第18話 王女と騎士
自らの手の届かない魂の奥底に潜む何かを、強烈な引力によって呼び覚まされる感覚。
もしくはこのままどこまでも深く深く堕ちていくことを望んでしまうほどの衝動。
街中で見かける恋愛大衆劇に登場するようなありきたりのセリフを、自分が感じる日が来るなどど思ったことはなかった。
【時が止まるような感覚】
今自分がいるこの場所のせいかも知れないと思った。この世界の植物に似ているようで見たこともない木々や花々。ここが王宮内であることを忘れてしまうかのような、美しく透明度の高い泉。辺り一帯に漂う無数の光の存在も、普通ではないはずなのになぜか心地良く感じる。奥にひっそりと佇む石碑のようなものは恐らくこの世のものではないと誰が見ても瞬時に理解してしまうだろう。その理由を明確に説明することは出来ない。それでも嫌な気分は全くしない。ただこの空間は俺が住む世界とはかけ離れたように異質だった。異質という言葉がこの場所にはふさわしいものではないことを十分理解してはいるが、想像を遥かに超えた目の前の現実の空間を自分の脳と身体が受け入れるまでには少し時間がかかった。
それらの信じ難い光景にさらに追い討ちをかけたのは、目の前の王女だ。
庭で姿を見失うまでの姿を忘れるほどに何かが違う。
ーー何が違う? さっきまでの姿とどこが違う? ……いや、俺がおかしくなったのか?
目の前の彼女は明らかに驚きと混乱の入り混じった瞳をこちらに向けていた。
その瞳は透き通るようなサファイアのように青く輝き、それが自分の瞳と酷似していることに気づいた。そして彼女の髪は太陽の光を一身に浴びたように明るい金色の髪をしていた。緩くウェーブのかかった柔らかそうな長い髪は、この空間の上から降り注ぐ幻想的な光によって反射し、宝石を散りばめたようにキラキラと輝きを放っていた。
ーー俺はこの人を見たことがある……。どこで見た? こんな人を忘れる筈はないのに……。
「出て行って」
場の空気を切るかのように、その姿からは想像出来ない程の彼女の低い声によって俺は我に返った。
目の前の彼女は……ただこちらを見つめていた。その瞳には先ほどまでの驚きや混乱は存在せず、先日会った時と同じような眼差しで、それは王族特有の強い意志を宿した青緑色の瞳を俺に向けていた。
ーー青緑?
つい視線を上げ、彼女の瞳を真正面から見てしまった。他でもない国の頂点に近い王女と目線を合わすことは不敬罪に当たることを咄嗟に思い出し、反射的に視線を外し頭を下げた。
「失礼致しました」
ーー王女の瞳は青緑色だ。ではあの青い瞳をしたあの人は誰だ? 今目の前にいた金色の髪の女性は……? 訳が分からない……そうだ、俺は王女を見かけて追いかけて来た。庭で王女を見失い、そしてーー
「ここから出て行ってと言ったの」
さらに低くなった王女の声が響いた。この場所から去る方法は分からないにしても、これ以上王女の機嫌を損ねるわけにはいかない。
「大変失礼致しました。……下がらせていただきます」
深く敬礼をし、踵を返し歩いてきたはずの小道に向かった。しかしその小道がなくなっていることに気づいた。歩き出した足のやり場がなく、立ち止まってしまう。今の今まで足下にあった道は豊かな緑色の芝生へと変わっており、初めにここへ来た時と周りの木々も変化しているようだった。この不思議な現象にやはり頭がついていかず、俺は思わず立ち尽くした。
ーー俺はおかしくなったのか? いや、もしかしたらこれは夢なのか? だが……背後に感じる視線は本物の人間のように感じる。
「もしかして戻り方を知らないの?」
機嫌が直ったのか、王女の落ち着いた声が背後から聞こえ、足音が近づいて来る。
「は、申し訳ございま……」
後ろを振り返ようとした時、王女が俺の横に並んだ。それと同時に手を引かれた。真横で彼女が何かの言葉を発したように見えたが、それを理解することも耳に聞くことも出来なかった。でもなぜかそれが優しい言葉のように感じられた。
身体に強い風を感じた瞬間、急に目の前が明るくなり、そこは宮内の庭だと理解した。
ーー戻って来た
庭の少し先に王女のペットのライオンの姿が見えた。意味もなくホッとしたてしまった。
ーーーーーーーーー
「大丈夫?」
優しい声に自然と身体に力が入った。
視線の先にはあの青緑色の瞳が俺を見上げていた。
ーー青緑色の瞳……。
「サイラス」
突然自分の名を呼ばれ、思わず身体が動いた。王女に掴まれていた腕を、振り解いてしまった。ここに戻る際に、彼女に腕を掴まれていたことを思い出した。
混乱していた。何が起こっているのかを判断出来ずにいた。いや、何より腕を乱暴に振り解いてしまった。
「申し訳ございません」
深く頭を下げるしかなかった。短時間での度重なる無礼を許されるはずはないがこれがきっかけで護衛の任を解かれれば、と騎士としては許されない期待を抱いた。けれどその瞬間、なぜが胸が焼けつくように苦しかった。
