カウルエン家のソウシーン<三>
ナイエン貴族は邸宅は、北に当主とその家族が住む屋敷があり、東に一部の親族が起居しており、西に商会幹部の事務室と使用人の部屋がある。南は商会連合の館であり、当主とその庇護下にある者との面談の場でもある。だいたい海侯は午前中に商会連合からの報告や様々な人々からの陳情を聞く。
ソウシーンが通されたのは中庭の池に面した東屋である。
「あっ」
とミーシェが少し驚いた声を上げる。それは人の背ほどある透明な石の塊が4本立てられており、そこから放たれた冷気が彼女に届いたからであった。
「補佐官殿は氷塊を見るのは初めてだったかな、触ってごらんなさい。」
奥の椅子に掛けた50を越えたかどうかという風貌の男が語り掛ける。ナイエン人らしい日に焼けた肌と逞しい体躯のを持ったこの男が、トールエン海侯カギウルその人である。
「今日は少し蒸すから、こいつにこさえさせたのさ。」
となりに控える白い肌を持つ異国の女性を見る。彼女はトールエン|海侯家の秘書の肩書を持つ。年のころはソウシーンより少し上といったところか。
「ソウシーン殿、笑ってください。大学で主席を極めた私の魔術は、ご当主の遊び道具です。もう少しすると氷が食べたいと毎日作らされるのです。」
「氷を砕いて果物をとあえたものに砂糖水をかけて食べると、これが絶品でな。」
カギウルは氷を食べるしぐさをしながら豪快に肩を動かしながらしゃべる。
「それは難儀なことですね。しかし、これだけの氷塊をお作りになられるのは、アジズ先生くらいでしょう。この規模の創出は他の氷師であれば下手したら命を落とします。」
魔術自体はそれほど珍しいものではなく、ナイエンでは3人に1人はこの才能を持って生まれる。しかし、多くの人は万物に対して極めて微細な干渉しかできず、軍事はもちろん生活の足しにもならない。たとえば、火の才能を持つ者がいたとしても、焚火の種火を作ることはできても、火炎を巻き上げるのはもちろん、肉さえも焼くことはできない。だから、アジズの氷の魔術はこの世界においては異常な段階にあると言ってよい。
ただ、彼女の才能は社会的に高く評価されるわけではない。創出には時間はかかるし、氷塊をぶつけるというような利用も難しい。大陸で氷を売るとしたら、彼女に氷を作らせるより、氷山から氷塊を切り出してきたほうが効率がよい。それでも氷をほとんど見かけることがない温暖なナイエンでは彼女の才能は貴重なもので、ひと財産築くために彼女は大学から単身ナイエンに渡ってきたのだった。しかし、たくましいナイエン商人に買い叩かれ、衣食を提供する代わりに格安の長期取引契約を結ばされ、馬車馬のように氷を作らされるはめとなった。数年後、この噂を聞いたカギウルに拾われ、現在は彼の秘書として雇われている。
ナイエンにおいては契約は非常に重いものであるが、あまりにも一方的であるものは、貴族権限により反故にできる。これは健全な市場を維持するためのナイエンの仕組みである。なお貴族の言い分に不服がある場合は証文館に訴え出ることもできる。
ソウシーンがかつてこの仕組みを外国の学者に説明したときは非常に驚かれたものである。なぜなら多くの国の法が貴族の権限を抑制するために生まれたからである。つまり、他国の者から見れば法がまともに機能しない前時代的な異常な国となる。だが実際のところこの権限は濫用の傾向はない。それは権限の行使が貴族間、商会間の対立を引き起こすことを貴族たちは熟知しており、権限の発動がそれぞれの足の引っ張り合いになることを忌避しているからだ。特にトールエン家をはじめとする上位海侯は健全な市場の維持に目をとがらせている。公正な競争の方が豊富な資金力、人材、販路を持つ彼らに有利であることを知っているからだ。
よって、カギウルが権限を行使する際にもちょっとした手管を弄した。この介入の意図は正義感でも、損得勘定でもなく、ただ女性としてのアジズに興味を持ったと噂された。つまり意中の女性の気を引くために権限を使ったと面白半分に捉えられていた。カギウルとしては国内最大の海侯としての介入であったが、どんな末端の商人でもいずれかの海侯・丘侯に繋がっているので、余計な対立が起きないために、以上のような噂をあえて流したのだったのだ。しかしながら、アジズの生活の面倒を見るうちに、両者に情がわいてしまい、非公式ながら大人の関係になっており、子どもも儲けている。
「補佐官殿、もっと蒸すようになったら氷を食べに来るがよい、ついでに何人か花婿候補も紹介しよう。」
「え、、、あ、、、」
氷塊を触っていたミーシェは驚いて、顔を赤くしながら主人に顔を向ける。
「安心しろ、海侯のこういうお方だ、話半分に聞いておけ。」
「館長殿はひどいお方だ、ナイエンの最大の海侯カギウルに二言あるという。補佐官殿はどんな男性がお好みかな。」
カギウルとしては若輩のミーシェをからかっているだけなのであるが、彼の力を持ってすれば明日にでも2-3人の花婿候補を用意するのは簡単なことである。それが分かるミーシェとしては急な展開にたじろぐだけであり、氷を触ったまま硬直している。
カギウルの若者いじめはなおも続く。交易者としても、貴族としても、そして商会長としても百戦錬磨のカギウルに、まだ若い事務官であるミーシェがかなうはずもない。そして、カギウルはソウシーンも知らない彼女の好みを聞き出すことに成功した。
「私としては博識で誠実な方が、、、できれば海に出ない方が。」
カギウルは今度はソウシーンの方を向いてにやにやする。
「そういえば、館長の嫁も紹介しないとな。館長はどんな女性がお好みかな。それとも紹介せずとも間に合っておるのかな」
「ソウシーン殿に失礼ですよ。」
アジズが口をはさむ。
「私が秘書官を娶っては、民衆が新しい貴族文化と勘違いされてしまうでしょう。すでに前例がありますから。」
ソウシーンは表情を変えずに言い返した。
「あいかわらずつまらぬ男よ。」
カギウルとの付き合いは、20年前にソウシーンがカウルエン家を継承した際の挨拶からであったが、彼もまた餌食となった。正直なところ、ソウシーンはこうしたからかいの対象としては面白味にかけるのだが、カギウルはナイエン人の中では毛色の違う彼を気に入り、積極的に支援した。没落寸前のカウルエン家がなんとか建て直せたのはカギウルの存在が大きい。恩人にこうした軽口を叩けるようになったのもここ数年のことである。
「さてさて興も冷めたな。副官殿、アジズの話し相手を頼めるかな、奥で館長と内々の話があるでな。」
カギウルは腰を上げ、北館の執務室に向かった。