第12話 サラの記憶
第2章本編スタートです。
見渡す限りに広がる美しい砂漠地平線に沈みゆく夕陽によって赤く染められていく景色。
かつての【私】も見たはずの美しい記憶のひとつ。
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天井から差し込む淡い光が夢の中に眠る【私】を呼び起こす。軽やかな鳥たちの歌声が今日の始まりを告げる。
ーーあぁ、睡眠って本当に幸せ……。何か聞こえるけど、とっても良い気持ち……。
「サラ様!! 起きてください!! お支度の時間です!!」
ーー幸せ……。
「サラ様!! 朝です!! 時間がありません!!」
「ラーレ……。起きるから……声のトーンを下げて欲しいの」
「サラ様がすぐに起きていただければ、私が声を張り上げる必要はございません!! さあ、始めますよ」
寝起きでふにゃふにゃの私の身体をガッチリと支えながら奥の浴室へと連れていく逞しいこの子は、侍女のラーレだ。
湯浴みの準備はすでに整っていて、私はお湯に浸かってこの信頼する侍女に身を任せるのが今日最初の仕事のような気がしてきた。
ラーレに香油やら何やら色々なものを身体に塗りたくられている間、私は今日これから何か重要な出来事があっただろうかと想像してみた。けれど元々自分の家の行事についてほとんど興味のない私が、今日の予定を知る由もなかった。
「ラーレ、今日は何があるの?」
彼女は自身の仕事を機械のようにこなしながら話す。
「サラ様、一昨日から近隣諸国の王族たちが外遊を兼ねた親善会議に参加されているのはご存知でいらっしゃいますよね? 本日はその方々との昼食会がございます。昨日の朝にお伝えしておりますが」
ーーあー、聞かなきゃよかった……。
いつものようにため息が漏れる。
朝から準備するってことはそういうことね。
「サラ様が気乗りされないことは重々承知しております。ですがご安心下さい。私の仕事は他国の皇子たちがサラ様を見ることすら罪だと思わせるレベルに美しく神々しく魅惑的に仕上げることでございます。女神に手を出すなど天罰が下ると思わせるのです。それでよろしいんですよね?」
私より1つ年下の17歳の女の子から、どうしたらこんな内容の言葉がすらすらと出て来るのか本当に不思議で仕方ない。そう言えばこの子は小さな頃から口が達者だった。
「そうね、ラーレの腕を信じてる」
「お任せください、姫様」
ラーレは腕の裾をさらにまくり、自信満々でやる気に満ちた笑顔を私に見せた。
姫様……私は一応、この国の王女だ。
広大な砂漠に建つ近隣諸国の中でも、かなり大きな国の王女だ。
王女と言っても私が何番目の子供かは知らないし、私はそこに興味もない。代々生まれた王家の子の名を記した紙切れだけが王の子供達を把握しているはずだけど……それさえも真実が書かれているかは定かではない。
実際私も他の兄弟姉妹たちに会うことは滅多にない。それぞれが個人の宮で過ごしているし、広大な王宮のせいで宮から宮への移動も一苦労だ。王座を狙う皇子たちが何人もいるため、王宮内は常に緊張感で張り詰めている。ただでさえ近隣諸国との戦争が一触即発な状態の中、王宮内には心休まる場所がない。
それでも私は王宮内離れの一番端の静かな場所に住んでいて、砂漠地帯にも関わらず緑の木々や美しい花々に溢れた宮だった。離れと言ってもこの宮もそこそこ広い。私が生まれた時からここで暮らしているけれど、この敷地内でも私の知らない場所もある程だ。緊張状態の国政とはほぼ関わることなく過ごすことが出来る、唯一の場所だ。ここは5年前に亡くなった私の母が希望した通りに建てられた宮だ。
私の母は他国の踊り子で、当時国外の視察に訪れていた父に見初められたいう、まるで本に出てくるような話だ。その時父は既に結婚しており、正妻である王妃がいた。この国では一夫多妻という婚姻関係は珍しくもなく、王の新しい女性という意味では母の存在を非難される理由はなかった。ただ、母の身分という差別を除いては。
