元へやって来た。心配そうに私の顔を見上げている。
「大丈夫よ、心配ないわ」
___________
侍従長はすぐにやってきた。変わり果てた主の姿を見て驚いてはいたが、落ち着いた様子で周りに指示を出していた。
「……王が落ち着いたら部屋へお連れして。必要であれば侍医も呼んで、周りの者には口止めをお願い」
「かしこまりました」
「それと……カヒルには後で使いを送ると伝えてくれる?」
「お任せください。それより姫様は手当をいたしましょう。侍医を連れてまいります」
侍従長の視線が私の右手に向けられ、自分の手が火傷と割れた破片によって出血していることに気づいた。今になって鋭い皮膚の痛みを感じ始めた。
「必要ないわ。私は宮に戻るから……サイラス、帰りましょう」
「はい」
私はアスランの頭に手を乗せ、歩き出した。
この時の私には自分が傷つけた相手を振り返る余裕など少しもなかった。