頭を下げてから沈黙の時間が流れ、やがて王女が口を開いた。
「サイラス、頭を上げて」
少し悩んだ後、俺は頭を上げ姿勢を戻した。
「私と話す時はせめて目を見て話して欲しいの」
「……それは……不敬罪に当たります」
なぜか心臓の鼓動が速くなっている。
「……権力を使うのは好きじゃないけれど……まぁ、私はあなたの主に違いないわ。うーん、これが命令なら聞いてくれる? いや、やっぱり命令はしたくないわ……でも……」
その言葉に不思議な感覚、というより唖然とした。王に寵愛され絶大な権力を持つはずの王女が、騎士に向かって些細な命令に躊躇するとは信じがたい光景だった。王女がこれまでどのように生きてきたのかは知らないが、なぜか王女の気持ちを汲まなければと思ってしまった。
「……この宮内のみであれば……善処いたします」
その答えが俺自身の望みでもあるかのように思えた。
直後、身体に僅かな振動を感じた。
「本当に?」
貴族のマナーなど関係なく騎士の両腕を掴み、美しく輝く瞳で無邪気に見つめてくるその人を国の王女という身分に当てはめることは正直難しいと感じた。
奴隷出身の自分が言えることではないが、こんな些細なことで喜ぶ王女を目の当たりにし、畏れ多くも憐れみの感情を抱いた。何をするにも窮屈な王宮でましてや誰よりも愛されている王の娘となれば全てにおいて制限が設けられ、王宮内で唯一別世界のように感じるこの宮中であれば、この人は自由に生きることが出来るのかもしれない。王女という高貴な身分でさえ、いつかは政治的利用される世界に放り出されてしまう弱い存在。そしてそれを変えることなどは不可能だと、王女自身が一番理解しているはずだ。
「……言ったそばから視線を外すのはどうして?」
真っ直ぐに向けられた王女の瞳に耐えられず、俺は視線を外してしまっていた。
「……王女様。その……無闇に他人の身体に触れるのはお控えくださると……」
今となっては自ら王女の手を振り解くことは出来ないため、顔を明後日の方向に向けながら王女に伝えた。
両腕から王女の手の感触が消えたかと思った瞬間、その手がいつの間にか俺の両頬を覆い、横を向いていた俺の顔をぐりんと回された。無理矢理そうされたかのように思えたが、その手はとても優しく感じられた。
目の前で輝く青緑色の美しい瞳と自分の視線が交差した。
「……約束して。この宮では対等でいて欲しいの。……これは決して命令ではないわ」
命令ではない、まるで懇願するようにその瞳は揺れていた。そして真剣だった。
「それでも私が言うことは……どうしたって命令に聞こえてしまうでしょうけれど」
伏目がちの瞳に影が落ちていく。
王女の手によって両頬を押さえられた状態で声を発することが出来ず、俺はただ頷くことにした。
「あぁ、ごめんなさい」
俺が声を出せないことに気づき、王女が慌てて手を離す。
ーー王族が騎士に謝るなど……。
彼女の瞳を真正面から見ることにした。己の出す答えが嘘ではないとせめて伝わって欲しかったからだ。
「この宮内で、ということでしたら……お約束出来ます」
その言葉に彼女の顔はみるみる明るくなっていった。まるで花が咲くように、子供が喜びを身体いっぱいで表すかのように満面の笑みを見せた。
「約束よ!!」
それから彼女はしばらくニコニコしていた。俺はどうしていいか分からず、ただその笑顔を見つめていた。その時俺が笑えていたかどうかは定かではない。
「あ! もう行かなきゃ!」
王女は何かを思い出したかのように宮に向かって歩き出した。
「サイラス、さっそくついて来て欲しい所があるの。準備しましょう」
この短時間に起きた出来事など忘れてしまったかのように彼女は颯爽と庭を進んでいく。いまだに全状況を飲み込むことの出来ずにいる一介の騎士は呆気に取られながらも、今度こそ王女の姿を見失うまいと彼女の後に続いた。
庭に残されたアスランだけが、何とも言えない表情を浮かべながら宮に戻っていく2人を見つめていた。
ーーーーーーーーーーーーー
侍女のラーレにサイラスの外出の準備を任せ、その間に書斎にて複数の書類に目を通していた。街に出回っている最新の新聞や近隣諸国との政治経済情報を頭に叩き込んでいた。
そこに思ったよりも大分早く、侍女のラーレが姿を現した。
「サラ様、サイラス様のお支度が整いましたのでご確認くださいませ」
「もう準備出来たの? さすがね」
書類を引き出しに戻し、私はラーレと共に書斎を出た。
廊下を歩きながらラーレが珍しく顔をしかめながら話し始めた。
「私の腕を持ってしても、今回ばかりは難しかったです。何しろあの美貌ですからね……」
「あぁ、そういう意味?」
ラーレはその通り!!というように細い首をブンブンと上下に振って答えた。