王の決定は何事においても絶対であり、父は母を妻としてこの国へと連れてきた。そして父の母に対する愛は一時的なものではなかったようで、父は母を愛していたようだ。父の母に対する愛は深く、幼い子どもの私にも感じられる場面がいくつもあった。
王宮の離れの静かなこの場所を住まいとして望んだのも母だった。この国に来るにあたり、いくつかの条件を王に突きつけたという。その相手が一国の王であれ、私の母は真っ直ぐで強い心を持ち常に平等を大切にする人だった。王だからという理由で父に媚びたりへつらう姿を見たことがなかった。もしかしたらそれも条件だったのかもしれない。そして父はそんな母を受け入れていた。むしろ父が母の言うことを聞いているようだった。
父はいつも母の名前を呼んでいた。セマ、セマと母の名前を呼ぶのが好きだったようだ。セマという母の名前には【月】という意味がある。父はいつも嬉しそうに母のことを私に話していた。
「見てごらん。サラのママは月のように美しい人なんだ。手の届かないくらいに神々しく美しい。ママはこの世界の女神のようだ。サラもママに似て美しく育つだろう」
そう言って父が母を見る顔はいつも穏やかで愛に溢れており、同じ笑顔を私にも向けてくれていた。父の膝の上に座る私を見て、母はよく笑っていた。時折父が訪れるこの宮には、いつもそんなあたたかい時間が流れていた。
王としての父を知ったのは私が7歳の時、親族の晩餐会での出来事だった。
大勢いる王族たちに囲まれて怖がる私を父は膝の上に乗せて晩餐会を過ごしていた。母は父の右側に座っており、父の左側には知らない女性が座っていた。その女の人と目が合うことは一度もかかったけれど、とても綺麗な人だった。その女性が制裁である王妃だということを知ったのは随分後になってからだ。
ことが起きたのは晩餐会終盤、時間が遅いため母と私が宮に戻ろうとした時だった。宮に戻るため、護衛のスートと共に部屋を出た時に廊下からやってきた男と私がぶつかりそうになった。母と護衛が咄嗟に私を庇ってくれたおかげで、私はその男の服に触れる程度で済んだ。しかしその直後、私たちはその男から罵声を浴びせかけられた。
「この賎民が……!! まったく汚らわしい」
その男は明らかに酒に酔っているようだった。ただ服装からして王族のひとりだった。私が触れたであろう服の部分を手で払いながら私を睨んできた。その迫力に私は怯え、恐怖で固まった。
その瞬間、護衛が母と王族の間に割って入ったと同時に母が私を自分の背中側に隠した。
「おやめください」
スートが言い、その男に立ちはだかった。
「何だその顔は? 本当のことだろう? 卑しい身分を卑しいと言っただけだ」
男は見下すように私たちを見ている。
その男の言葉の意味をまだよく分からない私でも、私たちに対して嫌悪感を抱いていることは子どもの私でも分かった。私と母がこの王宮内でよく遭遇する場面だったが、こんな風に真正面から言われたのは初めてでものすごく怖かった。
私の目の前に立つ母を見上げると、母はいつも通り堂々とした瞳でその男を見据えていた。その男と護衛のスートのやり取りは埒が開かず、母が口を開こうとした時だった。
「何を騒いでいる?」
父の声がした。振り返った先の父の姿が見え、護衛らしき人たちを従えていた。
母とその男の間に入っていたスートが後ろに下がった。
父は私の方を見て笑顔を向けてくれた。私は父が助けに来てくれたのだと思った。
私たちを見回した後、父は再度口を開いた。
「セマ、何があった?」
父が母にかけた言葉はあくまで優しかった。
「それが……」
母の言葉を遮り、男が話し始めた。
「王……!! 何でもございません!! ただ私が姫とぶつかりそうにな……」
「黙れ」
父の声は冷たかった。場は静まり返り、目の前の男がブルブルと震え出した。さっきまで怒りで真っ赤だった男の顔は、血の気が引いて青くなっている。
「セマ」
「……私とサラを賎民で汚らわしいと仰られました」
母の腰に手を回して抱きついていた私は思った。
私たちに暴言を吐いた男を真っ直ぐ見据えたまま、母は表情を変える事なく事実のみを伝えた。
「そうか。……サラ、こちらへおいで。今日は特別にパパが宮まで送ってあげよう」
急に声をかけられた私が驚いて父の方を見ると、父はその大きい腕を広げ、いつもの笑顔を見せてくれた。
私が母を見上げると、母は優しく頷いてくれた。私は安心して父の元に駆け寄った。父は私を抱き上げ、私たちの宮のある方へ足を向けた。
「サラは良い子だ。セマ、行くぞ」
父はそう言いながら片手を上げる動作をした。
その直後、父の後ろにいた護衛らしきひとりが腰についていた剣を抜いたのが見えた。
「こらこら、子どもが見るもんじゃない」
父の大きな手によって、私の視界は閉ざされた。
後ろで今までい聞いたことのない悲鳴と何かの音がした。
閉ざされた視界の外で、上機嫌な父の声が聞こえた。
「今日は良い日だ。サラが眠るまで一緒にいてあげよう」
私と母が暮らす宮までの道は自然の音とこの時間特有の心地良い風が吹いており、幼い私の眠気を誘い始めていた。
背中を優しくポンポンされながら逞しい父の腕に抱かれ、私は心地良い眠りに落ちる寸前だった。
父と母が話をしているのが聞こえる。いつも通りの優しい父の声だ。
「……君が他の者に敬語を使う必要はない。まあ、さっきの者とはもう会うこともないが……」
「私たちの前で無意味な殺生はしないと約束しましたよね? ましてやサラの前で剣を抜かせるなんて……」
「無意味ではない。私の愛する妻と娘を侮辱するような輩は必要ない。まあ、この子の前で指示したのは……申し訳ない。でも目を隠したぞ? この子は見てないはずだ」
「隠したから良いという問題ではありません!!」
「分かった分かった、私が悪かった。セマ、今後は気をつける。それが君との約束だからな」
「……」
「君と交わしたすべての約束は必ず守る。でも君とサラを守るためにやむ得ない場合もあることを理解して欲しい」
「……」
「セマ、私が悪かった。機嫌を直しておくれ。私は君との約束を破れるほどの勇気を持っていない。どうか私のそばにいて欲しい。君との間に出来たこの可愛い天使と共に、ずっと私のそばにいておくれ」
父の声だけが聞こえる。
それ以降、母の声は聞こえなかった。
しばらくして、私はふかふかのベッドに包まれる感覚がした。
「おやすみ、私の可愛い天使」
父の声がした。
誰かが私の頭を撫で、おやすみのキスをした。
ゴツゴツした手の感触からして、それは父だった。
おやすみなさい。パパ、ママ。
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セマの宮の扉が開く。
その扉の前には、王の護衛が待機している。
「王、お戻りになられますか?」
宮から出てきた王は、愛する妻と娘の眠る宮の大きな扉を見上げて小さく呟いた。
「……王である私でさえ君を縛り付けておくことが出来ないとはな」
「王?」
「……いや、何でもない」
夜空に輝く月を見ながら、王は自身の寝所へと向かった。闇夜を照らすたったひとつの月が今夜はより一層眩しく、そして遠く感じられた。
最初から分かっていたことだ。永遠に彼女を手に入れることなど出来ないことを。私たちが交わした約束さえも永遠ではないことを。
彼女はそれを知っていて、見せかけの約束を私に結ばせた。永遠の約束であることを期待したのは私だけだ。子供ができればずっと私の元にいてくれると思っていた。いや、私がそう思いたかっただけだ。
私がどんなに懇願しどんなに足掻いても、君はいつか私の前から去っていくだろう。私がそれに気づいているのに、君は今日も変わらず美しい瞳を私に向けてくる。いずれこの地を去ってしまうくせに、私を置いていってしまうくせに。
終わりが来ることを分かっていても、私が君を引き止められないことを知っているくせに、その時まで君が私の愛を必要とする理由は……。
……違う。
君が消えてしまうその直前まで愛が欲しくてたまらないのは、この私だ。
いつか君が自由になるその日まで私はただ、君を愛するだけーー。