「私は何かを美しくすることには自信を持っていますが、まさかその逆のことをする日が来るとは思ってもいませんでした。とにかく、ご覧いただければと思います」
壮大な一仕事をやり終えたかのようにため息をつくラーレを見ながら、私は改めて思った。
ーーこの子は本当に17歳の女の子なの? 尊敬するほど逞しいわ……。
「サイラス様、サラ様がいらっしゃいました」
ラーレがゆっくりと部屋の扉を開けた。部屋の中央にはサイラスと思しき男性が立っており、顔をこちらに向けた。
「わぁ……」
つい声が出てしまった。
「ラーレ」
「はい、サラ様」
「やっぱりあなたは最高だわ」
「お役に立てて幸いでございます」
そう答えたラーレの口元が嬉しそうに緩んだ。その顔が自信に満ち溢れているようで、なんだか私も嬉しくなった。
私は部屋の中央に立つサイラスに近づき、360度くまなく見て回った。サイラスはおろか何故かラーレも口を開こうとせず、サイラスに至っては息を止めているかのように直立不動だった。1分にも満たないその時間がまるで商品の品評会のような緊張感で張り詰めていた。緊張していたのはもちろん、私以外の2人だけれど。
「サイラス」
「はい」
「本当にサイラスなのね? 別人だわ」
「はい……。私自身も驚いています」
私はサイラスを街に連れて行くために、彼の変装をラーレに頼んだ。これまではラーレやネリと一緒に出かけたりしていたが、近頃の隣国諸国と関係が不安定なこともあり、自国の街も不穏な空気が漂っていた。その為、最近は街への外出を控えていた。しかし私に専属騎士がついたことで外出を控える理由は無くなった。ましてサイラスの剣の腕前はイルファン騎士団長のお墨付きがあり、彼は街での護衛にもぴったりだと思っていた。何より父が直接寄越した騎士であり、その時点で私は彼を信じようと思った。話をした感じでは口数は少なく初めて会った時と変わらず無愛想な面もあるけれど、この短時間で分かったことは見た目から感じられるほど冷たい人ではないと思った。
ラーレにはサイラスを街の用心棒風に仕立てて欲しいとお願いした。身なりはそこまで汚くせず、街で暮らす女性が雇うような綺麗めの用心棒。それを聞いていたラーレはなぜかしばらくの間固まっていたのだけど、すぐにテキパキと準備に取り掛かり始めてくれて、安心して彼女に任せることが出来た。
サイラスの端正で彫刻のように美しい顔には暗めの化粧粉で肌のトーンを落とし、見せかけの傷も複数描かれていた。右眼の眼帯を隠すようにその上からターバンが巻かれ、輝くような金髪もそのターバンと黒いかつらによって完全に隠されていた。一般男性の服を着たこの人がまさか王女専属の騎士だとは誰も気づくことは出来ないだろうと思った。それほどにサイラスの美貌は完全に隠されていた。
「サイラス様、こちらを」
ラーレが部屋の奥から古びた剣をサイラスに差し出した。
「騎士団の剣を持って行かれてはすぐにバレてしまいますので、こちらをお使い下さい」
サイラスはその剣を確認しようと、鞘から抜いた。鞘はかなり古びているように見えたが、剣の刃は研ぎ終わったばかりのように鋭く強い光を放っていた。
その剣を目の当たりにして、私はなぜか胸の奥で重苦しい痛みを感じた。どこかでこの剣を見たような気がした。
ーー私、この剣を知っている? どこで見た? ……思い出せない。何故だか分からないけれど、思い出したくないーー。
「サラ様? ご気分が優れませんか?」
私を心配するラーレの声がして、我に返った。
サイラスが急いでその剣を収め、自身の背後に隠した。彼がなぜそうしたかは分からないが、私が剣を怖がったんだろうと思ったはずだ。
「……何でもないの、大丈夫。ちょっと昔を思い出してしまって」
「サラ様……」
こう言うとラーレが心配することは分かっていた。子どもの頃から何人もの人が私の前で剣によって倒れてきたことをラーレは母親のネリから聞いている。だから私には剣のトラウマがあると思っている。実際に私が剣に対してトラウマがないとは言い切れず、今の感情や動揺も一部はそれらが原因であるとは感じている。
ーーそれでも、今の感情は何……?
ラーレが不安げに私を覗き込んでいる。この子を不安にさせたくない。
「本日の外出はお控えになられた方がよろしいのでは?」
「……いつものことよ。私は大丈夫。夕食までには戻るから、よろしくね」
「ですが……」
「サイラスもいるから安心して。ラーレ、頼むわね」
ラーレはうつむき、少し考えているようだ。
「……かしこまりました。なるべく早くお戻り下さいませ」
私は物分かりの良すぎるラーレを、私は優しく抱き締めた。
そばに立つサイラスが私たちのやり取りに入れずに困っているように見えた。それが何だか可愛く見えた。
「行ってくるわね」
変装した私とサイラスは街へと続く秘密通路へと歩き出した。




